第三十六楽曲 第六節
着慣れないスーツに身を包む大和。久しぶりのネクタイに首が回らない。そしてこの季節のジャケットは暑く、夏の太陽は正装の大和に容赦なく降りかかる。大和は緊張した面持ちで木虎家のインターフォンを押した。
『はい?』
彩だろうか? それとも攻略しなくてはならない唯の母親だろうか? 大和は喉が震えるが、なんとかはっきりした声を発した。
「えっと、菱神です」
『はい。今行きます』
その明るい口調に彩であると確信して安堵する。
程なくして玄関ドアを開けたのはやはり彩だった。彼女は門扉まで駆け寄ると大和を迎え入れた。
「これ、皆さんで食べてください」
大和は玄関まで歩を進めると、紙袋に入った菓子折りを差し出した。
「そんなお気を使わなくても良かったのに」
「いえ。そんなわけには……」
「そうですか。ありがとうございます」
彩は一礼をすると紙袋を受け取り、大和を家の中に案内した。
一体となったLDKのダイニングテーブルに唯の母親はいた。憮然とした態度で、冷たく大和を見据える。大和は怯みそうになるが、その隣に座るのは優しく微笑みかける唯の父親だ。それに少しばかり安堵する。
「わざわざ来てもらってすまないね」
「いえ。お願いをする立場ですから当然です」
「まぁまぁ、座って」
「失礼します」
大和は父親の正面に腰かけた。テーブルの上は綺麗に片付けられていて、斜向かいの母親の視線は相変わらず痛い。すると程なくして、彩が人数分のお茶を持ってきた。彼女はそれを並べると大和の隣に座った。
傍から見れば「娘をください」と婚約の許しを請う緊張した席の様相だ。しかもその娘が彩のようである。尤も、婚約とは違う意味で同じことではあるのだが。それは「唯をバンドにください」という意味で。
「この度はお時間を設けていただき、ありがとうございます」
冒頭まずは大和が頭を下げた。その相手はもちろん母親だ。それに母親は態度を変えず、冷たく言ってのけるのだ。
「お願いをする立場ですって。図々しいのね」
いきなりの嫌味に早くも心が折れそうになる大和。やはりラスボスの攻略は一筋縄ではいかない。しかし彼はしっかりと気を取り直す。
「すいません。しかしどうしてもバンドには唯さんが必要で、彼女の気持ちも尊重して図々しくも僕がお願いに上がりました」
「別に他を当たればいいじゃない」
「バンド内でメンバー間の信頼関係は築かれつつあって、代わりが利きません」
するとギロッとした鋭い視線を向ける母親。大和は手に汗を握る。
「信頼ってなに? 高校生の娘をたぶらかすことが信頼? 女の子4人抱えて旅行に行って、どうせ不純なことをしてるんでしょ? その中にうちの娘も入ってるって親がどんな心境かわからないの?」
「お母さん」
母親が一気に捲し立てるものだから、彩が見かねて口を挟んだ。博多まで来た時と何ら変化はないようで、父親と彩の説得には一切応じなかったのだと大和は改めて感じた。しかしこの席を設けてくれただけでも2人は尽力してくれたのだから、感謝こそすれ、恨む気持ちはない。
「博多でも言いましたが、不純なことは一切ありません。そのくらい僕はメンバーを、そして唯さんを大事にしてます。その思いの中で彼女たちを育てています」
大和は誠心誠意、心からの気持ちを伝えた。交際の件は嘘を吐く形になっておりそれが心苦しくはあるが、それでもこれが精いっぱいの大和の気持ちだった。
「それでもうちの子とはお付き合いをしてるのよね?」
「はい」
心苦しいが、これは通す他ない。昨晩唯からも言われた。まず優先すべきはバンド活動だ。それに対してひたむきな彼女たちの気持ちを無下にするわけにはいかない。だからこれに関しては貪欲にいく。
「百歩譲って不純なことはないと認めるとして、まだ高校生の娘を相手にあなたはどういうつもりでお付き合いをしているの?」
その質問に大和はゴクリと生唾を飲む。喉がカラカラに乾くので、手元のお茶を一口含んだ。
「大和君は、将来のこともしっかり見据えて唯と付き合ってるんだよな?」
と言うのは唯の父親だ。確かにそんな話をした。ツアーの許可をもらうために、ゴッドロックカフェに来て話した時に。
――あぁ、これが誤解を生んだきっかけだったのか……。
今更気づいてももう遅い。一瞬惚けた顔をした大和だが、それを思い出してすぐに表情を整えた。
「はい。そういうことも見据えたうえで真剣にお付き合いをしています」
