第19話 文才開花

悲しいことの後には、必ず嬉しいことがやってくる。

井原と別れた後、咲良はそう自分に言い聞かせてきた。

つきあっていた期間は日数的に多くはないが、毎日顔を合わせメールでやりとりし頻繁に電話で話したり濃厚な時を過ごしたので、実際よりもっともっと長く一緒にいたような錯覚をおぼえる。

だからこそ、失った喪失感や妻子持ちだったことがわかった時のショックは計り知れなかった。

部屋に夜ひとりでいると、孤独と絶望感にさいなまれ涙がこぼれる時もあった。

年齢的に結婚に憧れるアラサーである。

好きな人と結婚して温かい幸せな家庭を築きたい、その夢が叶うと思っていた。

自分のことを好きになってくれて、結婚したいと言ってくれたことがうれしかった。

なのに…現実は…。

もちろん、彼の離婚が成立するのを待つという選択肢もあった。

けれどいきなり3人の子供の母親になる自信もなかったし、不倫という関係でつきあうのも嫌だった。

何より、あの時の彼の言葉に従うのはプライドが許さなかった。

『清掃の仕事なんかにしがみつくことはない』

それは客観的にみて事実かもしれない。

だけどそれを認めてしまえば、今までこの仕事を続けてきた数年間はなんだったんだろう。無意味なものと思いたくない。

そして見下されているようなニュアンスから、この人と結婚しても幸せにはなれないと感じた。

きっと俺の金で食わせてやってるんだから俺に逆らうなとか言うタイプだろう。

真行寺にも異様に外面がいい男は身内に冷たいから気をつけたほうがいいと教わった。

落ちこんでいた咲良を元気づけてくれたのは、職場の仲間達だった。

一部憎たらしいオバチャンもいるけれど、心配しておかずを持ってきてくれる人や電話をくれる人もいて、母のように優しく温かく見守ってくれたりする。

オッチャン達のアイドルでもあるので、お菓子をくれたりお弁当を買ってくれたり、天然石のブレスレットやブローチなど若干高価なものをくれる人まで。

「ありがとう」を毎日のように言える自分が、とても幸せに思えた。

お昼休みはマネージャーの真行寺をはじめ、社員同士で和気あいあいとおやつをほおばりながら談笑し、すてきでかわいい午後のクリーンスタッフゆかりやちりさも交え美容やダイエットの女子トークで盛り上がったり。

それぞれのダメ親やダメダメ元夫元カレの話も時に飛び出し、それを笑いながら語れるみんなをすごいと思うし、笑っていたら元気が内から自然と湧いてくるのだった。


「きむちゃんっ、社内安全標語最優秀賞とったって!」

真行寺からうれしい知らせを聞いたのは、7月のはじめのことだった。

「すごーいっ、やったね!」

皆が祝福してくれる。

毎年社内で労災、通勤災害、健康増進の3つのテーマで標語を募集するのだが、それが受賞したという。

「今度本社の朝礼で表彰式あるから行っておいで」

「はい、ありがとうございます!」

受賞作が印刷されたポスターがあちこちに掲示され、それを見るたびに誇らしい気持ちが芽生えた。

咲良の作品は、

『笑い声 響く職場で 皆元気』

自分の経験を元に生み出した作品だ。

仕事やプライベートで何があっても、みんなで楽しく笑って吹き飛ばしたらストレスもやわらいで、元気な毎日を過ごせる。

そういう職場が健康増進のためには理想だ。

そんな想いをこの5.7.5に込めた。

仕事は1日の大半を占めるものだから、楽しく快適に働ければ充実した日々を過ごせるが、その場が苦痛であれば人生半分以上大損だ。

汚物も扱うしんどい清掃の仕事だからこそ、笑って楽しくやっていきたい。

大変な仕事だからこそお客さんやテナントさんが喜んでくれたら嬉しいし、大事な不動産を守っているという誇りと汚れた場所をキレイにした時やりがいを感じる。

数年前に『トイレの神様』という歌が流行った。

トイレには綺麗な女神様がいるので、トイレをキレイにしたらべっぴんさんになれるという歌詞が印象的な曲。

咲良も祖母からそんなようなことを聞いていた。

だから毎日心も見た目も美しくなる修行だと思って、清掃の仕事に励んでいます。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

応援した人

応援すると応援コメントも書けます

ビューワー設定

文字サイズ

背景色

フォント

Androidでは正しく
設定できないことがあります。

応援の気持ちを届けよう

カクヨムに登録すると作者に思いを届けられます。ぜひ応援してください。

新規ユーザー登録無料