第九楽曲 第二節

 7月も中旬の木曜日。備糸高校は期末テストの最終日だ。その最後の科目が終わった途端、机に突っ伏すのは4組の希。


「のんちゃん、お疲れぇー」

「ん? あぁ、お疲れ」


 クラス内で仲良くなった女子生徒が希の肩を叩くとそのまま歩き流れて行き、希に背中を向けた。顔を上げた希はその背中に声を返したわけだが、この女子生徒は今日から再開される部活に向かったのだとわかる。弁当は部室で食べるのだろう。そんなことを考えながら希は再び机に突っ伏した。


「のん! ご飯食べに行こう」


 更に希に掛かる声。元気でいて綺麗に通る声なのに、鬱陶しいと感じるその女声。希は顔を上げない。すると更に別の女声が希に向く。


「のんちゃん、お疲れ様」

「あ、唯。お疲れ様」

「なっ! なんで唯には反応する!?」


 希が顔を上げると希の席の正面に古都と唯が立っていたのは声とその方向からわかっていたことで、古都は口にした不満のとおりキーキー吠えている。もちろんそれを無視して唯に質問をする希。


「ご飯行くの?」

「うん。のんちゃんこの後誰とも予定してなければ」

「予定はない。行く」


 希は荷物をまとめると席を立った。そこでふと思いついた。


「ご飯食べたらカフェに行きたい」

「ん? 大和さんのとこ?」


 穏やかな表情で問い掛ける唯。希はまだ足を止めたままで一度首肯してその質問に答える。


「ドラム叩きたい。溜まったフラストレーションの解消」

「あはは、そうだね。今から美和ちゃんにも声を掛けに行くつもりだったから、みんなで行こうか?」

「そうする」


 テストで相当ストレスが溜まっている希。体を動かしてすっきりしたかった。元来引きこもりながら、この春からスティックを握ったことで希の中で変化が生まれたようだ。

 昨日まで一緒に勉強をした華乃、江里菜、正樹は各々部活がある。勉強会の面々は昨日で一旦解散だ。この後、特に予定を入れていなかった美和も合流してダイヤモンドハーレムのメンバー4人は学校が半日のこの日、まとまって行動をした。


「古都とのんはテストどうだった?」

「むむ……」

「……」


 これは学校最寄りの駅へ向かう道中の美和からの質問で、美和の隣の古都は唸った。その後ろを歩く希は美和の声が聞こえない振りをした。その希の隣を唯が自転車を押して歩いている。


「ばっちりよ!」


 気を取り直して古都が元気良く言うが、そこへすかさず口を挟むのが希である。どうやら聞こえない振りは止めるようだ。


「本当のところはどうなのよ?」

「……。えへへ」


 笑って誤魔化す古都。それに一抹の不安を抱いて美和と唯の表情が曇る。


「高得点ではないかな」

「それで?」

「けど、本当に赤点はないと思う」


 赤点に対しての自信は本物のようだ。ただ古都は普段から自信家なので油断はできないのだが。そもそもすかさず古都に質問を振った希こそ一番の不安要素で、古都はその希に突っかかる。


「そう言うのんこそどうよ?」

「私は大丈夫」

「なぬ! 大丈夫ってどの程度さ?」

「少なくとも赤点はない。教科によっては高得点」

「むむむ……」

「それから底辺の古都に負けることもない。赤点なんか取って活動に影響させないでよ」


 まぁ、こんな余計な一言を言うからまた古都がキーキー吠えるわけで。それを苦笑いで宥めるのが美和か唯だ。この時は美和が古都の隣なので美和の役目だが。そもそも中間テストでは希の方が悪い成績だったのだから酷い言い分である。


 この後4人は電車に乗って移動し、備糸駅周辺で昼食を済ませると制服姿のままゴッドロックカフェに来た。その店の裏口を古都がもらった合鍵で開ける。

 この日は自主練習という形で全体練習をしたダイヤモンドハーレム。夕方になり解散するとアルバイトが休みの希だけは店に残った。




 アルバイトを終えて帰宅した唯は、玄関に一番近くて一番広い個室であるこの家の音楽部屋から微かにピアノの音が漏れていることに気づく。一応の防音施工を施しているその音楽部屋。唯はそこに足を踏み入れると後ろ手でドアを閉めた。


