七十四:手向け

「ロープは張ってあるけど、気をつけて」


 比較的滑らかな山肌の中に張り出した、花水木の花咲く小さな高台。成人が五人入れる程度の小さな広場は、未だ夜明け前の薄暗闇に包まれていた。

 灯りはスイタイが持つ懐中電灯と、クロッキーがアーミラリから借りっぱなしになっている電池式のランタン。その灯りに照らされて、光輪をかたどる鉄の墓標が、丁寧に均された地へ影を落とす。墓碑銘をはじめ個人を特定出来る情報ものはなく、勿論人の立ち入らぬ墓地に献花などもない。抜け殻のようにただ突き立つ、赤錆びて風化しかけた鉄輪だけが、此処を死者の寝所であると定義づけるばかり。

 そんな墓地の縁、転落防止用の杭と紐が張り渡されたぎりぎりに、写真家ライカは音もなく立つ。瞬間、山肌を駆け上ってきた風に羽織った死装束が煽られ、ばさりと羽ばたくような音を立てた。

 それに釣られてアザレアが顔を上げれば、


「だ、」


 そこに映るのはトートでも誰でもなく。

 折れたナイフを握り締め、返り血に塗れながら泣きじゃくるスーツ姿の男で――


「アザレア、見るなッ!」


 それに手を伸ばしかけた物殺しは、付き人に後ろから抱え込まれて我に返った。

 はっとして周囲を見回せば、いつの間にか自分までもが高台の縁に足を掛けようとしている。トートの方はと言えば、何事も無かったかのようにその場で胡座を掻いており、カメラを携えて遠くの空を眺めているのみ。

 ならば、先程見えた血塗れの男は誰だったのか。この場にいるはずがないことは確かで、ならばやはり幽霊だとでも言うのか。

 唖然としてキーンに引きずられるがまま三歩下がり、地面にへたり込んだ少女に、掛かるはスイタイの声。


「何か見えた?」

「――――」

「付き人さん、なんか見た?」

「七回目の物殺しを。……此処で死んだのか」


 未だ自失から覚めないアザレアとは対照的に、キーンの声は至極落ち着いたもの。主人と共に地へ膝をつき、微かに震える少女の背を摩って落ち着かせてやるその横顔から視線を離し、山の主は小さく頷きながら、腰に下げた鞄から煙草を取り出した。

 指に挟んだままライターで火を点け、今は虚無ばかりが広がる頭に近づける。流石にその状態で喫するものではないのか、煙は真っ直ぐ上って渦巻きも棚引きもしない。しかしてそれに構うことなく、スイタイは喫煙の真似事をしながら問いに答えた。


「一人だけ……此処で還して、そのまま飛び降り自殺。それ以来、此処にずっと居るんだ。還された方はとっくに成仏してるのに、あの人だけが此処に取り残されたままさ。もう四百年も前の話だよ」

「どうにもならなかったのか?」

「此処の王様と一緒に供養して、その後も末社として神社にお祀りしたんだけどネ。効果がない上に、移転した後は妙に人を引き寄せるもんだから」


 入場制限もさもありなん。王の寝所は、いつの間にやら自殺の名所と化していたのだ。

 罰が悪そうにあたまを指の腹で撫で付けるスイタイを余所に、キーンはアザレアが立っていた場所へと視線を向ける。そこではトートが機を窺うように座り込んで動かず、クロッキーまでもがスケッチブックを抱えて横に侍っていた。

 残り少なくなった絵具をパレットに絞り出し、ペットボトルにわざわざ汲んできた水を水入れに移して筆を湿らせ、真っ新な白紙の上からいきなり色を置く。まだ夜明けまで時間があると言うに、彼にはもう何か見えているのか。ランタンの十分でない灯りを頼りに迷いなく手を動かす姿は、鬼才とすら呼ばれた往時の絵師おやを思わせる。

 転落死しかけた恐怖が収まり、幽霊めいたものを見た衝撃が過ぎ去って、ようやく落ち着きを取り戻してきた主人。その華奢な肩を抱きながら、付き人は広場の縁へと歩み寄る。先程キーンも見た男は、どうやら此処を去るつもりはないらしい。生けるものどもなど意にも介さず、ひたすら居ない何かに縋って嘆くばかり。哀れなことだと付き人は思いつつも、助けられるほど器用でも無ければ、助けたいと思うほど優しい性格ですらない。

