Episode 5 Muskrat Love ―― マスクラット・ラヴ

Ep.5 CAMERA EYE 1

 光量を最小限に落としているからこそ、ゴージャスで極上の居心地のよさを感じさせる空間というものがある。一流インテリアデザイナーによってしつらえられたその場所にいかにもふさわしいドレス姿の女が、深々としたソファにもたれている。


 生地にほどこされた微細なきらめきが、優雅な動作につれて夜の湖面のさざ波のように揺れ、その豊満な肉体を夢幻のように浮かび上がらせる。ドレスは片方の肩から吊られているだけで、香油を塗り込めたらしいむき出しの肌がスポットライトになまめかしく照り映え、そのわずかな露出部分のみで男心を悩殺するには十分である。


 女はつと前に身を乗り出すと、白く長い腕を伸ばした。

 パチン――

 その手が小さな音を立てた。


 とても〝張り手〟とはいえない、〝ビンタ〟というにも迫力不足な一撃に、しかし、くらわされた男は全身をビクッと震わせた。男は全裸で、鉄の首かせをはめられ、それがクサリで両手の手錠とつながれ、床の上に正座させられている。


 パチッ――

 また女の手が男の頰を打った。

「なんてうかつなことをしたの」


 パシッ――

「なんて先走ったまねを」


 パシッ、パシッ――

 怒りが高ぶるにつれて音もしだいに高くなる。


「お、お許しください!」

 パシッ、パシッ、パシッ、パシッ、パシッ、パシッ――

 女は執拗にその動作をくり返す。


 いたぶられているほうは、眼を閉じたり顔をそむけるほどの強さではないだけに、屈辱感はよけいに増していく。


 バシッ――

 投げ捨てるようにこころもち強い一撃を放つと、女はついに飽きて手を止めた。

 男が顔をゆがめたのは、平手打ちの痛みのためではなく、足に負った傷と全身につけられた青アザがうずいたためだ。背中には点々とクギで刺されたような傷跡も残っている。


「みっともないほど急所をみごとに突かれているわね。あいつにはくれぐれも注意するようにと警告したはずよ。三〇年前、あの『若』を一対一の戦いで倒した唯一の男だと言わなかったかしら」

 女の口調は穏やかだが、はっきりと嘲弄するような響きが込められている。


「で、ですが、やつには昔の面影などまるでなく、ひょろひょろした頼りない中年男にしか見えなかったもので……」

 男は哀願するような眼で必死に女に言い訳する。

「だからよけいな深入りをして、手傷を負わされたあげく、不法侵入の証拠にご丁寧に拳銃まで残してきたというわけ? ああ、一人でなど行かせるのではなかったわ!」

 女の怒りは悩ましく自分自身に向けられて、いらだたしい後悔となる。血のように赤くくまどられた薄い唇を思わず噛む。


「……やつのせいばかりではありません。病院じゅうに侵入者にそなえてトラップが仕掛けられていたのです。それが作動したとたん、窓には鉄格子が降り、ドアというドアはロックされて、逃走することもできなくなってしまいました」

「ほう、それは知らなかった……とてもそんな用心深い男には思えなかったのに」


「幸いなことに……というか、やつの仲間が現れ、戦っているうちにやつらのほうがまぬけにもつぎつぎトラップに引っかかってくれましたが、わたしも足を負傷してしまいました。こうなったらやつの娘を人質にして、と……」

「ふん。それであいつに反対に撃退され、おめおめともどってきたってわけね。この程度の成果しか上げられずに」

 女は手にした盗聴用の録音機をもてあそんでいる。聞いた内容は、会話している二人にはいくら深刻で重大な事柄だったとしても、女にとっては決定的な重要情報と言えるほどのものではなかった。


「こうなってしまっては、やつらクルセイダーズは一挙に警戒を強めるでしょう。何らかの動きに出るかもしれない。そうなってからでは遅すぎる……もう、あの娘を尾行してこの数日で集めた情報とともに『若』にすべてをご報告するしかないわ。でも、それでは私の手柄になるどころか、みじめな失態をさらすことになってしまうだけ。あの方は小さなミスでもけっして許しはしないでしょう」


 すると、部屋の隅の深い暗闇から、一つの声が聞こえる。

「ミス・ランドルフ……」

「何?」


「われわれに与えられた本来の任務は、戦略上不可欠なものとはいえ、聖エルザを極秘に監視するという消極的なものにすぎませんでした」

「そうよ。毎日毎日、たいして変化のない風景を見下ろして、こまごまとしたつまらない出来事をチェックするばかり。その合間を盗んでおまえたちとちょっとした気晴らしのアバンチュールを楽しむくらいしかできない退屈な仕事だわ」


「ですが、今回の臨時の任務はちがいます」

 女は長い首を大きくうなずかせた。

「そうだったわね。たまたまあの方の腹心の柴田が同席しているときに宇奈月の娘が現れ、空手部の三人と接触を持ったものだから、柴田の判断でやつらを尾行するという緊急の任務が私たちに与えられたのよ」


