浮世にて、変わらなかったもの

 さてどれぐらい駆けていっただろうか。お藤に肩を貸しつつ、おつよは医師についていった。誰だかも知らない彼しか、頼れる人がいないのだ。ようやく医師が立ち止まったのは、とある旅籠屋の前だった。二人をくるりと振り返ると、


「宿はあるのか?」


 と尋ねる。お藤が


「ありません。最近はずっと野宿だったもので」


 と言うと、医師は二人の服装をジロリと見た。二人とも着物はボロで、砂埃で色が薄い。


「だろうな。それにあったところで、持っていた荷物を置いてきてしまった」

 荷物はあの喧騒の中。お藤とおつよは本当に身一つになってしまったのだ。


「どうしようお藤、取りに帰ったほうがいいかしら」

焦ったおつよを医師は

「どうせあの連中が持ち去ってるだろうよ。それにあれだけの群衆がいて、無くならないほうがおかしい。諦めな」


 とピシャリとはねつけた。だが、明日の食料を探すにせよ、これからの旅路の準備をするにせよ、最低限にまとめてきたものすら失ってしまったら大変だ。しかも


「あそこにはお藤の薬がある」


 今はまだ咳き込んではいないが、今日は随分と走った。お藤を見ると随分と顔が青白い。あの薬がないと今夜は咳で眠れないかもしれない。


「薬?」

「そうよ。お藤は少し肺が弱いらしいの」


 その言葉に医師は眉をひそめる。


「お前さん、どこの出だい?」

「岩槻から」


 その言葉に、今度は眉がつり上がった。お藤を指差して医師が怒鳴る。


「なんでわざわざ空気の悪いところへ連れてきた! こいつを殺したいのか?」

「え?」

「人が沢山いるところにきたら、汚い空気で肺に負担がかかるだろうが。江戸なんかにきたら寿命が縮む」

「でも……」

 お藤はそうは言わなかった。おつよはそう言いかけて隣にいるお藤を見やる。

「そうなの?」


 ふと、お藤はおつよから視線をそらした。いつもは柔和なその顔も、どことなく表情が硬い。


「……知らないわ」

「ねぇ、お藤。そうなの? そうなのね?」


 キュッと唇をつむんだまま、お藤は何も言わない。それは紛れもない、お藤が自分の体調を知って江戸へと出てきた確たる証拠であった。


「どうして言ってくれなかったのよ!」


 おつよが語気を強めると、お藤が彼女の方を向いた。ぐっとこぶしを握っている。


「私だって、嫁いでおつよちゃんに会えなくなるのが嫌だったんだもの。だって、おつよちゃんが……約束してくれたから……」


 約束に囚われていたのは、おつよだけではなかった。お藤もまた、その子ども騙しの約束を生きる糧としていたのだ。おつよが次の言葉を紡ごうと口を開いた瞬間、医師が呆れた様に二人に割って入った。


「お前さん、仲良くお手手を取り合って女の友情に走るのは一向に構わないんだが、ここは旅籠屋の前なんだよ。とりあえず、中に入ろう。女二人がギャーギャー騒いだら目立つ。今日は稼ぎがあるから、俺が払うよ」


 医師はくるりと踵を返して旅籠屋へと入っていく。二人は顔を見合わせて、それからそっと医師を見る。ガラガラと戸を開けて、医師は二人の方を向いた。


「別にとって食おうってわけじゃねぇ。何もない、さらには弱ってるやつを道端にほっぽる訳にはいかないと思っただけさ。一応これでも医師の端くれだからな。俺は佐助。おつよとお藤だったか、入るならさっさと入りな」


 それは二人が江戸で受けた、最初の親切であった。

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