「あ、唯。帰ってたの。おかえり」

「ただいま」

「て言うことは……、やばっ、もう上がらなきゃ」


 室内にいたのは唯の姉の彩で、唯の帰宅時間から今の時刻に気づき、慌ててピアノの演奏を止めた。一応の防音部屋とは言え、ある程度音は漏れるので近所迷惑にならないよう、本来演奏は21時までと決めている。


「そうだね、もう遅いもんね。でも久しぶりにお姉ちゃんのピアノ聴きたかったからちょっと残念」


 言葉のとおり少し残念そうな表情を見せる唯だが、それでも幾分穏やかな表情でもある。その唯は最近あまり入らなくなったこの部屋を見回す。

 窓際には今まで彩が弾いていたグランドピアノが据えられており、部屋の隅にはコントラバスが立て掛けられている。壁際は本棚で楽譜や音楽の教本が詰められていて、それ以外にこの部屋には何もない。本当はこの部屋でベースの練習をしたい唯だが、母の反対を押し切った手前、遠慮して2階の自室で練習しているのだ。


「唯もベースの練習をこの部屋ですればいいのに」


 唯の心を読んだわけではないが、彩がこんなことを言う。唯はそれに苦笑いを浮かべて答えた。


「私がここで練習してたらお姉ちゃんがピアノの練習をする時邪魔になっちゃうから」

「今までだってコントラバスの練習があったでしょ? 時間分け合って使ってたじゃん」

「まぁ、そうなんだけど……」


 母から彩の邪魔になると文句を言われるかもしれないし、言われないかもしれない。それでも遠慮は拭えない。彩もそんな唯の思いは読み取っている。だから深くは詮索しない。少しだけ後押しをするだけだ。


「バンドの方はどう?」

「うん。古都ちゃんと美和ちゃんと大和さんがね、私達のオリジナル曲作ってくれた」

「へぇ。もうそんな段階まで進んでんだ」


 ピアノの前の椅子に座ったまま感嘆の声を上げる彩に唯は歩み寄った。既に鍵盤の蓋は閉じられていて、彩の手は彼女の膝の上にある。

 少年少女クラシック楽団に入る前の幼少期、唯もピアノを習っていたことがある。クラシック楽団に入ってからもコントラバスを始める前はしばらくピアノを担当していた。唯は彩の手元を見て久しぶりにピアノを弾いてみたいとも思った。


「3人とも凄いよ。いい曲作ってきて。大和さんはそれを更に格好良く仕上げるからさすがだよ」

「ふーん、よっぽど楽しいんだね」

「へへ。うん、楽しい」


 少しはにかんだ唯だが、素直な気持ちを口にした。メンバーのことも、大和のことも、店の常連客のことも、学校の友達のことも、仲のいい姉に唯は何でも話す。そんな我が妹の表情を見て彩が続ける。


「大和さん、どんな人なの?」

「紳士的で、優しくて、教えるのがとっても上手な人かな」

「へー、唯が惚れたのはそういうところか」

「……」


 突然の彩の図星に顔を真っ赤にする唯。ここですぐに嘘の否定をしきれないのが唯である。それを微笑ましく見る彩。


「じゃぁ、しっかり捕まえておかなきゃだね」

「大和さん競争率高いから。メンバーみんな大和さん狙いだし」

「うそ!? それで仲良くやっていけるの?」

「それがね、大和さんの取り合いはしてるものの、不思議と仲良くはやれてるんだよね」


 驚いて目を丸くした彩だが「それは凄いね」と感動の言葉も口にした。ふとここで彩が冒頭の唯の言葉を思い出した。


「そう言えば、私の演奏見たいって?」

「あ、うん」

「今度演奏会あるよ? 市民会館の小ホールで。無料だから出入りも自由だし」

「本当? 行きたい。いつ?」


 声を弾ませた唯。その質問の答えを待つ彼女の表情は明るい。


「次の月曜日。祝日の日。私の出番は13時20分から」

「月曜日……。あぁ、その日レコーディングだ……」

「え? そんなことまでやってるの?」

「うん、デモ音源なんだけど。それでも初めてだし、どんな段取りで進めるのかもわからないから抜けられるのかどうかもわからないや……」

「そっかぁ……」


 途端に残念そうになる2人。市民会館なら最寄り駅がゴッドロックカフェと同じ備糸駅なので、カフェからも徒歩で行ける程度の距離だ。それでも確実に観に行ける保障がない。レコーディングに意識をしっかり向けなければと唯は思い直し、この日は深けていった。

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