第三十六楽曲 第五節
木曜日。19時の開店と同時に来店したのは勝だ。
「いらっしゃ……う……」
大和は勝の表情に恐怖して絶句する。その目には殺意がこもっていた。
「いらっしゃい、勝さん」
しかし大和は気を取り直して勝に挨拶を投げかけた。勝は鋭い視線のまま言葉を発することなく、カウンター越しに大和に近寄った。
するとドラムの練習をしていた希と泰雅がステージから下り、カウンター席に座る。勝は泰雅に「ふんっ」と悪態を吐いて希を端席に追いやると、すかさずその隣を確保した。大和も泰雅も苦笑いだ。いや、大和はその苦笑いの奥に恐怖を宿している。
やがて3人が注文した飲み物をそれぞれ置くと大和は勝に問い掛けた。
「勝さん、今日は仕事、早く終わったんですか?」
「定時退社の日だよ」
「嘘よ」
すかさず希が言葉を割り込ませる。希は淡々としていて時々レモネードに手を伸ばす。一方、勝は大和に対して鋭い視線を向けたままだ。大和はとても気まずく、助けを乞うように時々泰雅に視線を向けるが、泰雅は我関せずと言った感じだ。
すると希がレモネードを置いて付け加えた。
「どうせ無理やり定時に上がって帰って来たのよ」
どうやら勝は希が来店のこの日、大和のもとへ行く妹のことに気が気ではなく、仕事を調整したようだ。調整したと言っても無理やりなので、放り投げたと言っても過言ではない。
いつもなら勝は残業をするので、退社時間はもっと遅くその後の来店も遅い。だから大和はいつもと違う彼のルーティンに疑問を持ったのだが、これも希が家庭で大和との交際宣言をしたからだ。大和はすぐに察した。
するとここで泰雅のスマートフォンが鳴り、泰雅が一度店外に席を外した。それを待っていたと言わんばかりに勝が言う。
「大和……」
「う……。何でしょう?」
勝の殺意に気圧される大和だが、逃げ場もないので素直に応じる。
「もう1年なんだってな?」
「ん?」
これには首を傾げた大和。するとその時視界に入った希までもが鋭い視線を向けた。大和は一気に身の毛がよだつ。そして悟った。
「はい、すいません。1年も隠れて交際してて……」
「ちっ」
勝が面白くなさそうに舌打ちをするが、希はその回答に満足そうで、レモネードを口に運んだ。どうやら希は交際期間がもう1年になると設定しているようだ。突然の質問ではあったが、うまく話を合わせることができて大和は胸を撫で下ろす。
「はぁ……。とにかく希を泣かせたらぜってー許さねぇからな」
「それはもちろんです! 信じてください」
これには胸を張って答えた大和。メンバーを大事にしているのは事実なので自信を持っている。尤もその感情がどういうものだかは、この世の誰1人として知る者はいない。それでも勝は兄として、表面上はツンとしていてもその言葉を頼もしく思うのだ。
やがて泰雅が戻って来るが、この後も泰雅が勝から鋭い視線を向けられた大和を助けることはなかった。淡々と酒を飲み、続々と集まる他の常連客と音楽談義をしていた。なかなか冷たい男である。
尤も希は泰雅なら事情を知られてもいいと思っているが、そもそも泰雅は人の色恋に興味を示さない。
実は勝はやはり泰雅のことも気になっている。しかしそれでも一番辛い思いをしたのは当時の大和や泰雅だろうと思いやり、そのことは口にしなかった。シスコンが暴走する男ではあるが、それくらいの気概がある男でもある。
結局この日の営業も勝が大和に向ける視線以外、和やかな雰囲気に包まれた。
そして大和は仕事が終わるとこの日も帰りを待っていた唯との生活である。食事も家事も風呂も終えて、大和はぼうっとテレビを見ながらソファーで寛いでいた。すると唯が布団を持って寝室からリビングに来たので、大和はもう寝る時間かと思った。
「隣、いいですか?」
しかし唯が畳まれたままの布団を床に置いて敷こうとはせず、そんなことを言う。大和は上げかけた腰をソファーに戻した。
「まだ寝ないの?」
「はい。まだ眠くないので、大和さんさえ良ければ少しお話しませんか?」
「うん、いいよ」
唯は返事を聞いて大和の隣にちょこんと座った。この時ワンピースタイプのパジャマを着ている唯は、足もソファーに上げて膝を抱えた。テレビラックのガラス面に映る唯の正面を目にして大和は落ち着かない。干している時と身に着けている時では随分見え方が違うのだなと、しみじみ思うのだ。
「のんちゃんもカノジョになったんですね」
「は!?」
