第八章 その三

 昭和二十八年六月二日。



「旦那様、雪子です。入ってもよろしいですか。」


 ノックと共に声が聞こえる。


「なんだい?何か用かな?」


 仕事の手を休めずに声だけで返事をする。


「中に失礼してよろしいですか。」


 雪子は母親の遠縁の娘だと聞いている。若い娘ではあるが頭もよく、機転も利く。セツとは違い子供たちの相手をする体力もある。いつも二人の娘と一緒になって遊び回っていてくれていた。


「うん、構わないよ。」


 私の返事を聞いたのち『失礼します。』と頭を下げながら雪子が書斎に入ってきた。


「どうしたんだい?」


 私はチラッと雪子に視線を送り、再び机上の書類に手を付け始める。


「はい、旦那様。申し上げたいがあります。」


 雪子が私に?一体何の話なのだろうか。


「わかった、少しだけそこで待っていてくれ。今は手が離せないんだ。」


「かしこまりました。」


 それから何分経っただろうか。ようやく一区切りがつき、雪子の方に目線を送る。


「すまないね。それで話というのは何だろうか?」


 ペンを置き、雪子の目を見ながら問いかける。雪子は困ったように目を伏せる。


「はい。お忙しいところ申し訳ありません。しかし、お伝えしたいことがあります。」


 雪子は言葉を選びながら話しているように見える。


「なんだろう?」


 いつもの彼女とは違う様子に戸惑いを覚えながらも平静を装い尋ねる。


「舞お嬢様とセツさんが外に出かけています。散歩と言っていました。」


「そうか。愛は?」


「はい。愛お嬢様は今日は少し体調が良くないようで。お部屋で眠っています。」


「うん。」


 どうにも要領を得ない。何を伝えたいのだろう。


「お嬢様とセツさんがお出かけになられてから、かなり時間がたっています。」


「どのくらいだ?」


 私にとっては当然の質問を返す。


「一時間くらいだと思います。」


 一時間。そう長い時間ではないが、舞はまだ三歳だ。そう長いこと歩けるような年齢ではない。


「外で昼寝でもしているのではないか?」


 時間は十一時。セツはとてもできた女性である。立場をわきまえた行動がとれ、しかも賢い。私はセツに信を置いていた。


「ですが、少し気になります。」


 雪子の顔には後悔の表情が浮かんでいる。『うん?』と言って先を促す。


「セツさんが青年団長の方と揉めていたんです。」


 それを聞いて嫌なものを感じ立ち上がる。


「彼と?いつ?何をもめていたんだ?」


 雪子を問い詰めるようにきつい口調で問う。


「私が聞いた言葉は・・・」


 嫌な予感がする。セツは我が家で四十年以上勤めてきた高無家のすべてを知っていると言っても過言ではない女性だ。そんな女性と揉めていたとなれば、娘達のことしか無い。


「なんだ?早く言え!」


 私は苛立ちを隠しきれずに雪子の肩を揺さぶる。


「いえ、はっきりは聞いていないのです。ですが、お孫さんがどうと・・・」


 雪子ははっきりとは言わないが、何かを感じ取っているようだ。


「どうしてすぐに私に伝えなかったっ!」


 感情的になった私は雪子の頬を打った。いや、これは八つ当たりだ。


「申し訳ありません、申し訳ありません。」


 雪子はひたすらに謝っている。雪子が悪いわけではない。気が付かなかった私にも落ち度がある。


「もういい!二人はどこへいった?」


 その時、扉が開いて愛が部屋に入ってきた。


「愛っ!」


「愛お嬢さまっ。」


 私と雪子の声が重なる。


「けんかしちゃだめ。」


 愛がはっきりと話す。三歳児の愛が、だ。


「お嬢さま、喧嘩などではありません。私が悪かったのです。」


 雪子は愛のもとに駆け寄り、頭を撫でながら話しかける。雪子の左頬は私のせいで赤くなっている。


「ごめんな、愛。けんかしてたんじゃないんだ。大事な話の途中なんだよ。」


 私も愛のもとに歩み寄り、笑顔で愛娘の顔を見る。しかし、愛の表情はどこか大人びた表情で私の目を見ている。


「おとさ。舞を探して。すぐに。」


「ん?そうだな、そうするよ。」


 動揺を隠しきれなかった。愛は舞がいないことに気がついているのだろうか。


「大丈夫ですよ、お嬢さま。私がすぐに舞お嬢様を探しに行きますから。」


 そう言って雪子は立ち上がり、私に一礼をして部屋から出ていこうとした。


「まって、ゆきこ。」


 愛が大きな声を出す。私たちは驚いて愛を見た。


「やしろ。」


 それだけを言って、愛はその場に崩れた。私は呆気にとられ、その場に倒れている愛を抱きかかえた。


「雪子!社に向かってくれ。私は・・・」


「旦那様、お言葉を返すようですが、私と一緒に来てください。できれば愛お嬢さまも一緒に。」


 雪子はいつもの優しい表情ではなく、何かを決意した厳しい表情をしている。


「しかし、この状態の愛を連れては行けないだろう?」


 雪子は毅然とした表情で私に行った。


「この家が安全とはいえません。愛お嬢さま一人を残しては行けないと思います。愛お嬢さまは私が背負います。旦那様、行きますよ。」


 そう言って、雪子はどこから取り出したのかおんぶ紐の準備を始める。


「あ、あぁ。わかった。」


 私は雪子に圧倒されながらも、気を失ったままの愛を雪子の背に預けた。

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