第四十三楽曲 爆発
爆発のプロローグは大和が語る
夏の暑さも本格化してきた6月の最後の週の木曜日だった。僕は店のバックヤードのパソコンの前で口をあんぐりと開けて固まっている。僕の隣に立っている杏里のスマートフォンはさっきからメールの通知音がひっきりなしに鳴っている。
この日は平日ながら大学を抜け出した杏里から昼頃に起こされた。彼女は卒業年度でほとんど単位は取っているから大丈夫なんだとか。因みに杏里はもう自宅の合鍵を持っていないので、起こし方は着信攻撃とインターフォン連打だ。
玄関を開けた時の血相を変えた杏里の顔と言ったらない。僕は寝間着のまま腕を引っ張られて今一緒にパソコンを見ている。そして僕はデスクトップに表示された光景に固まったのだ。
「ど、どうしよ……?」
「どうしようも何も……」
杏里の問いにうまく言葉は出てこない。デスクトップは今、ダイヤモンドハーレムのメールアカウントが開かれている。
昨年の途中に希がホームページをブラウザ管理できるように変更してくれて、バンド用のメールアカウントも取得した。問い合わせフォームからのメッセージは希と杏里のみならず、このメールアカウントにも届くし、今やホームページの管理画面も開ける。
専らホームページからの転送メールしか届かないメールアカウントだが、昨日からのメールでぎっしり埋まっている。僕と杏里はその数に慄いているわけだし、杏里のスマートフォンはそれで鳴りっぱなしだ。
「とりあえず、のんはメールの通知を切ったってさっきラインが来た」
「そ、そっか……」
当たり前だが、転送される希のメールも凄いことになっているわけだ。そして高校3年生はメンバー全員同じクラスだから、もうこの社会現象とも言える状況が既に全員に伝わっているだろう。杏里曰く、SNSでも盛り上がってしまっているとか。
「プレス、追加する?」
「それは無理だよ」
僕は即否定の意見を示した。
昨日、ダイヤモンドハーレムの『STEP UP』がタイアップしたドラマで主題歌の発表がされた。加えてバラエティー番組などにゲスト出演したキャストが番組宣伝をした。その時に主題歌は流れる。
更に発表に合わせて動画サイトにミュージックビデオのショートバージョンをアップした。その出来は至高と言えるもので、僕は4人の姿にうっとりしたものだ。
それはいいとして、こういったきっかけがあって昨日から『STEP UP』を収録したインディーズCDの予約が爆発した。その転送メールが当初であったのだが、なんとCDが予約完売してしまった。まだ発売まで2週間あると言うのに。
念のため予約枚数に届いたら予約を受け付けないように希が設定してくれていたから、受付超過をしていないのは幸いだ。
しかしだ。その影響もあって今度はホームページからの問い合わせだ。追加発売はないのか? と言うものがほぼ大多数である。
「販売枚数を増やしたところで、この問い合わせをしてくれた人たちに予約をするのか優先的に聞くのかよ?」
「う……、それは無理だね……」
杏里が理解をしてくれたので助かる。予約は先着順なので、それに漏れた人たちの対応を1人1人するなど不可能だ。それほどの数であり、だからメールアカウントの受信フォルダが未読のまま埋まっている。
「とりあえず人手がないんだから、発売日には発送できるように宅配の送り状を書かなきゃ」
「う……、それも大変な作業ね」
口では予約完売を目指していたとは言え、さすがに達成できるとは思っていなかった。もうすぐプレスの依頼先から届く段ボールいっぱいのCDは店のステージ裏の控室に積まれる。それを1枚1枚梱包して、発送しなくてはならない。
「ただ、問い合わせをしてくれた人たちを無下にはできないよね?」
「そうだね。ダウンロード配信するか?」
「それしかないよね」
つまり楽曲配信である。
この後僕は一度自宅に上がり着替えると車に乗り込んだ。行先は近所の宅配業者の集荷センターで、大量の送り状の受け取りが目的だ。と言っても、販売枚数の2千枚ではない。一部はゴッドロックカフェでメンバーの手売りで買うファンもいる。常連客と備糸高校の生徒だ。それ以外がほとんど発送である。
加えて封筒に入れる時の梱包用に気泡入り緩衝材もいるからホームセンターにも寄った。それらを揃えて杏里と2人分の牛丼をテイクアウトで買うと、僕は店に戻った。店のホールで杏里と牛丼を突きながら話す。