突然の言葉に虚を突かれた大和。勢いよく唯に振り向くと、彼女は膝を抱えたまま大和をじっと見据えていた。その表情は素朴で麗しく、広く開いた胸元のボリュームは凄まじい。ツアーで慣れたと思っていても、ふとした時に意識してしまうものである。
「えっと、のんちゃんもお父さんと勝さんにそう言って話を通したって……」
既に情報共有ができているダイヤモンドハーレムである。イメージと180度違う方向に話が進んでいて頭をかくのは大和だ。自身を卑下する気持ちさえある。
「まぁ、そういうことになったけど、唯や希のお父さんを騙してるのが心苦しいよ」
「そうですか……」
お互いに視線を正面に向けた。テレビは深夜のバラエティーが映し出されているが、内容は頭に入ってこない。
「それでも、私たちの活動を円滑にするためですし、貪欲に行きたいです。だから大和さんには迷惑かもしれないけど、飲み込んでほしいです」
「迷惑とは思ってないけど、そうだよね。希に対しては一番の懸念だった泰雅とのことを理解してもらえたわけだし」
希に関してはバンド活動に直結する自分たちの過去がどうしても心苦しかった。だから貪欲にと言ってもそれまで隠す気にはなれなかった。
交際に関しては嘘を吐く形になってしまったが、自分への信頼を通して認めてもらえるのなら大和も理解をする。
「そのうち古都ちゃんと美和ちゃんもカノジョになりますかね?」
「いやいや。僕なんかには荷が重いよ。そもそもその2人は親がバンド活動に理解を示してくれてるから、そういう話にはならないでしょ。それに唯と希はフリなんだし」
「そうですよね。フリですよね……」
唯が寂しそうにそう呟くが、大和は聞こえないフリをした。大和では到底理解できない女心である。
「1つ聞いてもいい?」
「はい、なんですか?」
大和の視線は正面のままだが、唯は大和を向き見上げる。
「唯たちの年代の高校生って、キスはハードルが低いものなの?」
「あわわわわ……。な、なんですか? その質問」
唯が真っ赤になって抱えた膝に顔を埋めるので、聞いた大和までもが恥ずかしくなる。もちろん大和は古都と美和のことを言っているが、聞く相手を間違えたかと思った。ただ唯のこの反応で、唯がもう自暴自棄にはなっていないとわかり安堵もする。しかし次の唯の言葉は予想外だった。
「も、も、も、もしかしてしたいんですか……?」
「え……?」
ドキッとして大和は唯を向くが、膝に顔を埋めて両腕でその顔を更に隠す唯の表情は見えない。ただ、綺麗な黒髪から覗く耳が真っ赤なのはわかった。
「ご、ごめん。そういう――」
「わ、わ、わ、私にとって、ハードルは高いけど、大和さんなら……いいですよ」
「……」
遮られた言葉の持っていき所がなくなった大和。ただ古都や美和の心情がわからないから聞いただけなのに、こんな雰囲気になるとは思ってもいなかった。
しかし唯をその気にさせてしまった。それは家出で恩義を感じている唯の覚悟なのか。それならば自棄になった家出少女がすることと何も変わらない。自分を大事にしてほしいと思う大和は、見返りを求めたような誤解をさせてしまって自己嫌悪に陥るのだ。
「ごめん。そういうつもりじゃなかったんだ」
「え……」
未だ顔が真っ赤な唯は惚けた様子で大和に顔を上げた。大和の表情は恐縮しきっている。
「そうですか……」
すると唯は顔の下半分だけ再び腕の中に収めた。その時の表情は頬が腕で持ち上がって拗ねているようにも見える。尤も唯の心情としては期待してしまって残念ではあるものの、機嫌を悪くしたわけではない。
大和は失礼なことを言ってしまったかと反省し、解決はしなかったがこの話を締めようと話題を転換した。
「明日さ、唯のお母さんと会って来るよ」
「え?」
突然の話に虚を突かれた唯。再び視線を大和に向ける。大和は穏やかな表情で言った。
「明日予定してくれたんだ。ちゃんと話してくるね。それで承諾をもらえたら唯は家に帰れるし、心置きなくバンド活動ができるよ」
「別にお母さんなんてもうどうでもいいです。私は今の生活の方が楽しいです」
今度こそ本当に不貞腐れた唯。昨晩までは唯が話し合いのことを知って取り乱さないか、大和は自信がなかった。しかし今日の唯の雰囲気を見て言えると思った。父親も昨晩は唯の感情を懸念しており、慎重だったのだ。
大和は優しく唯の頭に手を乗せた。
「そんな言い方するなよ。学校が始まってもこの生活ってわけにはいかないだろ?」
唯は態度を変えないが、それでもその手の感触を愛おしむように少しだけ大和に体を傾けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます