第二十二楽曲 第一節

 4月も中旬。土曜日のこの日の夜、勝の送迎でゴッドロックカフェから帰宅した美和。風呂を済ませると首に掛けたタオルで頭を拭きながら学習デスクの椅子に座った。そして通学鞄から1枚の紙を取り出した。


『進路希望調査』


 表題にそう書かれた用紙。これは先週の始業式の日に新担任から突き返されたものだ。


「両立か……」


 用紙を机に置いてそれを眺めたまま髪を拭く。どこか現実味のない遠い目をしていることを自覚した。現実味とはどちらの意味であろうか。進学や就職など一般的な高校生がこの用紙に書くことなのか。それとも今目指しているメジャーデビューのことなのか。


「はぁ……」


 美和は一度ため息を吐いた。メジャーデビューを目指していることは間違いない。しかし古都と唯の担任が言ったように、大学に行きながらのバンド活動も確かに可能だ。それは大和も推していることであり納得できる。それを聞いて大学進学という、バンドの目標が決まってから考えることのなかった道が開かれた気がした。しかし美和は迷うのだ。

 すると部屋のドアがノックされた。


「今いい?」

「あ、うん」


 入って来たのは美和の母親で、美和は慌てて進路希望の用紙を机の下に放った。なぜ隠してしまうのか、その自分の行動が滑稽に思う。


「確か、来月に家庭訪問があったよね?」

「う、うん……」


 正に進路のことに直結する話題である。始業式の日に家庭訪問があることは通知されており、母親もそれを美和から渡されたプリントで把握していた。春の家庭訪問、秋の保護者面談。備糸高校のこの年間行事に美和は思わず目を逸らしたい衝動に駆られるが、なんとか会話に集中する。


「早めに言えば時間調整してもらえるって書いてあるんだけど?」


 そう言って母親が示すのは、家庭訪問の案内のプリントである。母親はまだ風呂も済ませておらず、仕事着のスーツ姿だ。と言ってもジャケットは着ておらず、上に部屋着を羽織った状態なので、パンツスーツとブラウスだけが仕事の様相を垣間見せる。


「そうだね」

「仕事の都合があるから日時を調整したいんだけどいい?」

「わかった。伝えとく。いつにする?」


 美和は母親から希望の日時を聞き出しメモを取ると、それを通学鞄に仕舞った。すると母親が美和の動作を目で追いながら問う。


「2年生の家庭訪問って内容は何なの?」


 その質問にドキッとする美和。内容は暫定的な進路希望の聞き取りと、それに合わせて3年生では進学に向けたクラスに進むかどうかの確認である。とは言え2年生は始まったばかりなので、まだ長期的に考えられる。


「えっと、中間テストの結果発表かな」


 それも間違いではないのだが、肝心なところが抜けている。母親に話しづらいという美和の思いが垣間見える。


「ふーん。そっか」


 母親は美和の様子にひっかかりを覚えるが、深く詮索することなく美和の部屋を出た。母親が部屋を出たのを確認してから、美和は机の下に潜って進路希望調査の紙を回収した。


 美和の家は母子家庭である。東京の大学に行くとなれば親元を離れて暮らさなくてはならないわけで、金も掛かる。もちろんその時に音楽業界の仕事に就けていればそれに越したことはないのだが、どれほど強い気持ちを持っても、現実的に考えてそれが厳しいのは理解している。むしろできていないと考えておくのが安全側だろう。

 大学には行けるなら行くべきだ。しかし母子家庭の経済事情が重くのしかかる。ましてや上京だなんて。それならば東京で就職をするのか? だが東京からの求人が地方の公立高校に届くとも考えにくい。考えても今はまだ答えが出てこない。


 母子家庭であることを美和は強く実感して、進路希望調査の用紙に書いた通り今は「未定」のままやり過ごすしかないかと肩を落とす。ただそれは問題の先送りでしかないので、美和は憂鬱になるのだ。




 一方、唯も帰宅して風呂を済ませた。唯の場合は担任の長勢が進路希望調査の用紙を預かったままであるが、考えることは美和と同じである。風呂場を出た唯は2階の自室には上がらずリビングに入る。そこにはこの日の家事を終えて寛ぐ母親がいた。

 唯はリビングと一体のキッチンで冷蔵庫を開け、お茶をコップに注いだ。風呂上りとは言え、ゴッドロックカフェで中年客と交流を図った後なのだから実は喉など乾いていない。唯はコップを口に当てながら、ダイニングキッチンのカウンター越しに、ソファーでテレビに目を向ける母親を眺めた。


「何よ?」


 その声にドキッとして唯の手元のコップでお茶が揺れる。ほとんど口に含んでいなかったその液体は唯の鼻の下を濡らす。既に父親は床に就き、姉の彩は自室にいる。1人だけのリビングでキッチンから娘に見据えられた母親は、その視線に気づいたのだ。


「えっと、私もそっちで一緒にテレビ見てもいい?」

「好きにすれば?」


 特に言葉が浮かばなかったので咄嗟にそんなことを言った唯だが、この気まずい状況の中より近づくことになるのかと、自分の言動が恨めしく思った。唯が軽音楽を始めてからこの1年、母親は相変わらず素っ気なく、その距離感は遠いままだ。


 唯はリビングソファーの母親の隣に腰掛け、コップをリビングテーブルに置く。コップには半分ほどのお茶が入っているが、これは喉の渇きを感じていなかった唯が予めこの量しか注がなかったためで、つまり唯はほとんど飲んでいない。

 唯はコップを手にしては口元に運びテーブルに置くという動作を繰り返す。それによってガラス製のテーブルに映る母親の表情を伺っていた。


 見栄っ張りの唯の母親。しかし何に対してそれが現れるのか、その基準は未だ唯にはわからない。だから様子を探っているし、今唯が悩んでいることに対してどう思っているのか気になるのだ。

 唯はコップのお茶を一気に飲み干すと切り出した。


「あの、来月の家庭訪問なんだけど、プリント見てくれた?」

「見たわよ」

「早めに言えば希望の時間に枠を取ることもできるんだけど?」

「どこでもいいわ。もし都合悪ければお父さんに仕事の調整してもらって、代わりに出てもらうから」


 思いっきりため息を吐きたい衝動に駆られる唯。しかしなんとかそれを堪える。母親は家庭訪問に絶対出ないというつもりはないようだが、父親に任せるという逃げ道を残している。それが悲しかった。


「そっか。じゃぁ、時間わかったらまた言うね。おやすみ」

「おやすみ」


 素っ気なくても一応の挨拶を返してくれたことに唯は少しばかり安堵して、コップを片付けると2階の自分の部屋に上がった。


 ベッドに重力のまま腰を下ろした唯。たったあれだけの母親との接触でどっと疲れてしまった。唯はそのまま体も倒す。横向きの視界には学習デスクの横に立てかけられたベースのギグバッグと、家庭用アンプが映る。ギグバッグの中のベースは先ほど持ち帰ったものだ。


「メジャーデビューを目指してるなんて誰もが夢にも思ってないだろうな……」


 唯は手を真っすぐ伸ばし、広げた指の隙間からベースのギグバッグを見つめる。唯が言った誰もとは家族のことだ。父親と姉と、そして母親。そんなことを言ったら一体どんな反応をするのか。母親は取り乱すかもしれないし、父親と姉でさえ焦るだろう。そう思うから怖くて言えない。


 メジャーデビューを目標にすると決まってから自然と勝手に進学はしないものだと思っていた。しかし担任の長勢と指導をしてくれている大和の話で違う道が開けた。これは美和が思うことと同様であり、また、その達成の難しさもわかっている。

 しかし東京の大学に進学したいと希望を言ったら母親はどんな反応をするだろうか? 唯にとってこれは吉とも凶とも予想できる事柄である。見栄っ張りの母親だから東京の大学に出すことに鼻が高くなるのか。それとも意地っ張りの母親だからこの1年反抗中の娘にそんな経済負担を許すつもりはないのか。


 吉の予想もあるとは言え、すでに反対を押し切ってバンド活動をしているわけで、万が一凶が出た場合これ以上母親を刺激しては恐ろしい。もし叶うことなら早くメジャーデビューが決まって、東京の大学に進学して、自分の稼ぎで生活できたらと願った。

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