 ――それでも男に声を掛けたのは、主人アザレアが彼に持たせてくれた、一欠ひとかけの慈しみのせいだろうか。


「この景色は、貴方が最初に見出したんだな」


 返事はない。

 だがそれでも構わない。


「もう良いのではないか。贖いは既に済んだ、貴方がいくら此処で泣き腫らしたとて、それが貴方の想うものに届くことはない」

「ケイさん、それってさっきの」

「さあな。後は葬儀屋の仕事だ」


 ぼやくように返して、鈍さを帯びた視線は遥か遠く地平線の彼方。釣られて物殺しも顔を上げなば、いつの間にやら夜闇は明けかかり、紺碧の空を朱色あけいろの陽光が染め上げようとしていた。

 崖の近くまで張り出した花水木の枝が、吹き上げる強い風に揺れる。年老い、開花の時期も外れるほど耄碌もうろくしながら尚鮮やかな薄紅色の花弁が舞い飛び、ものどもの視界を一瞬隠した。


 瞬間。

 写真家ライカの手が今こそとばかりカメラを構え、直前まで調整を繰り返してきたピントの向こうを過たず、寸分の狂いもなく切り取った。

 続けて、二枚。三枚。張り詰めた空気に黙り込む一同を置いて、シャッターを切る。


 ライカの手が止まりカメラを下げた後も、一行はしばらく言葉もなし。

 その視線の先では、死に逝くものを祝福するかの如くに、あけの陽が地へ道を引いている。少し仰げば、未だ紺碧の色と休まざる星々が残る空には雲一つなし。その代わりに架かるのは世にも炯々けいけいたる御使の梯子。そして中心を渉る白銀の月。

 ――この世に神が座すと言うならば、それはこの中にこそ在る。そのような戯言を信じ込むに充分なほどの、目も眩む粛々たる静寂しじまがそこにはあった。

 かつて慕った男が百年求め続けた対価として、それに値するだけの価値は、そこに在るだろうか。


「……嗚、呼」


 掠れた、然れど満足げな溜息を一つ零して、額縁の頭が静かにうなずいた。


「ライカさん?」


 物殺しが問えば、魅かれたように立ち上がる。

 平素と同じ逆合わせの喪服のポケットから数珠を引き出し、音もなく身体を反転させ。白紙の感光紙を内に収めた遺影は、数珠を掛けた手を、そっと己の心臓の上に置いた。


「写真を、持ってゆけ」

「報酬ですか、それ」


 沈黙は肯定なり。覚えている。

 ならば、躊躇はすべくもない。

 貴婦人の懐剣を鞄から引き出し、血振りするように腕を払いざま、畳まれていた刃を開く。迷いを振り切るように一度閉じられ、そして見開かれた双眸は、男の陰に入っても尚虎目石の如く耀き、真っ直ぐに死に逝く物を見定めた。

 微かに、手が震えそうになる。“粗悪品”も含めれば数十人を還したアザレアとて、人として、ただ平和を享受するばかりのか弱い少女として、それなりに長い付き合いのある物を手に掛けることへ躊躇がないわけではない。だが、一週間も前から約束していたことを、今更反故する訳にはいかないのだ。

 決意し、改めて小さなナイフの柄を握る。対するトートは、数珠を持つ手を鳩尾の辺りに置いて、静かに還されるを待つばかり。

 先程導くように触れていた心の臓、その真上を見定め、間合いを詰めて、掬うように一閃。研ぎ澄まされた刃があばらをすり抜け、その後ろに秘められた急所へと至る。その手応えは――無論ぶ厚い人の身を貫いている固さはあるものの――今まで還したことのある物と比べたならば、あまり感じられない。まるで柔らかい布へ剃刀を押し付けているような、奇妙な軽さがそこにはあった。

 それが、深い諦めの成せる業なのだろうか。然したる障害もなく、ナイフを引き抜くと同時に何かが折れ果てる音が微かに響いて、男の身体がふらりと力を失う。覆い被さるように倒れ込まれ、咄嗟に腕を出して受け止めようとしたアザレアは、その時トートが何事か呟くのを聞いた。


