第三十二楽曲 十七

十七のプロローグは美和が語る

 大阪でもチケットノルマはクリアし、そして順調にステージをこなしてこの日のホテルに戻って来た私達ダイヤモンドハーレム。そう、この日は安宿ではなくホテルだ。


 私は室内の鏡台で付けていたバンドの出納帳を閉じる。大阪だけはどうしても安宿の予約が取れず、2人と3人に別れてビジネスホテルでの宿泊だ。どちらもツインの部屋で、3人部屋はエキストラベッドが入っている。これが予算を圧迫させた。

 これも民泊特区と言われる地域なのに、外国人旅行者の増加で予約が取れなかったのが原因だ。それに民泊特区とは言え、法令の規制は厳しくなっているし、そんな中さすがにスタッフが常駐していない程の宿は、大和さんのセキュリティーも手に余るだろうと避けたわけで……。


「美和ちゃん、お金どう?」


 同室の唯がベッドで足を伸ばして問い掛けてくる。私は鏡越しに唯を見て笑顔を浮かべた。


「うん。順調だよ」

「いつもありがとうね」


 朗らかな笑顔で唯が労ってくれた。メンバーのこういう声かけが報われる。いつも運転を頑張ってくれている大和さんは私より大変なので、だからこそ多大な感謝が湧く。


 実はメンバーに言っていないことが私にはある。それは当初このツアーは赤字見込みだったことだ。メンバーがアルバイトで貯めた貯金と大和さんのお金を均等に集金し、私が会計管理を担当している。旅行代理店を通して宿泊費とフェリー代だけは支払い済みだ。残ったお金は食費とコインパークに充てていて、余裕はない。

 しかし、後にくるのがガソリン代と高速道路の請求。これは大和さんのクレジットカード決済のため後清算だ。チケットの売り上げバックが多少入っているとは言え、この分の財源がどうしてもなかった。


 私はメンバーより比較的貯金がある方だったので、自分の財布には余裕のある現金が入っている。当初はそれを食費やコインパークのお金に充当して、幾らか負担を軽減しようと考えていた。

 それでも足りなければ、そろそろ支給されるメンバーの7月のアルバイト代からの集金だ。更にそれでも足りなければ、8月はアルバイトにほとんど出ないので、以降のアルバイト代を集金するまで誰かに借りなくてはならないと頭を悩ませていた。


 しかし救世主は現れた。ゴッドロックカフェの常連さんだ。カンパを募って援助してくれたのだ。しかしそれでも足りるかどうか微妙なところだった。そこへ今度は海水浴場であったサマーイベントのステージ。なんと高額なギャラをもらえた。おかげで追加集金はしなくてもいいどころか余る計算だ。私は一人胸を撫で下ろした。


 この日私と同室は唯と大和さん。私と唯は既にシャワーを済ませていて、今は大和さんがバスルームに入っている。唯は少し前まで家の人と電話で話していた。ツアー中は毎日連絡を入れているようで、そのタイミングが大和さんの入浴中のようだ。

 因みに部屋割りは大和さんが独断で決めた。1室の人数が減って古都とのんの場合、寝床に潜り込まれたら堪ったものじゃない。――と言うのが大和さんの言い分だ。それはつまり、私達をしっかり女だと意識してくれている証拠だよね。けど私と唯は積極性が足りないって意味なのかな? それを考えると悲しくもなるのでちょっと複雑だ。


「ふぅ、さっぱり」


 すると短い髪を濡らした大和さんがバスルームから出て来た。その時の彼の姿に私と唯は射貫かれる。首にかけたタオルで大和さんは濡れた髪を拭きながら上半身は裸。着替えで見慣れたとは言え、お風呂上がりの男らしい大和さんについうっとりしてしまう。


 ふと私に先週の記憶が蘇る。それは浜松のステージを終えて地元に帰って来た日。大和さんに送ってもらって夜中に自宅の団地まで到着した時のことだ。

 私は自宅練習用に大和さんからもらったギターを背負い、手にはバッグと家庭用アンプを持ってエレベーターを上がった。大げさな昇降音と扉のスチール音が懐かしく感じた。


 そのエレベーターを出ると外気に晒された共用廊下を歩く。途中通過する幼馴染の正樹の部屋の常夜灯がすりガラスを通して点いていることに気づいた。彼の部屋は共用廊下に面していて、この時はもう寝たのかなと思った。

