第四十六楽曲 第一節

 とある県内の電子機器メーカー。そのかなり大きな自社ビルでは、作業着のシャツかクールビズによるYシャツ姿の社員が多数慌ただしく働いている。その中に佐野勝さの・まさるはいた。


「佐野さん、コーヒー淹れました」

「あ、ありがとう」


 1人の女性社員が愛想のいい笑顔を振りまいて勝のデスクにコーヒーを置く。仕事の時は家での黒縁眼鏡と違って、シャープな眼鏡をかけている勝。そう、希の義兄、勝である。彼は設計室に勤めているのでこの時期はYシャツ姿だ。

 するとデスクの別の島から1人の女性社員が別の女性社員に、椅子のキャスターを転がしながら寄った。そして声を潜めて話すのだ。


「まぁた、松居さん、佐野さんに媚びてるよ」

「だね。ポイント稼ぎかしら」


 この2人の女性社員は同期で気心知れた間柄なので、話し方も互いにフランクだ。コーヒーを出した社員もこの2人の社員も、勝よりは後入社で一般職だ。


「そう言えば、聞いた? 佐野さん、新製品の開発リーダーに据えるって話が上がってるらしいよ?」

「うそぉ! 佐野さんってまだ大卒4年目の25歳でしょ?」

「若いのに凄いよね。まぁ、あれだけバリバリ仕事をこなしてるんだから納得の人選だけど」

「だね。それにイケメンだし、人当たりはいいし」


 どうやら勝は社内での人当たりがいいらしい。ギターを始めた頃に彼を講師に就けられた古都が知ったらさぞご不満だろう。尤も古都は男が多く寄って来るし、彼らが甘くしてくれるからいいのだが。そもそも古都は大和以外眼中にない。


「佐野さん、今度の金曜日ってお仕事の後空いてたりしませんか?」


 するとコーヒーを出した女性社員が勝に問う。一度パソコンから目を離した勝は顔を上げ、ほんの一瞬だけ思考した。


「空いてないなぁ。午後から半日有休を取ってるくらいだし」

「そうですか。お忙しいんですね」


 それを離れた席から聞いていた2人の女性社員。どこか安堵の表情を見せる。


「うっわ。松居さん、週末の誘いを断られてやんの」

「しっかし、本当に抜かりないねぇ。けど確かに彼女いないらしいから、私も今度ご飯に誘ってみようかな?」


 どうやら勝はモテるようである。それは義妹の希が感じていたことでもあるが、ヒソヒソ話している2人の女性社員も勝のことが気になっているようだ。コーヒーを出した女性社員が誘う前の予定確認の段階で挫折したことに安堵し、肩を落として彼女が勝から離れるのをほくそ笑んで見ていた。


 キーンコーンカーンコーン。


 すると12時を告げる音がスピーカーから鳴り響いた。製造業の大きな自社ビルなのでここで働く社員数は多く、この時一斉にその大人数が動き出す。

 この会社には理系の大学を出た社員や、工業高校や工業や電子の専門学校を出た社員が多い。それ故に男性が圧倒的多数である。女性社員はほとんどが一般職にいるが、中にはリケジョと呼ばれる総合職の女性社員も稀にいる。

 すると社内食堂の長机で1人昼食をとっていた勝の正面に、そのリケジョが腰かけた。


「もうっ! お昼行くなら誘ってくれてもいいじゃないですか?」


 そのリケジョは少し剥れながらトレーに置かれた食事に箸を入れた。まだどこかあどけなさの残る大卒1年目だ。杏里や唯の姉の彩から見て1学年上で、大和から見ると2学年下にあたる。化粧は苦手なようで、眉を整えファンデーションとグロスを塗っているくらいだ。肩に届かないくらいの真っ直ぐな暗めの茶髪が、彼女の幼気な容姿を際立たせる。

 勝は食事の手を止めずに答えた。


「高田さん、まずは『ここ空いてますか? ご一緒してもいいですか?』って聞くのが礼儀だろ?」

「もうっ! また小言」

「そりゃ、俺は高田さんの教育係だから」


 このリケジョは高田と言うらしい。言葉とは裏腹に不満の様子は故意であり、あえて大げさだと伝わるようにしているので明るい性格だ。


「どうせ空いてるじゃないですか?」

「まぁ、そうだけど」

「座席の有効利用です」


 そこまでの掛け合いを交わしてからやっと高田は昼食を口に運んだ。すると口の中を手で隠しながら勝に問い掛ける。


「そう言えば今日、佐野さんって出勤がギリギリの時間でしたね? 珍しい」

「ん? あぁ、探し物してて」

「ふーん。大事なものなんですか?」

「まぁ」


 社内では真面目で落ち着いていて仕事を卒なくこなす勝。特にクールと言うこともなく、そうかと言って賑やかなわけでもない社交的な人柄だ。それなので社員の誰もが彼の本性を知らない。そう、自宅やゴッドロックカフェで見せる彼の顔だ。所謂シスコン。