「たかが中学生の娘とまぬけな三人組の動きを見張るくらいのことなら本部の手をわずらわすまでもあるまいと、柴田さんもたかをくくっていたのでしょうが……」

「ええ。私だって、小娘にあれほど行動力があって、クルセイダーズや昔の空手部の連中まで巻き込んでいくとは思わなかったわ。おかげで〝恋文屋ローレンス〟なんて者が実在することもわかってきた……」

 女は、手のひらの録音機にあらためて眼を落とす。


「ローレンスとはいったい何者なのです?」

 もう一つの声が反対側の壁際から問いかける。

「聖エルザの教師時代にもその名は耳にしてはいたけど、女子校ならどこにでもよくある都市伝説――どうせ、若い娘たちの甘ったるいロマンチシズムや空想癖が作り上げた、幽霊とか妖精なんかのたぐいの架空の人物にすぎないと思っていたのよ。でも、レオポルド教授や宇奈月京平が言うところによれば、その男は実在するばかりか、長年にわたって聖エルザに巣食い、密かにいくつもの犯罪に手を染めてきたという……となれば、話はちがってくるわね。もしかしたら、われわれがクルセイダーズの連中に味わわされた、過去のひどい屈辱を晴らす重要な手掛かりを握っている可能性もある」


「その通りです。宇奈月の娘は、本当の母親がだれかを知るためにローレンスを探そうとしています。なら、その先回りをして、ローレンスをわれわれの手で捕らえてはどうでしょう? 調査結果を本部にただ報告するだけでは失態とみなされるかもしれませんが、組織の中で冷や飯を食わされてきたわれわれにとって、これは名誉を挽回する絶好のチャンスですぞ」

「ふん。でも、そんな雲をつかむようなことがどうやったらできて? 私たちには、あの娘が調べたらしい聖エルザの秘密文書にすら近づくことができないというのに」


 すると、部屋のまた別の一角から声がする。

「いえ、そうとばかりはかぎりません。宇奈月の口ぶりからすると、もしかしてやつがローレンスと連絡を取る方法を知っている可能性もあります。病院の建物の物騒な仕掛けがわかった今なら、われわれ全員で襲撃すればやつ一人を捕らえることは不可能ではない。拷問してでもその方法を吐かせてみせます」


「ま、待ってください……!」

 首輪をつけられた全裸の男が、身体を伸び上がらせるようにして女に訴えかける。

「俺は病院の二階の寝室にひそみ、階下の会話を盗聴していました。そのとき、ベッドのかたわらにケータイを見つけたのです。不用心なあいつがロックなどかけているはずもない。ふと思いついて、娘との話題に出てきた『ローレンス』の名を通信履歴で調べてみると、たしかにそれが残っていました――」


「本当なの?」

 女が声を荒げて身を乗り出す。

「ええ、ちゃんと番号も記憶しています」

 男がうって変わって得意そうにうなずく。


「そうとなったら……」

 女はらんらんと眼を輝かせ、勢いよく立ち上がる。

「やっぱり、私たちだけでやるのよ。もし成功すれば、汚名挽回どころじゃない。とんでもない大手柄になるわ」


 こんどは窓辺の観葉植物の陰から、別の声が聞こえる。

「ですが、その男にどう持ちかけます? そいつがどのような人間か、顔や年齢が不詳なばかりか、行動の意図も立ち位置も不明な相手ですぞ」

「私が直接誘いかけるわ。〝恋文屋〟なんて自称するくらいなんですもの、魅力的な女が興味深い話を持ちかけてくればきっと反応するはずよ」

「たしかに――」


「そう……うまくローレンスをたらし込めれば、聖エルザの過去に秘められた恥部や汚点の数々をえぐり出し、世間に洗いざらい暴露することも……。そうなれば、学園を完全に崩壊させるというわれわれの長年の悲願を、ついに果たせるかもしれない!」

 胸の高ぶりを抑えきれないとでもいうように、女はドレスの肩のストラップを引きちぎるように解く。ドレスはあっさりと白いやわ肌をすべり落ちる。下着一枚身につけていない裸体が、うす暗いゴージャスな空間に浮かび上がる。


「どんな男か知らないけれど、私の魅力にあらがえる者などいやしない」

 女は妖艶な笑みを浮かべ、ひざまずいた男の首を抱えてみごとにくびれた腹部に押しつける。男は恍惚とした表情で柔らかい肌に頰をすりつける。


 すると、部屋の四隅から、暗闇にひそんでいた黒スーツの男たちがゆっくりと姿を現す。そして忍び寄るように女の周りを取り囲むと、あらわな肉体に思い思いに手を伸ばし、ヘビのような淫靡さではい回らせていく。

 女の表情が満ち足りた恍惚へと変化していくのがわかる。


 フェイド・アウト――

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