人が啼く日

 ほんなら先いきますわ、と一言声をかけて、女郎花は階下へ向かった。藤色の簪はそのままで、赤い柵の前まで歩いて行く。吐息は白く、手はすぐに悴んでしまったが、それでも歩く速度は変えない。薊に会わなければ。会って、誤解をとかないと。


「おや、おかえり」


 と出迎える椿。百合はまだ姿が見えない。薊は柵の奥で虚ろな目をしている。薊はんと女郎花が声をかけると視線を彷徨わせながら女郎花をぼんやりと捉える。ゆっくりともたげる頭はどこが気だるげだった。が、その目は女郎花を捉えた瞬間に見開かれた。怒りに燃え滾り、歯をギリギリと噛んでいる姿はさながら、鬼のようである。薊が、ガリッと何かを噛んだ。


「薊はん? あの」

と声をかけようとすると

「お、みなえしぃ。アンタァ」


 薊が目を見開いた。異様なまでに見開かれているのだが、どこか焦点が合っていない。薊の口から血の混じった唾液が、ダラリ。着物を濡らす。


「薊はん、ちょっと……!」


 あまりにも普段と違う姿に女郎花が慌てて近寄ろうとすると、薊が突き飛ばした。体勢を崩して柵に背を打ち付けた女郎花に近づき、


「お前が! 奪ったんだ。全部全部、アタイのもの。奪った! 泥棒めェ」


 と叫ぶ。それから急に椿を振り返るとヒヒヒと笑った。椿は少し目を見開いたが、さっと扇子で口元を隠す。狂っている。


「椿はん! どないなっとりますの?」

 女郎花が笑い声に被せるように叫ぶと、

「薊は、梅を飲んだんだ」

 と椿。女郎花は、その先紡ぐ言葉を失った。


 丸薬、梅。それは阿片のように人を酔わせ、阿片以上に人を黄泉の国へ引き寄せるもの。普段は決して使わないが、いざという時のために懐に忍ばせている花も多い。人でなし、と全てを奪われた花たちが唯一与えられた選択とは死ぬこと。薊は、それを使ってしまった。相変わらず歪な顔で笑っている薊の体躯が痙攣し始める。


 椿の方を向いていたが振り返り、一歩、また一歩進む。そして震える手で女郎花の頭をつかんだ。薬のせいか加減ができていない薊の手は、女郎花の髪がブチブチと音を立てて向けるまで引っ張る。その黒髪がはらり、雪のように地面に落ちた。薊はじわりと涙を浮かべる女郎花を見つめ、


「アタイの、簪も奪ったんだね」

 と藤の簪を取ろうとする。伸ばしされた手はどことなく頼りなさげで、宙を掴んでいる。が、女郎花がその腕を掴んだ。とても、強い力で。


「違います! 照はんが渡したかったのは、うちじゃない。薊はんです! どうして、待っとらんかったの」

 その声にはっとすると、薊は握っていた髪を離してへたへたと地面に座り込み、柵にもたれた。女郎花が掴んだ手が、だらりと持ち上げられている。すべての力が抜けて、やってきたのはいい表せない絶望。薊は吃逆のように時々荒い息をして、相変わらずガタガタと震えている。と、そこへ

「あ、ざみ?」

 雑踏の中、照が、漆の簪を持って立っていた。ゆっくりと照の方を向く薊の目から一滴、涙が溢れる。

「何したんだよ薊、なんでそこで座ってるんだ」

「……っ、照。どうしよう」

 震える手で柵から手を伸ばす薊。もうその手に力はほとんど残っていない。だんだんと息も荒くなって、そして唐突に細くなる。女郎花が梅を飲んだことを伝えると、照の顔色が変わった。地面にしゃがみこんで薊の手を強く握る。


「なに……してるんだよ薊」

「……はぁっ。ね、照。ごめんね……」

「なんで謝るんだよ」

 その返答に口を開く薊はしかし、うまく言葉にできない。言葉にならない吐息が、何度も何度も吐かれる。そしてようやく

「ああ…その簪…。アタイにつけて」

 と薄く笑った。その目はもう虚ろで、どこか遠くを見ている。そんな薊を呼び戻すように強く手を握り、柵から手を伸ばしてその簪を薊の耳に乗せた。


「アンタ、短いから結えないじゃないか。似合わないよ。……似合わないよ今のアンタには」

 顔を歪めた照のその言葉にふふ、と笑う薊。口から漏れる息は、どんどんか細くなっていく。

「ねぇ、顔……もっと見せ……て。怖い」

 その言葉に柵にもっと近く照。薊と照を割くものは、朱色の廊のみ。薊の目が照の顔を写した。

「ああ、怖いだろうね。そりゃそ」

照の言葉を遮るように、手に少し力が入る。最後に一握りの生を、そのやせ細った体躯から絞り出した。

「照をおいていくのが……怖いよ」

 その刹那、薊が目を閉じた。体から力が抜けて、腕の重さが照に任されたことが分かる。体の底から湧き上がってきた獣のような叫び声が、響き渡った。

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