第四十九楽曲 第三節

 ――ヤバッ! 弦が切れた!


 美和の顔が青ざめた。美和はそれを誤魔化すように俯いて演奏を続けた。弦が切れることはよくある。それでもステージでは初めてのことだった。しかも切れたのはよりによって2弦。更にはこの曲のギターソロもこれからで、2弦はそのギターソロで多用される。


「あ……」


 ステージ袖は上手側にあり、そこにいる大和は美和の顔の周りを舞う小さな光を視認して状況を把握した。切れた弦は美和のレスポールのヘッドから暴れ、スポットライトの光を吸収してさ迷っていた。


「ん?」


 大和がすかさず動いたので杏里は首を傾げる。恐らく前列の観客の中には気づいている者もいるかもしれない。実際、ギタリストの響輝と勝は気づいている。とは言え、上手側は備糸高校の生徒が多いので、気づいている者は少ないだろう。

 大和は持ち込んであった自身のギターを引っ張り出すと、すぐさまチューニングを始めた。このギターはステージ袖にギタースタンドを使って立てかけられていた。


 しかしその間も曲は進む。止めることは許されない。顔を俯けた状態の美和は徐々にパニックになる。弦が切れたくらいのことでとも思うが、如何せん初めてのワンマンライブだ。動揺している。

 そんな中、曲はギターソロに移行する。低音域から入るギターソロではあるが、後にそれは高音域に移り、2弦は重要な音を構築する。いつもなら確かにある手応えと感触がない。それが感覚を狂わせ、リズム感を奪い、感性を削ぎ落とした。


 ――あれ?


 ここで希もギターソロの音の違いに気づく。直後、古都も唯も気づいた。同時に下手側に立つゴッドロックカフェの常連客も気づいた。そして美和の顔の周りを舞う小さな光を視認して、弦が切れたのだと悟った。

 演奏中の美和には絶望感ばかりが襲う。それでも曲は流れるわけで、メロに移った。それこそ美和の心情としては、果てしなく長くも感じる地獄のようなギターソロだった。いつもなら自分の見せ場として一番気合が入るギターソロなのに。


 やがてこの1曲が終わると、希はカウントを躊躇った。MC直後の曲だったから本来次の曲へノンストップで移行するセットリストだ。しかし希は美和が弦を張り替えるのか、だけどそれだと時間を要するからどうするのか判断ができなかった。

 ただ、その希の躊躇は功を奏する。間が空いたところですかさず大和がステージに駆け込んで来た。その手にはチューニングを終えたギターを持っている。


『弦が切れちゃったみたい』


 状況を理解した古都はすかさずMCを入れた。それに対してオーディエンスは温かな歓声で応えた。間を持たせようとしているのが美和は助かった。


「チューニングはできてるから」

「ありがとうございます」


 美和は大和からギターを差し出されたところで察して、今まで提げていたレスポールを大和に手渡した。安心を与えてくれる大和の笑みを見て、多大な安堵が美和を包む。


『それでは気を取り直して次の曲、いっきまーす!』

『いえーい!』


 そんな反応を確認した希は一度にこっと笑うと、早速カウントを打った。そして次の曲が始まる。

 轟音鳴り響くステージ袖で大和は美和のレスポールに2弦を張る。その手際は良く、脇で見ていた泉は感心した。


 ――さすが、作曲で現役演者なだけあるね。


 切れた弦を除去して、新しい弦を通し、器具を使ってクルクルとペグを回す。ある程度のテンションが生じたら、ヘッドから余った弦をニッパーで切る。そしてチューニングだ。

 片や杏里も感心していた。こんなトラブルを想定してしっかり予備のギターと弦を用意しているのだから。他にも古都のテレキャスターに音質が近いギターもこの場にあるし、果てはベースもある。さすがにベースの弦が切れることは稀だが、それでも可能性がゼロではない。