「なにをバカな……。うちの子はまだ高校生よ?」
聞いておいてこき下ろす母親である。大和は内心がっくりと肩を落とす。しかし気を取り直した。できればこの手は使いたくなかった奥の手だ。それどころか本当に上手くいくのか未だに信じられない。もし失敗したら一生杏里の母親である叔母を恨んでやると、思い切って行動に出た。
「あの、これ……」
大和がジャケットの内ポケットから取り出したのは、なんと自身の通帳だ。しかも記帳された最後のページを開いて示した。
「ひっ!」
「うおっ!」
目を見開いたのは彩と父親だ。表示されたその桁に驚いている。母親も一瞬食いついたが、すぐに表情を戻す。
「これが何よ? いつ記帳したかもわからないじゃない」
最後の行の日付は今月になっているにも関わらず、そんな嫌味を言う。大和は内心嘆息するが、今度はスマートフォンを取り出し、インターネットバンキングを表示させて示した。
「これが僕の預金です。これに加えて、定期預金と店の不動産があります。作曲の仕事も伸びていて、印税と店の売り上げでこの預金です。今後は買い取り契約になるでしょうから1曲あたりの収益は落ちますが、それでも興味を持ってくれた芸能事務所やレーベルから問い合わせが多数来ています。なので今後依頼は伸びると思われます」
と大和は説明をしたが、さすがにリアルタイムで口座残高のわかるインターネットバンキングまで見せられて既に母親の目は¥マークだ。ギラギラに輝いたその瞳のまま母親は顔を上げた。
「あら、お店って言ったら市内では一等地じゃありませんか? ご自身の資産でしたの?」
突然猫なで声に変わる母親。その変貌っぷりに大和は引く。まさか、本当にうまくいったのか? 杏里の両親に相談した時の叔母から言われたアドバイスが蘇る。
『それほど見栄っ張りな親なら、大和の資産を見た瞬間に落ちるわよ。杏里に聞いたよ。あんたかなり稼いでるんだって? 付き合ってるってことになってるなら通帳でも見せてやりな? 娘を持つ親は相手のステータスが高いとわかれば安心するものよ』
唯はまだ高校生。大和はまさかそんなわけ……と思っていた。しかしこの母親の態度の変わり様。そしてそれは確信に変わる。
「それほどの資産家さんだとはつゆ知らず、私ったらなんてご無礼を」
「えっと……それでこれからの唯さんのバンド活動は……」
「認めます。認めますよ。大和さんがこれからも唯の面倒を見てくださるんですよね?」
「はい」
「将来も考えてくださるんですよね?」
「……はい」
一瞬言葉に詰まったが、なんとかはっきりと言葉にできた大和。そして母親は言った。
「交際もバンド活動も認めます。これからも唯をお願いします」
「……」
まさか叔母の助言が功を奏すとは思っておらず、絶句するのは大和だ。しかし母親の機嫌は最高潮に良くなり、この後小一時間の滞在中、丁重にもてなされた。
「なんなんですか! それ!」
しかし、ゴッドロックカフェに帰って報告をすると怒りを露にしたのは唯だ。この日は金曜日なので定期練習がある。その定期練習が始まる前、大和は唯とバックヤードで面談をした。
「お金で手のひらを反すなんて最低!」
ぷんぷんに膨れた唯も可愛いのだが、母親に対する怒りは本物だし、あまり目にしない唯の剣幕に大和は苦笑いだ。そもそもその手を打ったのは大和だから、唯は大和自身にも思うところはあるのだろうと大和は思いやる。唯にとっては、相変わらず母親のステータスを示すための道具に使われているようで、それが気に入らない。
「そんなこと言わずに理解してよ。これが僕にできる精いっぱいだったんだ」
ムスッとした表情を変えない唯はじっと大和を見据えた。しかし大和が自分のために一生懸命になってくれたことは理解している。だから言うのだ。
「わかりました。理解します」
「本当?」
「はい。これから私は大和さんと婚約関係ですね?」
「え!?」
「そういうことですよね?」
確かに木虎家にとってはそういうことだ。大和は力なく首を縦に振った。どんどん深みにはまる大和である。
そしてこの夏休みの最終日をもって、唯の家出と大和とのプチ同棲は終わった。唯が古都に倣って置いて行った1組の部屋着と下着は、この同棲の証として大和の部屋に残った痕跡である。
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