第四楽曲 第一節
音楽室に向かう途中の廊下で呆然と立ち尽くす唯。その手に握られているのは吹奏楽部への入部届けだ。その正面に立つのは岡端華乃。彼女の手にもまた吹奏楽部への入部届けが握られている。
そしてその華乃の隣にいるのはお転婆娘、古都。更にその古都の隣にいるのはシスコン被害者のツンデレロリ、希である。
「は、はい。吹奏楽部への入部届けです」
唯はやっとの思いで古都からの質問に答えた。
「もう、タメ口でいいよ」
「あ、うん。わかった」
――雲雀さん私に用があるの?
唯は古都を前にして困惑しており頭の中でそんな疑問だけが反復する。
「それ今日中?」
「えっと……」
「遅くとも今週中だよね? それ以降は途中入部の扱い」
唯が言葉に詰まっていたので華乃が助け舟を出した。それに唯は「そう」と短く肯定だけした。
「ならさ、今から私たちとお茶しない?」
「え?」
「別にまだ仮入部期間なんでしょ? 部活に拘束されてないよね?」
「うん、まぁ……」
ご尤もな意見ではあるものの、口を開かない希は「まったく、またこの調子かよ」と内心で古都に悪態を吐いていた。希の思うこの強引さが雲雀古都である。
4人は揃って学校を出て、学校最寄りの駅前にあるドーナツチェーン店に入った。それぞれ好みのドーナツを1つとドリンクを持ってボックス席に収まったのである。
「入部届け出す前で良かったね」
華乃が喜ばしい表情でレモンティーを啜るのを見て、唯は「どういうこと?」と頭の中で疑問を抱いた。この2人の通学鞄にはこの日提出されなかった入部届けが入っている。
「本当、本当」
満面の笑みで華乃に同調するのは古都だが、その隣の席で無表情な希は「ご愁傷様」と他人事のように聞いていた。もちろん唯に対しての哀れみである。
「あの、えっと……」
「私達とバンドやらない?」
口ごもる唯の言葉を遮るように勧誘をする古都に唯は気圧されたが、何とか次の言葉を繋いだ。ただの驚きであるが。
「え? バンド?」
「うん。ここにいるのんと私と唯ちゃんで」
この場に華乃がいるのだからまだ名乗っていない自分の名前を古都が把握していることに唯は納得するものの、今話題に上がっているバンドに華乃の名前が出てきていない。これに疑問を感じていた。そんな唯の様子に構うことなく古都は続けた。
「私たちで軽音楽やろう? 私がボーカルでのんがドラム。だから唯ちゃんにベースを担当してほしいの」
「え? え? ちょっと、待って。雲雀さん」
「名前で呼んで。……あれ? って言うか私の名前華乃から聞いてた?」
華乃はドーナツを口に運びながら首を横に振る。古都は自分の名前を把握されていたことに感心をしているのだが、その前に古都と希の自己紹介がまだである。最初にそれに気づいたのが華乃で、華乃がそれぞれを紹介し、唯が古都を知っていた経緯を説明した。
「へぇ、あの華道教室に唯ちゃん通ってたんだ」
古都の正面の華乃はクスクスと笑い、古都の隣の希は呆れながらも「この女ならやりかねん」と笑っていた。つまりは華道教室の師範を青ざめさせたエピソードだ。
「のんちゃん、そんな顔して笑うんだ」
斜向かいの華乃が希に視線を向けて言うものだから、希は恥ずかしくなり顔を伏せた。因みにこの2人も対面そのものはこの日が始めてである。もちろんお互いに古都と一緒にいるところを見掛けたことがあるので、今まで存在を認識してはいたのだが。
「あの……、私、吹奏楽部に入るつもりだから……」
唯が話の腰を折ることに恐縮そうないい方をしたのだが、そもそもこれが本題なのだから、華乃と希のやり取りは気にしなくてもいいはずだ。
「華乃から聞いてるよ。コントラバスでしょ? だからお誘いに来たの。それで入部は止めて私たちと一緒にバンドやろう?」
いつもの古都のペースである。そして唯の隣でほくそ笑む華乃。実は華乃は真っ先に古都からバンドをやろうと誘われていた。しかし、古都は友達として付き合うには申し分ないが、バンドをやるほど四六時中一緒にいては疲れてしまうと思い、部活を理由に断り続けているのだ。これは古都のことを知っている人物からしたら多数派の意見だろう。
