第四十一楽曲 第五節
帰宅後、まだ制服姿の美和はこれから来る客人に出すためのお茶を準備していた。その手を止めずに言う。
「お母さん、本当にありがとう」
「なによ、改まって」
美和の母親は少しはにかんで答えた。母親は半日分の有休を使い、この日は午後から休みを取っていた。それで今はダイニングテーブルに着いて、客人を待っている状態だ。
昨晩美和はこのダイニングテーブルを挟んで母親と話した。
「お母さん、音楽でプロになりたい」
そう言うと母親は真剣な顔で、しかしどこか優しさを伺わせる眼差しでジッと美和を見つめた。そんな少しの間を置くと母親は言った。
「うん。応援する」
「はぁ……」
安堵のため息とともに、美和の表情が綻んだ。それを確認して穏やかな笑みを見せた母親は問い掛ける。
「具体的にはどうしたいの?」
「東京に行きたい」
「進学はするの?」
「……」
これには口を噤んだ美和。進学の希望はある。昨年から母親には進学を後押しされている。しかし上京する。その経済負担が高校生の美和には計り知れない。
「正直な気持ちを聞かせて」
「進学は……、できるなら東京の大学に通いたいと思ってる」
「わかったわ。なんとかする」
「え……?」
「お金のことは気にしないで」
「気にしないなんて無理だよ」
「まだ学生なんだから甘えなさい」
「うーん……、せめて生活費くらい自分で稼ぐ」
「自分で稼ぐって、家賃から食費や水道高熱費まで?」
それに対して美和はコクンと首を縦に振った。すると母親は呆れたように笑う。
「まったく、また背伸びして」
「でも……」
「わかったわ。どうせ言っても聞かないんでしょう? 学校に関するお金はお母さんが出す。それ以外は美和が自力でなんとかする。これでいい?」
「うん!」
美和は表情を弾ませた。やれやれと思う母親だが、しっかり釘も刺す。
「でも約束して。無理はしないこと。何かあったら真っ先にお母さんを頼りなさい。だから危ない仕事とかには絶対に手を出さないこと」
「わかった」
これには真剣な表情で答えた美和。尤も美和の一番の理解者である母親だから倫理観のことは安心している。それでも言いたくなるのが親の心情だ。
そしてこの日、家庭訪問3日目にして最終日。5月も残すところわずかだ。担任の長勢がやって来て、美和は母親と一緒に長勢と対面した。
「それで、具体的な進路なんですが?」
「東京の大学に行きます」
美和は胸を張って答えた。その隣で母親も納得の表情を見せる。長勢はしっかり意思統一ができているダイヤモンドハーレムのメンバーに感心した。教師の立場として大学進学の意思表示をしてくれたことに安堵し、そして一軽音楽好きの中年として応援の気持ちが芽生える。
この後は校名などの具体的な話に移ったが、美和はそれほどのイメージをまだ抱いておらず、今後進路指導室に顔を出しては進路指導担当と相談ということになった。
そして長勢がお暇したところで、美和は着替えてビラ配りをしているメンバーのもとに急いだ。
その翌日。この日から通常授業再開で、アルバイトが休みなのは希だ。他のメンバーがアルバイトのためにそそくさと下校をしたのに対し、希は慌てず教室を出た。
そして靴に履き替え、昇降口を出た時だった。
「希先輩!」
「むむ!」
昇降口の外で待っていたのは健吾である。彼は屈託のない笑顔を浮かべて手を振っていた。バンドを始めてから人間嫌いが改善されつつある希だが、さすがに健吾だけは当初の勝や古都を思わせるほど煩わしく感じる。
「いやぁ、本当、希先輩にカレシがいるって聞いた時は絶望しましたよ」
――あの態度でか?
