暑さに目を瞑ることはない

「この所、暑くて嫌になっちまうよ。袖をゆわえてしまいたいね」


 手で顔を扇ぎながら、薊はそう言った。着物は春と変わらず、薊の模様の映える艶やかな着物であったが、時季柄、どうしてもそれが分厚く見える。袖を捲ろうとしている薊に椿は眉をひそめ、扇子をひらひらとさせながら、


「ぬし、はしたないことはやめなんし」


 とたしなめた。白地に椿の扇子がまたひらりひらりと宙を舞う。その涼しげな様子に反して、薊の顎から首筋にかけてすぅっと一筋の汗が伝った。


「それにしたってこの暑さ、参っちまうよ。このまま汗を流していたら、干からびちまう。百合はまだ帰ってこないのかい?」


 女郎花は柵越しからそっと通りを仰ぎ見る。太陽がてっぺんにある今の時間帯、人はまばらで通りの突き当たり前で見える。だが、百合たちの姿は見えなかった。


「……少し遅いどすなぁ。まだ帰ってきておられません」


 女郎花は困ったように眉をハの字にさせる。


「ああ、もう! 百合になんて水を頼むんじゃなかったよ。見廻組に取って来てもらえばよかった」


 薊は暑さのせいか、苛立ちを隠さずに言う。普段の笑顔が影を潜める程度に朱い柵の中は人の熱と、地面からの熱。それから何か他の熱で入り混じっていた。薊は、恨めしそうに額に手をかざして太陽を見上げる。我関せずと煌めく太陽が眩しさを増して、また一筋、薊の額から汗が流れた。


「「水ー」」


 そう言って百合たちが舞い戻ってきたのは、それからしばらくしてからのことだった。百合を連れだっている見廻組の女は笠をかぶっていたので、その鋭い眼光が見えずに女郎花は少しほっとした。女郎花がその目を少し苦手とするのは、どこか言及されているような気分になるからだ。悪いことをしていないのに罪悪感が芽生える。しばらくここにいて、色々なことには慣れた。慣れるべきでは無いようなものも、諦めがつくようになってきた。だが、監視されるのは未だに慣れない。濃紺の涼しげな法被を翻して早足でやってくる見廻組の女から視線をそらして、女郎花は柵にもたれた。


 錠を開ける音がして、百合たちが廊に帰ってきた。その両手には茶碗と水を入れた竹筒を持っている。


「「持って帰ってきた、飲んで」」


 鏡合わせにしたような百合は、言葉一つ一つも違わずに全てが合わさっている。それはまるで息をする瞬間さえ同じなのではと思わせる程だった。二人の百合の髪につけてある鈴がチリンと涼しげに鳴る。その音を聞きながら、差し出された茶碗を廊にいた花たちは受け取った。一口飲むと、冷たい水が喉を通り過ぎるのがわかる。三人の顔に漸く笑顔が戻った。が、見廻組の一言にその顔は再び曇ることになる。


「おい、これから今月死んだ輩の死体を運び出す。とりあえずその連絡だけはするようにフジノ様から言われた。伝えたからな」


 その言葉に薊は顔を曇らせ、訊く。


「最近何か流行り病でもあるのかい? 今月もう二回もやってるじゃないか」


「さあな。夏の暑さにやられたんじゃないか? せいぜいお前らも、くたばらないように客と寝ることだ」


 そう言うと見廻組の女は踵を返し、またどこかへ行ってしまった。茶碗の水が、揺らいだ。

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