ちなみに古都は華乃とはもう付き合いが長く、華乃が古都を躱すことに長けていることを知っているので、あまり強く勧誘しないのである。つまり華乃は身代わりに唯を紹介したわけで、したたかで抜け目ない。そして希、兄の件もあったとは言えまんまと古都のペースだ。
「華乃ちゃんはやらないの?」
「私はパス。部活やるから」
なんともまぁ、自分勝手な話である。自分は部活を主張しておいて、その仮入部で親しくなった唯を今正に推し出しているのだから。元々自己主張の弱い唯は華乃の意見に特に疑問も感じず、古都を向いた。
「えっと……、古都ちゃんは経験者なの?」
「ううん。まともに楽器触ったことない」
少し面食らったが、唯は希に向き直った。
「えっと、のんちゃん? のんちゃんは経験者?」
「昨日から」
口数の少ない希だが、初めて会話をしたことに唯は感激しており、そして萌えていた。
それから唯はしばらく考えた。この2人と一緒にバンドをやることは楽しそうだ。憧れていた古都に、癒しをくれる希。――因みに唯の恋愛対象は男だ――しかし気がかりなのは自身の母。
「ごめん。無理だ」
「ガーン」
大げさにテーブルに突っ伏す古都。唯が「あわわわわ」と慌てて手を差し伸べるが、華乃と希からしたらもう慣れたものである。希に限って言えばまだ一週間の付き合いにも関わらず。
「ダメ……なの……?」
顔だけ上げて唯を見た古都は、眉をハの字にして口を富士の形にして問い掛ける。唯からしてみればこの表情は自身を困らせる以外の何物でもない。申し訳なくなってしまう。強く浮かぶのは頭ごなしに否定をするのであろう母の顔。このイメージが拭えない。
「えっと……、うん。ごめんなさい」
「ガクッ」
古都は擬音語を直接口にして再び突っ伏した。
「古都、他を当たりましょう」
これは希の言葉であるが、表情とともに声にあまり感情が込もらないので、正面で見ている唯からしたら恐縮の念に襲われる。せっかくこんなに可愛い2人からのお誘いなのに、と唯は残念な気持ちが強い。
――吹奏楽部でコントラバスを続けることを条件に習い事を全部辞めたのに、軽音楽をやるだなんてお母さんが許してくれるだろうか?
この誘いに興味があるのは山々だが、やはり唯の不安はここにある。楽器も揃えなくてはならないし、帰宅時間が何時になるのかも現時点で把握できていない。母に対して何と説明をしたらいいのかわからず、古都と希に期待を持たせる返事ができないのだ。
結局唯は前向きな返事をできないままやがてこの日は解散となり、古都と華乃は徒歩で、希はバス停から、自転車通学の唯は駅に停めてあった自転車に跨り、それぞれの家路に就いた。
と言ってもこの後、古都と希は家で食事と着替えを済ませ、備糸駅で合流するとゴッドロックカフェに行った。
「メンバー集めうまくいってんのか?」
まだ他に誰も来ていない店内でレモネードを前にした古都と希に問い掛ける大和。
「ちょー、余ゆ――」
「全然ダメです」
今までは古都の強がりだけで終るこの会話も、希が古都を遮ることで現状を表す。とは言え、大和には古都が強がっていることなどお見通しで、いつもそれを聞いて笑っているのだが。
カランカラン
「木村さん、いらっしゃい」
「やった。今日ものんちゃんいる」
店に入ってくるなり喜びの声を上げたのは常連客の木村。ロックを聴いたり、ロックバンドのライブに行ったりするのが好きな中年男で、楽器の経験は少ない。木村は建設会社の会社員だが、その会社は親が経営している会社で、この男が次期社長である。
「今日もレモネード?」
「はい」
木村は迷うことなく希の隣に座りビールを注文した。2日目にして希も中年の常連客達から絡まれることにいちいち嫌な顔はしなくなった。それよりも今日帰ってからドラムの練習を始めるので、常連客達から話を聞いて参考にしたいと前向きである。そう、昨日突然自宅の空き部屋に据えられていた電子ドラムでの練習だ。
やがて続々と集まってくる常連客達。ここ最近では当たり前になった和気藹々とした雰囲気に包まれた。
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