映画館



 穴場だとネット上で噂されていた古いある映画館があった。

 B級映画メインのリバイバル上映ばかりする劇場だったが、上映作品はなんとも趣味の良いチョイスをしている。映画好きなら堪らないタイトルばかりが並んでいた。ネットの書き込みには、そんな映画館だから人も少なく、またどの作品も見事なチョイス過ぎて帰れなくなってしまう、なんてものもあった。

 その映画館の名は〝RACON〟という。

 1度でいいから行ってみたいなんて思っていたが、詳しい場所まではどの書き込みにも記されてはいなかった。噂なのだからそもそもそんな映画館が存在しない可能性だってあるわけだ。所詮夢物語なのだと書き込むやつもいた。俺もそう思う1人だった。確かにあればいい。興奮する。でも、そんな夢のような映画館あるならもっと映画好きの仲間内で話題になっていてもいいんじゃないだろうか。誰1人、その詳しい場所を知らず、あぁなのだこうなのだと絵空事のようなことしか語らない。

 所詮誰かの悪ふざけから始まった噂だろう。そう思っていた。

 ついさっきまでは。

 今俺の目の前には古めかしい映画館が建っている。入り口の掲示板には「本日の上映作品」と筆で書かれたPOPといくらか色褪せた映画のポスターが飾られていた。その横にRACON、そう書かれた看板が掛けられていた。

 俄かには信じられず、入り口前で右往左往する。そうして大きく息を吐いて、もう1度看板を見つめてみる。確かにそこにはRACONの文字があった。まさか、まさか、こんなところでお目にかかれるとは思いもしなかった。ただの噂だと、諦めていたのに。逸る気持ちを抑えながら俺は映画館の扉を開いた。

 扉の先にはカウンターがあり、そこには店員と思われる物静かな老人が立っていた。

「次の作品まであと10分です。観られますか?」

 抑揚もない淡々とした口ぶりで声を掛けられた。勿論観ていくとも。料金を支払い、チケットを受け取ると早々に座席に向かう。

 噂通り、お客は1人もおらず、俺は悠々自適にど真ん中の席に腰掛けた。

 やがて辺りが暗くなりスクリーンに映像が映し出された。

 今回の作品はマニアの間では傑作と誉高い洋画のラブロマンス作品だ。主人公は幼馴染と親友との間で心揺れ動き、兄の何気ない言葉で自身の気持ちに気付いていくというチープな設定のストーリーなのだが、細かなネタを詰め込んだ脚本とカメラワークの素晴らしさ、そして俳優の演技力は息を呑むほどだ。低予算で作られているので全体的にお粗末な仕上がりなのがとても残念で仕方ない。

 スクリーンでは主人公の兄が真面目な顔をして何処かズレた発言をして周りを掻き乱していた。くくくっと抑えるように笑っていると、右斜め前方から同じ様に笑う誰かの声が聞こえた。いつの間にか他にも客が入っていたらしい。しかも、俺と同じシーンで笑うとはこいつは分かっているじゃないか。

 映画を観に行っても、周りと違うタイミングで笑ったり泣いたりするやつがいる。それについて否定するつもりはないが、自分と感性の違うところで喜怒哀楽の表現をされるとどうも気になって映画に集中できない。その点こいつは同じ感性の持ち主らしい。親友が病気で倒れるシーンでは鼻を啜る音が聞こえ、幼馴染のカーレースのようなドライビングテクニックで街中を駆けるシーンには同じような感嘆を漏らしていた。まあ、こんな映画館のリバイバルを観に来ている奴だ。同類だろう。

そうして俺は再度映画に集中した。

 やがてクライマックスに差し掛かる頃。

「君を帰したくない」

 親友が主人公の手を強く握った。この後主人公は少しだけ躊躇して親友の胸に飛び込み「帰りたくない」と一筋の涙を流す。

 展開がわかっていてもどうしても主人公の言葉が出るまで息を呑んでしまう。今か今かと体中に力が入る。主人公の口が開いたかと思うと───

「帰りたい」

 左隣の方から声がした。

 誰だ、一体。それはどういう意味だ。そもそも鑑賞中に喋るなんてマナーがなってないんじゃないのか。つまらないなら初めから観に来るなよ。

 キッと睨み付けるような鋭い視線を隣に向ける。

 が、誰も居ない。

 あれ、と思う。

 そうだよ、上映中に誰かが隣に座った気配なんてなかったじゃないか。いくら映画に集中していようが隣に誰かが来れば気配でさすがにわかるはずだ。ならば、空耳だったのかもしれない。人が殆どいないから音響の反響が直接隣から来たのかもしれない。視線を前に向けた。

 スクリーンではまた、親友が主人公の手を強く握っていた。主人公は少しだけ躊躇して親友の胸に飛び込む。そうして「帰りたくない」と一筋の涙を──。

「帰りたい」

 今度は少し後ろの方から声が聞こえた。

 スクリーンではまた、親友が主人公の手を強く握っていた。主人公は少しだけ躊躇して親友の胸に飛び込む。そうして「帰りたくない」と一筋の涙を──。

 壊れたレコードのように同じシーンが繰り返される。

 その度に「帰りたい」の言葉は誰も座っている気配のない他方の座席のところから聞こえてくる。

 帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい。

 もう誰の声か、誰の言葉か曖昧になる程繰り返される。繰り返されて繰り返されて、不意に親友の台詞が変わった。

「君を離したくない」

 親友が主人公の手を取ろうとする瞬間、突き飛ばされるように勢いよく席から立ちあがり、縺れる脚をどうにか前に前に出し転がるようにして映画館を急いで後にした。

 息を乱し、振り返ったときには映画館の姿などもうどこにもなかった。

 俺に残ったのは、何かを置いてきてしまったような虚無感と映画館を出るときに聞こえた店員の無機質な「ありがとうございました」の声だけが何故か耳にこびり付いて離れなかった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る