夜も更け朝が近づいてくる頃、コホコホというお藤の咳でおつよは目を覚ました。静かに咳をしているお藤に、やるせない気持ちでいっぱいになる。そっと寝返りを打ってお藤を布団の上からさすると、小さくありがとうと言われた。夜の間ずっと咳をしていたのだろう、声が眠たそうだ。


 おつよは考える。私がしていることは感謝されることなのだろうか。


「ごめんなさい」


 そうは思えなかった。咳き込むたびに縮こまる背中を見ることしかできない自分が情けない。一体、どうしてこうも自分ばかり考えてしまったんだろう。


「ごめんなさい、お藤」


 おつよの頬を一つ二つ、涙が伝っていく。どんな心無いことを言われても、どんな扱いを受けたところで気丈に振る舞うことができるとおつよは思っていた。でも、病の前では無力だ。代わることすらできない。


 お藤は背中に置かれた手をそっと取って、自分の腰へと回した。背中からじわりと伝わるおつよの温かさと、規則的に心の臓が打つ音が心地いい。


「おつよちゃん、どうして謝るの。私はとても幸せよ。一緒にいれてよかったわ」


 お藤はそう囁いた。だがまだ咳は止まらない。ああ、どうしてこうも口惜しいのだろう。喉はひりひりと熱い。湿った声でまだ小さく謝っているおつよに何もできない。けほっとまた咳をして、お藤は腕を緩めておつよの方を向く。鼻がぶつかりそうなぐらい近くに、おつよの顔がある。


 勝気な目とつんとした鼻、そして濡れた頬をあとどれぐらい見ることができるだろうか。心の中でそう思いながらお藤は、おつよの頬に伝う涙を拭いた。


「ねぇ、楽しくなるようなことをお話してちょうだい。、二人で住むことができるようになったら……おつよちゃんはどんなことがしたい?」


 家を出てからというもの辛いことが続き、二人はめっきりそういった類の話をしなくなった。だからこそ、こんな時に話したいのだ。


 佐助が起きぬように二人は布団を頭までかぶる。おつよは小声で

二人で住むことができたら、庭に花を植えましょう。お藤の好きな花を、育てるの」


 と言った。布団に潜っているのでおつよにはお藤の顔が見えないが、微かに微笑んでいるのが感じ取れた。だが


「そうね。それまでに好きなお花、決めておくわ。私が死んだらその花が咲く頃、私のこと思い出して」

 とお藤は言う。その声のなんともの哀しいことか。

「馬鹿なこと言わないでよ」

 必死に打ち消そうとするおつよ。だが

「お願い、約束よ」


 そう言われて、ああこの子は本気で思っているのだ、と駄々をこねることを諦めた。布団に包まれている所為か互いの息の音が聞こえる。


 どれぐらいたっただろうか、お藤はおつよの頬をそっと包むこむように触ると、約束よ、もう一度確かめるように言った。それからふぅと息をはくと、ようやく浅い眠りに入っていったのだ。


 二人の少女たちの話を、狭い部屋の中、佐助はただ背を向けてそっと聞いていた。


 朝はすぐに更ける。


                  ***


 翌日佐助は二人を連れて、医者の所へと出向いてくれた。医者は痩せぎすでそちらの方が倒れてしまいそうなぐらい青白い顔をしていたが、お藤の病状を聞く目は鋭かった。そして聞き終わると薬を作ってすぐに手渡してくれた。


「お前さん、ここにいるよりかは元いたところへ帰った方がいい」


 袋に入った薬を手渡す時に医師はそう言葉をかけたが、お藤はただ微笑むだけだった。


 医者に礼を言った後、三人は無言で診療所を出た。薬を飲んだお藤はまだ効いてこないのか、未だ咳をしているが、いずれ効いてくるのだろう。だが、このまま江戸にいれば病は進行するばかりだ。


 おつよは、佐助の方をくるりと振り返った。そして頭を下げる。なんども、江戸ここで繰り返してきたように、そして丁寧な口調で話し始めた。


「此度は私たちにお力添えをしていただき、有り難うございます。ご無礼を承知で今一度、折り入ってお願いがあります。……お藤を、どこか病の治りそうなところへと連れて言って頂けないでしょうか」

 お藤が

「おつよちゃん!」

 と窘めても、おつよは顔をあげようとしない。

「働くあては御座います。ご恩は少しずつ、必ずお返しします。……だから」


 お藤が腕をとっても頭を下げるおつよ。彼女のその姿を見て佐助は唇を結ぶ。大通りの賑わいは、角を曲がった医者の家の前にまで届いてきた。


 喧騒は何もなかったかのように、誰かが病にかかったことなど知らぬふりをしているように、変わらない。お藤に江戸の空気は毒だ。穏やかなお藤は一人であれば、そんな中に飛び込む気性でもない。だが、江戸は彼女にとって毒でしかないだろうか。見たところ、お藤とおつよは長年の友人のようであるし、違いを時にそれ以上だと思っている節もある。たといおつよという頑丈な柱を失って他の地へと行ったところで、お藤は『幸せ』だろうか。


 佐助はしばらく考えたのち、重々しく口を開いた。

「相判った、といいたいところだが、そうはいくまい。お藤がいやというのならば、お前さんがどんなに低くこうべを垂れたって俺は連れてはいかないよ」


 で、お藤はどうなんだい。佐助は切れ長の目をお藤に向けた。視線が絡み、そして離れていく。お藤は頭を下げたままのおつよの背にそっと触れ

「江戸に、残ります」

 そう答えた。

「お前さんの相方が、こんなに必死になって頭下げてるのにかい?」

 すぅと目を細めて意地悪そうに佐助が訊く。お藤がにこやかに微笑んだ。

「ええ。どんなことがあっても」


 交わされる目線は、紡がれる言葉よりも意志が伝わるもの。佐助はおつよに向かって首を振った。


「じゃあだめだ。良薬は口に苦しとはよくいうけれど、苦いからではなくまた他の理由があって断るというのならば、俺には何もできない」

 つれない言葉に、ガバリと顔をあげて佐助を睨むおつよ。

「どうして? 貴方の見た病人のように、殺すというの?」

「おつよちゃん、よくしてもらったのに失礼よ! よして」


 お藤が再び窘めるも、おつよはギリギリと歯を噛んで佐助を恨めしそうに見やる。そのおつよ姿が、佐助には薬をくれと手を伸ばしてきた痩せこけた病人と重なった。だがそれは所詮、おつよの情でありお藤のものではないのだ。佐助は腕を組んで再び首を振る。


「人はいずれ死ぬ。俺の手が及ばない所為で殺しても、殺さなくても。薬を持ってぐるりと回っていると分かるが、己に何を求めるかで薬は効きが違う。もらった薬は効くかもしれない。だが、お藤に良い空気を吸わせるというのは、お前と別れるという事だぞ」


 いいのか。佐助が問うと、お藤が首を横に振った。


 生きたいか、死にたいか。死ぬ運命ならば、そのわずかな時間を如何様に過ごすか。それはおつよでも佐助の決め事でもない。他ならぬお藤の決める事なのだ。


「薬は人を救う。医者は病を和らげる。だが、俺は薬を持っただけの旅人だ。医師ですらない。薬問屋の倅ごときが、手を出して良いもんじゃないねぇ。俺はできる事をする。薬をこさえる事は俺のできる事だった。だが、お藤を連れて行くのは俺ができる事じゃない」


 せいぜい働いて、どこかで薬代でも払っておくれよ。そう言うと佐助は二人の返事をまたずに踵を返して去っていった。その後ろ姿を見てはらりと一雫、お藤は涙を流した。

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