 職人的早業で弦を張り替えた大和は、美和のレスポールを抱えながら演奏中の1曲を見守った。やがてその曲が終わると美和はレスポールを受け取ったわけだが、大和のありがたみにもう泣きそうである。


 しかしトラブルは尽きない。油断していたのは希だ。それは美和が弦を張り替えたレスポールを手にした次の1曲だった。

 季節は夏。空調は効いていてもホールの熱気は凄い。何なら夏でなくとも満員のライブハウスは熱気と照明と音響機材の熱で室温が上がる。まだ前半とは言え、対バンライブではやることがない曲数に差し掛かっている。希はかなり汗をかいていた。


 ――あ!


 希の右手からスティックが飛ぶ。左手に比べて右手の方がクラッシュシンバルやフロアタムなどへの移行でアクションが大きい。更には掌にも汗をかいている。ツルンとスティックは小気味よく希の手から滑り出た。

 しかしバスドラの上に予備のスティックは置いてある。希はそれを握ろうとした。


 ツルッ。


 ――むむ!


 握りきることも叶わなかった。またもスティックは希をあざ笑うかのように彼女の手から滑った。

 しかし予備のスティックは2本用意していた。だからもう1本ある。今度はセーラー服で一度汗を拭うと、希はしっかりそのスティックを握った。しかし……。


 ――げ!


 今度はしっかり握って振り上げたのに、あろうことか左手のスティックとぶつけてしまった。その時に左手のスティックが汗で飛んだ。これにはさすがに希もパニックだ。スネアを叩くために重要な左手のスティックが消えたのだから。


 それをステージ袖にいる4人はしっかり見ていた。希は上手側に体を捻るわけだから、その違和感のある動作は目立ったのだ。女3人は表情が引き攣る。こんな時にどう対処したらいいのかわからない。

 しかしまたもすぐさま動いたのは大和だ。演奏中にも関わらず彼はステージに出た。と言っても遠慮して後方のカーテン際を移動した。そして希の背後までやって来る。


「あった」


 1本のスティックは希の背後に落ちていた。もう1本は希の足元だ。あと1本は見当たらないが、ステージ袖から見ていた感じタムタムを超えたので、恐らくバスドラの前方だ。

 大和は自身が持っていた予備のスティックを、希の演奏の邪魔にならないようにスネアの上に置く。希はすかさずそれを拾い、演奏を続けた。大和の行動に安堵し感謝するものの、演奏中のため目を合わせることもできないのが残念だ。


 大和は希の背後に落ちたスティックだけを拾ってそそくさとステージ袖に戻った。希の足元のスティックは拾おうとすると間違いなくキックの邪魔になる。バスドラの前にあるのであろうスティックはオーディエンスの視線の邪魔になる。だから拾えたのは1本だけだ。


 ステージ袖に戻った大和は、ステージから回収して来たスティックの汗をタオルで拭き、それにテーピングテープを巻き始めた。こうしているとレコーディングの時を思い出す。普段はスティックを飛ばす希ではないので安心しているが、やはりいつもと状況が変われば違うものだと思った。

 作業が終わると大和はバッグからもう1本スティックを取り出す。


「え!? 大和も予備を用意してたの!?」


 驚いて張った泉の声はステージ上の演奏にかき消された。大和はそれに気づかない。どうやらその後の演奏は順調のようだ。


 大和は希が愛用しているスティックを2本用意していた。1本は今しがた希に渡したもので、もう1本が今手にしているものだ。バスドラの上に予備を2本用意していればさすがに事足りと思っていたのは大和も希も共通の認識だったが、それでも念のためと更に用意するからなんとも抜かりない。

 大和はそのスティックにも滑り止めのためにテーピングテープを巻き付けた。そして演奏中の1曲が終わるとすかさずステージに出て、ドラムセットの正面から滑り止めが施されたスティックを予備として、バスドラの上に挿し込んだ。その時希が満面の笑みで感謝を示すので、まぁ、大和は萌えたわけだ。

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