過去

 その後、男は意趣返しとでもいうようにおつよの、未だ赤々と焼け跡の残る頬を殴りつけた。鈍い音と共にあっけなく床に倒れる。

 痛みにおつよは悲鳴をあげた。涙は果てたし、もう残っているのは男を侮蔑する気持ちだけだと思っていた。だが、未だ心の内に痛覚が残っていた。痛いと子どものようにジタバタと叫びたくなる。痛い、ヒリヒリと焼けるような痛さ。そして、胸にゆっくりと浸透してゆく痛み。弱さはもういらないというのに。

 おつよを、男はバカにしたように嘲笑する。だが、男は再び判を燃える火に入れて、波打つような赤に変化させると、お藤を通り越して次の女に判を押し当てた。

 男は自身も最低な人間であることを自覚している。仕事柄もだが、自分の性格上、残酷なことをしても何も思わずにいた。わざとおつよの焼けた頬を殴りつけるのにも、なんの感情も湧かなかった。だが、約束は守った。


 それだけが男の唯一の取り柄だったからだ。


 おつよは、男の背を強く、強く睨んだ。左頬に痛いほど大きな傷を抱えて。そしてお藤の叫びをその耳に聞いてしまった。普段ならばそよ風のような儚さを持つ声が、ありったけ憎悪で出来上がっていた。猛々しい獣のようだ。

 お藤がかけよってきて、細腕で自分を抱き起こすのが分かる。

「おつよちゃん、なんで……?」

 揺れる声はおつよをなじっていた。

 やはり己は無力である。そう痛感せざるをえなかった。叫びは無論、怒りは主に男に向けられたものだろう。だが、確かにおつよに向けられている怒りも感じてしまった。


 傷をつけさせないことが守ることなどとうつつを抜かす自分がお藤を幸せにするなど、まるでほら話だ。


 ***


「……はん。……フジノはん」


 自分の名前を呼ばれて、フジノは我に帰った。目前には息絶えた薊と、薊を抱き泣き崩れる照がいる。それから声の主を探そうとゆっくりと視線を彷徨わせると、頬を濡らしながらこちらを潤んだ目で見つめてくる女郎花がいた。


「大丈夫ですか?」

「大丈夫……じゃないに決まってるだろ」

「そうですよね。すんまへん」


 女郎花がそっと目線を薊の方に向ける。薊の顔にはまだ、彼女が最後に流した涙が全く生きている時と同じようにある。フジノはそっと近づくと、その涙を拭った。そして薊をかたく抱いている照の涙も。

「照、薊を恨んではいけない。椿を恨んでもいけない。己を恨んでもいけないよ。……憎いほどいい女に肩入れしちまったら、そいつが負けだ。全部背負って行かなきゃどうしようもないよ」

 それは昔のフジノと重なる、照だからこそ発した言葉だ。人一人失う時、どうしようもなく揺らぐ。この絶望感、この悲壮感で何にすがればいい? その問いの一つの答えになれば。そんな風に思った。

 照がまた、涙をはらりと流す。だがそれを拭うことなく、まっすぐにフジノを見つめた。

「いい女……だったのか……? この子は……」

 嗚咽混じりに照がそう問うた。

「勿論そうさ。花というのはいつもたおやかでなきゃあいけない。お前さんみたいに強いのとはまた違う。……ただこの狭い世界の中で、必死にお前さんのことを待った。それが最期、一番美しく咲いたところで女になったんだ。いい女に決まってる。なぁ椿」

 横で他人事のように見ていた椿がほんの少し狼狽した。が、

「わっちからすれば薊はただ道端に咲く花でありんす。まっすぐに一本伸び上がった姿。がさつで、ほんに好きいせん。けど、それが高じて好いた人がいるんす。……羨ましいわぁ」

 そう言って目を伏せた。それは椿の本音かもしれない。

 椿は綺麗だ。だがあまりにも綺麗さだ。薊のように一心になにかを思うこともこれからないだろう。客もそうだ。作り上げられた綺麗さは愛でるが、死に際に抱きよせようなどとは思わない。それが時に、こうして現れるのだろう。そんな椿も、フジノは哀れに思う。


 照はまだ細々とすすり泣いている。だがそこにはもう怒りは消えていた。椿には女郎花がそっと手をそえている。

 最低限の揺らぎが収まったのを見て、フジノはその場を離れた。これでフジノの言うべきことはもうない。


 人が死ぬのは悲しい。だが、花が枯れるのはもっと惜しい。

「歳をとるのは嫌だねぇ」

 フジノの目が潤むことはなかった。夢を見ていた頃の自分は、もうとうにどこかへやってしまった。照を見て思いだした程度で容易に情けをかけることはもう、ない。

 薊を雇った時に書いた本当の名前に、墨で大きく罰を付ける。

「さようなら、だねぇ」

 ぎゅうと握ったせいでシワがついたが、きちんと伸ばしてまた元に戻す。そしてフジノはすぐに亡骸を供養する準備にかかった。


 お藤の、おつよを呼ぶ声がかすかにまだ残っているような気がする。耳鳴りのようにそれは、中々止まない。


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