 そんな社内での顔しか知らない高田は、短く答えた勝に深く詮索することもなかった。そして食事を進めながら次の質問に移る。


「さっき、松居さんからの誘いを断ってましたね?」

「ん? 誘い? 何それ?」

「ん? 週末の予定を聞かれてたじゃないですか?」

「うん、聞かれた」

「その時点でそれが誘いですよ!」

「箸を向けるなよ」


 顔を引く仕草を見せて眉を顰める勝。一方高田は箸こそ下げたものの、悪びれた様子はない。ただ勝が先ほどの誘いを、人を選んで敬遠したのではないと思い至る。しかし一方、思い出すこともある。


「そう言えば今週の金曜日、佐野さんって半日有休を取ってましたね」

「うん」


 相変わらず食事の手を止めずに短く答える勝を見て、どういう予定なのか教えてはくれないのかと不満を抱く。それならそれで仕方がないので、高田はストレートに質問をした。


「なんの予定ですか?」

「ライブ」

「え! ライブですか?」

「うん。――あぁ、勘違いすんなよ。コンサートとかの大規模なやつじゃなくて、ライブハウスでやる対バンライブを観に行くんだ」

「うおっ! 対バンライブ!」

「ん? よく対バンが伝わったな?」

「はい。大学の時の元カレがバンドを組んでて、よく観に行かされましたから」

「へー、そうなんだ」


 ――ちっ。


 高田は内心で舌打ちをしてみる。「元カレ」と言って特段気にした様子を勝は示さない。それが面白くないと思う。


「まぁ、チャラい奴だったんで長くは続きませんでしたけど。精神的にも経済的にも効率悪くて。佐野さんってバンドの経験者だったりするんですか?」

「うん。7年前の話だけど」

「へー。わざわざ有休を取るって、今回はその時からのお付き合いのあるバンドですか?」

「いや、違う。ガールズバンド」

「ガールズバンド!?」


 箸が止まり目を見開く高田は、よほど意外だったのか開けた口の中を隠すことも忘れていた。しかし食事の手を止めない勝なので、気づいてはいない。


「追っかけてるバンドがあるんですか?」

「うん」

「へー、佐野さんにとってはアイドルみたいなもんですね」

「まぁ、気持ちとしては否定しない。けど、あくまでガールズバンド」

「拘ってるんですね。ちょっと気になるなぁ、そのガールズバンド」

「俺の妹が所属してるんだよ」

「……」

「……」

「ん? 妹さん!?」


 一瞬理解が遅れて間を空けたが、心情的にアイドルと言われてまさか身内が所属しているバンドだなんて思ってもいなかった。そもそも高田からしたら勝から言われないと疑問にも思わないことである。


「妹さんがいるんですか?」

「3年前に親の再婚でできた。今高3。しかも芸能事務所の所属も決まって、メジャーデビューも掴めそうなとこまできてる」

「……」


 またもあんぐりと口を開ける高田。先ほどまでトレーの上にあった昼食は、その口の中で無残な有様だ。勝は妹の話となると口数が増えた。どれだけ勝が妹に目をかけているのかが窺い知れた。更には芸能事務所と言われてこの日一番の驚きだ。


「でも再婚でできた妹さんって、難しくないですか?」

「溺愛はしてるけど、疚しいことは一切ないよ」

「そうなんですね」


 少しばかり安堵の表情を見せた高田だが、もちろん勝はそれを見ていない。それどころか愚痴を零す。


「て言うか、去年妹にカレシがいることがわかって、そいつはコロしてやりたいけど」

「……」


 高田の表情は引き攣るような笑みに変わった。しかし思い立ったこともあるので、積極的に言うのだ。


「私も今週の金曜日、午後から有休取ります」

「は!?」

「教育係の佐野さんがいないんだから問題ないですよね?」

「ま、まぁ」

「へへん。それで私もそのライブに連れてってください」

「……」


 これはさすがに勝も予想外だった。一方、高田は満足げに笑って言う。


「これって有給の取り方も、休日の使い方も合理的」


 勝は思考を巡らせる。

 これはファン獲得のために一躍できる話だ。しかしそのライブのチケットはもう売り切れている。ただゴッドロックカフェの常連客の中にはチケットを買ったはいいが、結局直前になって仕事の調整がつかず、泣く泣くライブに行けない者が毎回1人は出る。勝はそんな客からチケットを譲ってもらおうと自己完結した。

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