泡沫



 顔色悪いよ、と友人に顔を覗かれ、そういえば今は休日で、友人と2人食事に出かけたのだということを寝起きのような靄のかかった頭で思い出した。

「あぁ、ごめん、まだ頭が仕事してたわ」

「もう……。昨日まで何勤してたのよ」

「いやぁ、何勤だったかなぁ」

 勤務日数なんて数えることを止めてしまった。久々の休みだというのに少しも気分が晴れやしない。

「ねぇアンタちゃんと寝てる?」

「大丈夫だって、寝てる寝てる」

「そういう奴に限ってちゃんと眠ってないのよ。特にアンタはご飯をちゃんと食べてないのに食べてるなんて言ってた前科があるんだから」

 そういって友人はお米だけを食べ「ご飯を食べた」といっていた私に対する嫌味を言い始める。単品を食べてたってそれはご飯といわないの。バランスよく食べて初めて食事をしたことになるんだからね、と先日繰り返し私に説教した内容をまたぐちぐちと言ってくる。……いや、ちゃんとわかってはいる。心配してくれているってことも、大切に想ってくれているということも。だから、その瞳の奥が揺れているのも酷く申し訳ない気持ちになるんだ。

「ふぅ、誘っておいてなんだけどもう今日はお開きにしよ。アンタ顔色悪すぎ」

「……うん、わかった。折角付き合ってくれたのにごめんね」

「───はぁ、もう。とりあえず帰ったらゆっくり風呂にでも浸かりな」

 少しはリラックスできるんじゃない?

 そういって別れ際友人は綺麗にラッピングされたピンクの包みを渡してきた。帰宅して中を開けるとそれは入浴剤だった。

「半強制的に湯船に浸かれってことか」

 そんな時間が勿体ないからと普段はシャワーで済ませているけど、たまには風呂に浸かるのもいいかもしれない。こんな物でも貰わないともう湯船に入る気すら起こらない。

 湯を張りながら身支度を済ませ、貰った入浴剤を入れる。

 あ、これなんの香りだったっけ。咽返るような花の匂いに少し頭がくらくらする。黄色く染まっていく湯船をかき混ぜながら

「どうせだ、溜めながら入ってしまえば時間効率もいいだろ」

 そう誰にいうでもなく呟いてからまだ溜まるはずのない湯船に身体を投げ込む。

 ドドドドと音を立て増えていくまだ水量の少ない湯船に深く潜りこむように身体を丸める。そのせいで普段目を逸らしていた怠惰な身体が視界に入る。

 だが、まぁ大きく肥大化した腹部も、湯船に埋もれて揺蕩う今なら胎児のふくよかな可愛らしい腹に見えなくもない。ほら、ゴツゴツのこの手だって。

 そう苦笑してそっと目を閉じる。ドドドドと音を立てる水音に意識を集中させながら、遠のく意識の中で、あぁ、コレ、カモミールだったわ、そう思った。

 ───どどどどどど。

 揺らぐ身体をなされるがままに委ねる。

 あぁ、温かくて気持ちいいや。

 いつかいた母親の胎内はこんな感じだったのだろうか。そんなことを思う。

 どどどどと変わらず遠くに聞こえる音の向こうから、いつか聞いたことのある音が聞こえている気がする。

 そんなのどうだっていいじゃない。

 そうだ、今はまだこの心地いい微睡みに包まれていたい。

 何故かはわからない。ここから出たら駄目な気がするんだ。

 誰かがそういってたんだけ?

 いや、誰にも言われていない気がする。

 変わらず遠くのその音は響いている。

 それどころか近づいてきている気さえする。

 あぁ、もうなんなんだよ。なんで邪魔するの!

 意識をそちらに持っていかれた瞬間───、それがスマホの音だと気がつく。

 寝坊した!

 沈み切っていた身体が勢いよく飛び出す。まだ尚水音はどどどどと鳴いていた。

 あれはもしかして会社からの電話か。やばいやばいやばい。

 謝罪の言葉と言い訳が瞬時に脳内を巡る。

 どうしよう、まずは電話に出て謝って、電車乗り換え調べきゃ、あぁ今日は取引先との打ち合わせだったっけ。何着ていくんだっけ。

 変わらず怒鳴るように響くスマホの音に急き立てられるように、奪い取るように掴んだスマホのディスプレイを覗く。

 あ。

「……あぁ……、もうなんなんだよ」

 画面にはアラームの文字。時刻はまだAM5:00。

 膝から崩れ落ちるようにその場にへたり込んでしまった。

 碌に身体を拭きもせずここまで来たせいで振り返った床は酷いありさまだった。

 あぁ、クソ。

 小さく舌打ちをしてアラームを切る。

 どどどどと向こうから聞こえる水温に、重い腰を上げふらふらと風呂場に向かう。湯船から溢れかえっている惨状に深く息を吐いて蛇口をひねる。と、ふと、伸ばした腕の向こうで、水面を見た。

 そこに映るのは疲れ切った酷い顔をした女の姿だった。

「……何処までも社畜なんだな私」

 そう小さく笑って、まだ死ねなかったか、と小さく呟いた。



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