 寝ているのであろう彼に気を使って私はなるべく物音を立てずに歩いた。しかし、彼の部屋からは声が聞こえてきた。


「ん? 声?」


 そう、声だ。しかも会話である。更に言うと、男女2人分。電話などの類ではない同室の2人による会話だ。部屋を暗くしてなぜ? と私は思った。


「ハァ……、正樹……、キスして……」


 私の耳がピクッと反応して足が止まった。正樹の部屋の前を通過してすぐのところだ。その声は夏休み前によく聞いていたクラスメイトの声。聞き間違えるはずもない。正樹のカノジョ、江里菜だ。お泊りをしているのだとすぐに悟った。


 すると私の心臓を跳ねさせる声が漏れてきた。


「あんっ!」

「ひっ!」


 思わず引き攣った声が出たので口を押えようと思ったが、荷物でそれは叶わなかった。

 私は共用廊下の正樹の部屋に面した窓の脇で、足を止めて聞き耳を立てた。背中のギターを正樹の部屋の外壁に挟んで、夜の街を向いた。しかし意識は完全に正樹の部屋なので、久しぶりの見慣れたその景色もうまく視界に入ってこない。


 今の私の声で私の存在が室内の2人に気付かれなかっただろうか? 不安に襲われる。それにしても2人はもうそこまで進んでいたのか。付き合いももう半年近いし、そんなものなのかな。嫉妬心はないがどこか複雑な心境で、それは焦りのような感覚だった。


「江里菜……」

「正樹……」


 甘い声で名前を呼び合う幼馴染とクラスメイト。時々卑猥な声と会話も聞こえてきて、ベッドがきしむ音がする。どうやら私の存在は気づかれていないようだ。安心した私はこの後もう少しだけこの場に佇み、刺激的な声を聞いた。そんな十六の夜であった。


 そして今、私の目の前には男を存分に感じさせる大和さん。私の体が芯から熱を持ったように火照るのがわかる。正樹と江里菜の夜を思い出して、それを大和さんと自分に重ねてしまったことがなんとも恥ずかしい。自己嫌悪に陥ってしまって私は頭の中で被りを振った。


 けど一度こんな気分になってしまっては落ち着かせるのが難しいと知った。初めて経験する気分で、どこか宙に浮いたような不思議な感覚だった。

 だからこの夜はなかなか眠れなかった。暗くなった部屋で時間だけが過ぎ、私は17歳になった。大和さんは部屋に運び込まれていたエキストラベッドで寝息を立てている。


 私は大和さんにとって平気で眠られてしまうような女なのだろうか? そう一瞬卑屈にもなったが、ツアー開始の頃の大和さんは、それはもう動揺していたし、これは慣れだと理解する。それでもいつもより人数の少ない宿泊室で、その慣れを感じさせることに一抹の寂しさも過る。


 私はベッドから体を起こした。反対隣では唯が可愛らしい寝顔を浮かべている。狭い部屋に無理やりベッドを3床入れているので、3人の距離は近い。各々のベッドの隙間は体を横向きにしてやっと通れるほどだ。

 私はベッドを下りると大和さんの寝顔を上から覗き込んだ。胸がキュンと締め付けられる。もう少し近くに寄ってみたい。しかしベッドの間隔が狭くて屈めない。


 私は腰を折って大和さんの顔の両脇に手をついた。短い髪が垂れて視界に入る。硬いエキストラベッドは沈まない。大和さんは私に気づくことなく寝顔を浮かべている。

 私は大和さんに顔を近づけてみた。やはり大和さんが起きることはない。そしてそのままそっと目を閉じて、大和さんの唇に自分の唇を重ねてみた。凄くドキドキした。けど思っていたのとなんだか違う。寝ている相手と起きている相手では違うのかな? そんなことを思った。


 大和さんから唇を離して再び大和さんの寝顔を覗き込むと、無断で寝ている人にキスをしてしまったという罪悪感が襲ってきた。そしてとてつもなく恥ずかしくなった。

 私はベッドの間隔が狭いことも失念して、自分のベッドに飛び込んだ。その時に足の親指をベッドにぶつけてしまった。お腹の底から込み上げてくる痛みが走り、私は顔を歪めて枕に押し付けた。そんな苦くて酸っぱい十七の夜だった。

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