「貴方も、逝くんだ」


 誰に向けたものかなど、疑問に思うまでもない。

 葬儀屋の手がゆっくりと虚空へ、否そこに泣きじゃくるスーツの男物殺しへと述べられ、決して離さじとばかり握り締められる。同時に、

 青い火が、男の纏う死装束から上がった。


「ひ……!?」


 目の前で人体が燃え上がったせいだろう、クロッキーが引き攣った悲鳴を上げて身を縮めたものの、より近くにいる物殺しには分かる。

 触れても、温度が無い。しかして、遂に膝をついたトートの身は、火が触れた端から焼けて白い灰と化していく。ならばこの燐火は、他者を、或いは生きとし生ける全てのものにとって、それを害する為に在るものではない。未だ還らぬ物を帰し、未だ掬われぬ死者を救うための葬送火おくりびなのだ。

 刃を畳み、二歩後ろに下がる。恐らく抱き締めたとて延焼はすまいが、それでも近くに寄る生者に慮っていたのか。それまで死に装束だけを炙っていた火はいよいよ激しく渦を巻き、見る見る内に男の身体を灰へ還してゆく。その様は無惨とも残酷ともグロテスクとも言い難く、むしろ――


「綺麗」


 思わず、といった風に物殺しが呟くと同時。

 キーンの上背よりも高く上がっていた青い火柱が、解けるように掻き消えた。

 後に残るのは大量の――そう、まるで――白く輝く細かな灰と、延焼を免れた白檀の数珠、そして供物の如き体で地面に置かれた機械式のカメラのみ。

 長く、長く横たわる静謐は、やがてフリードが灰の傍へ膝をついたことで、ゆっくりと溶けた。

 手袋を着けたままでもお構いなしに、灰を両手で掬い上げる。人の灰と言えば石灰の如く手に残るものであるが、トートが燃えた後の灰は、あたかも砕いた石英のよう。さらさらと音を立てて手から零れ、砂粒のように地面へ当たっては八方へと砕けるひらを、墓守は名残惜しげにゆっくりと手から滑り落とす。それが如何様な感情の発露によるものか、スイタイは分かりきった風に投げかけた。


「お古で良いなら風呂敷あげるよ」

「……良ければ、お願い出来ますか……」


 掠れた声が、灰と共に風へ浚われる。

 スイタイは最早何も言わず、腰に下げた鞄から白い風呂敷を引っ張り出し、フリードの手元まで放り投げた。片や墓守の方はと言えば、深く被ったフードの下、慟哭を堪えるように線香の煙を揺らしながら風呂敷を広げ、その上に灰を掻き集める。遺った数珠も一緒に風呂敷包みの中に仕舞い、口は結ばず丁寧に折り畳んで、片手に収まるほど小さくなった故人を両手で掻き抱いた。

 喉をついて出そうになる嗚咽を堪え、平静を装って立ち上がる。それでも繕い切れない動揺は深呼吸と共に解き、感情的になる心を落ち着かせたところで、やおら視線を物殺しへと上げた。

 ――分かっている。


「四本?」

「トートさんの分と、トートさんの所有者おやの方と。それからさっきの人と、王様に」


 物殺しが両腕に抱えたのは、一杯に花を付けた花水木が四本。内二本が、トート本人によって要望されたものである。勝手に二本付け加えたのは、彼女なりの先人に対する敬意と、貴人の寝所で騒いだせめてもの詫びのようなものだ。

 少し困ったように笑いながら、地面へ花束を置こうとした物殺しを、フリードは思いついたように手で制した。


「先程の、物殺しの方の分と仰いましたか」

「はい」

「あぁ――それでしたら、三本で構いません」

「?」


 一本は何処に消えると言うのだろうか。きょと、と小首を傾げてみても、フリードから答えが出ることはなく。無言を貫いたまま、するりとアザレアの腕から花水木の枝を抜き取り、瑞々しく咲き誇る薄桃色の花弁をそぞろに眺める。

 しばらく穏やかな沈黙が続き、ようやく墓守が言葉を綴ったかと思えば、問いに対する答えとは言い難く。


「死後の道行を死者自身が決められると、今まで信じたことはありませんが……」

「ありません、が?」

「信じる気になりましたよ、今。ようやく」


 そう呟いて、昇る朝陽へ視線を逸らし。

 祝福の如く伸びる金色の途が消えるまで、ものどもはじっと、遠く雲なき天を見つめていた。

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