希はそんなことを思った。
「けど、ツイッターで否定してて安心しました」
――そもそもそのツイートはあなたたちを邪険にした内容よ。現金ね。
昇降口から希と並んで歩く健吾は一方的にしゃべる。そもそも希は一緒に帰る意思表示なんてしていない。それでも希のアルバイトの休みまでとうとう把握してしまって、このつき纏いだ。
希は泰雅とのドラムレッスンがあるから、一度も帰宅することなく制服姿のままゴッドロックカフェに行く。そこでドラム指導を受けて、今ではその後約1時間1人でビラ配りをする。スケジュールは過密だ。健吾の相手をしている暇はないし、そもそも本当はカレシがいるのにと内心嘆く。
「ところで希先輩、お話があるんですけど?」
それは学校最寄りの駅まで到着して電車を待っている時だった。健吾も希と同じ備糸駅まで行く。そこから希はゴッドロックカフェで健吾はバスにて帰宅だ。
「告白ならお断りよ」
「がくっ……」
項垂れる健吾。その落胆は顕著で、どうやら本気で惚れているようだ。お断りと言っておきながら希はそんなことを理解する。
「それはそれとして」
「それとはしないけど」
「話は別にあるんです」
「耳だけ傾ける」
「うちのバンドのドラムをやってくれません?」
「断る」
テンポのいい会話に即答の希であった。しかし一度食らいついた健吾が簡単に離すことはない。
「お願いしますよ」
「私にはもう所属バンドがある」
「別に掛け持ちだっていいじゃないですか?」
「無理よ。そんなの時間的余裕がない。それに……」
「それに?」
「ううん。なんでもないわ」
希が飲み込んだ言葉は方向性の違いだ。音楽の方向性の違いではない。活動の方向性だ。
ダイヤモンドハーレムはメジャーデビューを本気で目指している。本気で日本一のガールズバンドを夢見ている。しかし性別が違うとは言え、仮称末広バンドにそんな熱は感じない。ただこれは言っても本人たちの気の持ちようだし、価値観もそれぞれ違うだろうからと思って口にしなかった。
「ちぇ、希先輩にドラムやってほしかったのに」
肩を落としてそんなことを言う健吾だが、希はそれには何も答えず入って来た電車に乗り込んだ。
この後備糸駅で健吾と別れた希はゴッドロックカフェで泰雅からのドラム指導を受け、ステージ裏に積んであったビラを手にすると備糸駅まで戻った。これから駅前広場でビラ配りである。
「う……。ちょ、帰りなさいよ」
しかしその広場の花壇の縁に座る男子高校生を見てげんなりした。健吾だ。彼は希がここに戻ってくるのを待っていたのだ。しかも迷惑そうな希の表情に構わず、満面の笑みで手を振っている。
「いいじゃないですか」
「はぁ……」
希は渋々ビラ配りを始めた。背後から健吾の視線を感じるのはなんともやりにくいが、それでも口下手な希が1人でビラ配りをすることができるようになったのだから、これも1つの成長だ。
「手伝いましょうか?」
「これは私たちの活動だからいい」
しばらくして、辺りが暗くなってから健吾が声をかけてきたのだが、希は断った。しかし健吾は言う。
「俺だってファンなんだからいいでしょ?」
「気持ちだけありがたく受け取っておく」
どのみちそろそろ切り上げようと思っていた希だ。もう19時なので、大和に心配をかけてしまう。その気持ちは嬉しいが、本当に仕事を離れて様子を見に来させるのはさすがに気が引ける。
「希先輩、もしかしてもう終わるんですか?」
雰囲気を察した健吾が言う。希はビラ配りを続け、目の前の通行人が切れた時に答えた。
「そうよ」
「じゃぁ、これからお話しません?」
「無理。カフェに戻るから」
「そんなぁ。て言うか、ちょっと冷たくないですか?」
冷たいも何もこれが希のベースだ。希は何も答えない。
「むっ!」
すると健吾は希の足元にあるビラの束が入った手提げを拾い、希の手首を握った。
「ちょっと来てください!」
「わっ、ちょっと!」
体重が軽い希は健吾から引っ張られるがままだ。とは言え、筋力がある希だ。腕を振れば振りほどけるだろう。しかし目立つし同じ高校の制服を着た後輩なので、あまりそういうことはしたくない。もちろんファンでもあるわけだし。
そして健吾に連れられるまま到着したのは人気のない線路の高架下だ。そこで健吾は荷物を地面に置き、真剣な表情を見せる。
「俺、ドラムやってほしいって言ったのも、希先輩に惚れてるのも本気っすよ!」
「ごめん、どっちの気持ちにも応えられない」
「なんでそういうことを言うんですか!」
「わっ、ちょっと!」
希は両方の手首を握られた。そして壁とも言える架線のコンクリートの柱まで押され、背中を押し付けられた。
「俺、本気なんす! わかってください!」
そう言うと健吾は希の肩を押さえ、目を薄くして顔を近づけてきた。
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