「ダウンロード配信の件は仲介業者に連絡を入れておいた」
「助かるよ」
杏里の仕事の速さに感服する。
「返事待ちだけど、商標登録をしないといけないから配信日は発売日に間に合わないと思う」
「それは仕方ないか。配信できる日が決まったらホームページで告知しよう」
「そうね」
これで大手通販サイトを介した発売もできるようになる。所謂全国流通だ。とにかくこれからは送り状を書く作業と梱包がある。これはメンバーと手分けしてやることにする。
すると昼食を取り終えた時だった。僕のスマートフォンが着信を知らせる。相手はライブハウス、クラブギグボックスの本間さんだった。
『今度のダイヤモンドハーレムの対バンライブのチケットが売り切れた』
「うはっ……!」
嬉しい悲鳴が上がった。しかし電話の向こうの本間さんはどこか焦っているように感じる。
『他にダイヤモンドハーレム出演の日程はないのかって問い合わせが凄いんだ』
「げ……。もしかしてインディーズCDの影響ですか?」
『当たり前だ。それで問い合わせたってファンばかりだ。どっかにブッキングさせてくれ』
「わかりました。ちょっと杏里と代わります」
と言うことで僕はスケジュール管理をしている杏里と電話を交代した。杏里はすかさず手帳を広げて話を始める。
どうやら9月まで話が及んでいるようだが、残念ながら9月以降のスケジュールの決定権は僕たちにない。ダイヤモンドハーレムは芸能事務所のマネージング契約が開始されるから。ただ、まだ発表されていないので杏里がそれを濁している様子が心苦しそうだった。
そして杏里は電話を切ると表情を無くして僕を見た。
「8月の最終週に決まった」
「そ、そっか」
とは言え、今やブッキングをしてもらうのも珍しいことではないのだから、杏里のこの表情が解せない。夏休みで県外のライブハウスも行く予定だから、まさかダブルブッキングなんて……、いや、杏里がそんなヘマをするはずはない。
「ワンマンだって……」
何を言っているのだろう? 杏里は。今一言っている意味が解らず僕は首を傾げた。
「ギグボックスに1日空いてる日があったんだけど、そこにダイヤモンドハーレムをワンマンでブッキングするから頼むって言われた……」
「……」
「……」
「はっ!?」
ワンマンライブだと! そんな話にまでなるのか? クラブギグボックスはキャパシティ200人ほどのライブハウスだからそれほど広いとは言えない。しかしワンマンだなんて……。
「とは言え、芸能事務所に所属してメジャーを目指すんだから登竜門だよね?」
そんなことを言う杏里だが、ケロッとした様子はない。引き攣った笑みを浮かべている。
「それに本間さんからは凄くお世話になってるから無下にできないし」
確かにそうなのだが。するとまたも僕のスマートフォンが着信を知らせる。今度は泉だ。
『ぎゃー! ぎゃー! ぎゃー!』
あまりの興奮ぶりに電話はすぐに武村さんに引き継がれた。もちろんこの社会現象とも言えるべき状況を掴んでの興奮だ。ただ武村さんからもその話題なので、僕はこちらで判断できない事案を相談した。
「と言うことで、9月以降の予定は僕らで勝手に組めないからどうしたらいいものかと?」
『わかりました。それでしたらまだ発表前ではありますが契約は整っておりますので、ライブハウス関係者だけには事情を説明して当社へ連絡をくださるようお伝えください』
「はい。お願いします」
とりあえずジャパニカン芸能が柔軟な対応をしてくれたので助かる。それを杏里に説明して安堵したのも束の間。またも僕のスマートフォンが着信を知らせる。今度はライブハウス、ビッグラインの榎田さんだ。
『ぎゃー! ぎゃー! ぎゃー!』
随分興奮している様子で最初は話にならなかった。しかし徐々に落ち着いてきたようで、話の内容は本間さんと同じだった。同じ流れで電話を杏里に引き継いだのだが、その杏里が電話を終えるとまたも表情を無くしていた。
「ジャパニカン芸能に電話して、9月にワンマンで立ってくれってお願いするって」
「……」
どうした? この社会現象。地元ではそれなりに大きな箱であるビッグラインまで。ほんの数秒、僕は脳内の思考回路を切ろうと思う。
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