とある小説家の独白
編集者との打ち合わせの帰り、「よし、死のう」と小説家は自殺を決意した。
なにも突発的に思い付いたものではない。前々から考えていたことだった。
ただ、今回の打ち合わせが最後の後押しとなったにすぎない。
小説家はずっと悩んでいた。漠然とこれでいいのだろうかと。プロットは悉く没を食らうし、1本書き上げればやれキャラが薄い何が伝えたいかわからないと指摘を受ける。
今日だってそうだ。
「この話の主題ってなんですか」
「これ、何処の層狙ってますか。うちの読者層には合わないんじゃないかな」
「貴方の作品にはインパクトが足りないんですよ」
小説家はただそれらに対して「すみません」とだけ返す。
編集者は短く息を溢した。
もうここ数年そんな堂々巡りで出版にすら漕ぎ着けていない。自分には才能がないのだろうと思う。書くことが好きで、想像することが好きで、誰かに自分の考えを面白い楽しかったといって存在を肯定してほしい。その一心でこれまでやって来た。だが今はどうだ。書くことが義務のようになってしまっている。こう書くことが正しい、読者が求めているのはこんな話だ。面白い話を書かなくてはいけない。そんなことばかり考えている。そうこうしているうちに小説家は自分が一体なにを書きたかったのか分からなくなってしまった。
小説家はずっと小説のことだけを考えて生きてきた。そんな自分から小説を取ってしまったとき、果たしてそこに何が残るのだろうか。
そこにはなにもなかった。
自分の人生は全て小説の為に生きてきたものだった。友達と云うものと他人が遊んでいるときもひたすら物語を書き続けた。周りの者が恋というものにうつつを抜かしているときも小説家はひたすら筆を動かした。
ただの若造がいきり立ち過ごしてきた日々は、全て小説の為だけに使われてきた。
友達と呼べるものも、恋人と呼べるものもこれまでの人生、小説家にはなにもいなかった。自分には小説さえあれば良かったのだから。その他の事など興味は微塵もなかったのだ。
だが、この状況はどうだろう。全てをなげうって捧げてきた人生。自分から小説を取ったときに残るもの、それは〝無〟だ。
だから、小説が書けない自分にはなにも価値がないのだ。
こうも自分はなにも持っていないのだと思い至った小説家の手には今、ロープが握られている。細すぎてもだめだ、太すぎてもだめだろう。調度いいものが分からなかったから自分の親指くらいの太さのものにした。
それを括りつけられそうな場所を探して部屋の中を見回す。ドアノブ、梁、机……。思ったより思いつかないものだなと思う。定番の梁でいいかと、そこへロープを括りつけていく。天井が低い為、手を伸ばせば届く高さではあったが、ドアノブでもなんとかなるのだ、まぁ脚を投げ出せば事足りるだろう。足場にビニールをひき、ロープが解けない事を何度も確かめて作った輪っかに首を通した。
調度そのとき、ジリジリと家電が鳴り始めた。初期設定のコール音は何処か冷たく部屋に響いた。この番号を知っているのは編集者くらいしかない。どうせ先程の指摘の続きだろう。もう今更自分には関係のないことだが。
脚を投げ出すとロープがキシリと音を漏らした。
首が圧迫される感覚。少しだけ息がしやすくなったかと思うとすぐに自分の重みでずれたロープが今度はリンパの辺りに食い込んで頭に血を留めていく。唇が痺れる。
知らないうちに遠く聞こえていたコール音は止み、留守電に切り替わる。
やがて編集者の詰まらなそうな声色が聞こえてくる。
「さっき伝え忘れたことお伝えしておきますね」
そう切り出された言葉が、ロープの軋む音に混じって聞こえてくる。
用件のみ淡々と告げられる編集者の声。
ロープの長さのせいか、自分の体重が軽いからか、変に力の入った身体では中々死ねない。それがもどかしい。
そうしている間にも淡々と編集者は用件を告げている。そうして少しだけ躊躇われる様に言い淀んでから
「色々いっちゃいましたが僕、結構先生の話好きなんですよ。だから次の話も楽しみにしてます」
柔らかい声色を混じらせ、編集者はいう。
意外だった。それなりの付き合いがあったがそんなことを言われたのは初めてだった。
誰かに自分の考えを面白い楽しかったといって存在を肯定してほしい、ずっとそう思ってきた。それが初めて認められた気がした。これまで駆けていた自分の人生は間違ってはいなかったのだとそう思えた。
あぁ、死にたくないな、と力の抜けた身体を投げ出してそう思った。
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