五十:救援
鳩尾から横隔膜を貫き、肋骨を掻い潜って、心の臓へ。女性向けに軽く細く、しかし狩りや釣りに扱える切れ味と頑丈さを持った小さなナイフは、確かにクロッカーの急所を抉って引き抜かれた。
どう、と重い音を立てて仰臥する男の身体。その上へ馬乗りになり、物殺しは刃を振り下ろす。切っ先は喉元――人の身と器物の境界。とどめの一撃を喰らわせんとする動きに迷いなく、ひたと見据える双眸の輝きに曇りもない。
振り上げた位置からの最短距離を、少女の手が出せる最高速で。体重と勢いを乗せて突き下ろされた凶刃は、
「こ、の……っ、
咄嗟に振り上げたクロッカーの左手、その手の甲を深々と貫くのみ。
「っが、ぁ……!」
――躊躇のない、徹底的にして精密な破壊。こんな技術を、こんな精神性を、一体全体誰が叩き込んだと言うのか。分かっている。彼女自身からそれは宣言された。それでも、問わずにはいられない。
急所に深い穴を開けられ、急速に力が抜けていく。一度でも、一瞬でも抵抗の意志が途切れてしまえば、最早それをもう一度奮い立たせるのは至難の業だ。急速に萎えてゆく戦意と反比例し、雪崩を打って脳裏に溢れる支離滅裂な思考に、クロッカーの意識が霞む。
当然隙は見逃さない。鳶色の双眸を冷たく光らせ、アザレアはとどめの一撃を浴びせんと刃を翻し、
止まった。
「ぁ゛……ぁ、アザ、れ、ァ……」
物殺しは聞いてしまった。衰弱しきった声を、聞き覚えのある男の声を。
クロッカーが取り留めそこねた寸秒、隙なき男に生まれた最後の
「テリーさ、」
振り向きかけて、脚に走った僅かな痛みと熱に遮られる。皿のように見開いた眼が見るは、黒い
身体が動かない。カシーレのように何か得体の知れない薬物を打たれたのだ、と、パニックに陥った頭でも勘付くのは難しくなかった。しかし、それが分かったところでアザレアにはどうしようもない。彼女が一般人より優れているのはあくまでも精神的動揺が少ない点だけであって、肉体面で言えばただの脆弱な女子高生に過ぎないのだから。
それでも、何とか動かせないかと頭だけは指令を送る。カシーレの時と違い痙攣すらしないが、考えるのを放棄すればそこで終わりだ。
然れど、悠長に考えることを、クロッカーは認めない。横向きに倒れたアザレアを乱雑に蹴り転がし、仰向けに倒し直す。靴の踵が当たった腕が痛むものの、弛緩し切った筋肉はまるで言うことを聞かず、顔を歪めることすら出来ない。
「全く、手間ァ掛けさせてくれる……」
そうこうしているうちに、柱時計はアザレアの上に覆い被さってくる。手にはまた別の注射器をいつの間にか握りしめていて、血塗れた左手は抵抗出来ない少女の肩から胸、腹を這い、淡い色のワンピースに赤く血の跡を残した。その様を穴が空くほど見つめながら、それでも物殺しは指一本動かせない。
殺されるのだ、とぼんやり思った。肉体的な意味でも精神的な意味でも、どちらでも構わない。とにかく己は、あらゆる意味で再起不能にされる。彼ならば必ずそうするだろう。そう確信出来るだけの殺気をクロッカーは持っていたし、彼女には似たような激情をぶつけられた経験もある。故に物殺しは平坦にそれを受け入れた。
ただ、そこに誤算があるとすれば。
クロッカーは、彼女が思う以上に悪辣で歪んだ精神性の持ち主であることだろう。
「はは、意外と売れる身体してるじゃないですか。これはすぐ殺すんじゃァ勿体ない」
薬液の充填された注射器を投げ捨て、代わりに黒い外套の内からぬらりと現われるは、鋏。その刃は先程付けられた血痕を切り取り線として、驚くべき切れ味の良さを以って
一閃。朽ち葉色のシャツとインナーが瞬きの間にただの布切れと化し、色素の薄い肌が顕わになる。それにも飽き足らず、クロッカーの左手が焦らすように触れるか触れぬかの間際を這い、そして黒いズボンにまで至ったとき、アザレアはようやく彼の意図を察した。
――殺す前に、犯すつもりなのだ。
「……! ッ、……!」
背が凍りつくほどの嫌悪と恐怖。上げようとした声は、しかし薬物により緩み切った喉をすり抜けて吐息にしかならず、ただ見開いた双眸を濡らして涙だけが目尻から溢れる。その表情をすら最上の美術品でも見るかの如く愉しみ、黒光りする鋏の刃が下の服にゆっくりと差し入れられ——分厚い布地が断ち切られる、寸前。
風を切り振り下ろされた大質量が、柱時計の後頭部を打ち据えた。
「っと……」
恐らくは威嚇攻撃だったのだろう、頭に喰らったダメージは然程のものでもない。休めるまでもなく、無視できる程度である。しかしながら、己に攻撃できる何ものかがいることは無視ならぬ。
索敵。背後に一つ、不安定に揺らぐ気配を探知。ゆっくりと振り返る。その視界に映すのは、錆びた鉄のパイプを傷だらけの両手に持ち、割れた画面に砂嵐を吐きながら佇む一人の物。その半壊したブラウン管テレビの頭と、露出した手や首に見える傷の治療痕に、クロッカーは確かな見覚えがあった。故にこそ、かの物は余裕の態度を崩さない。乙女の牙城を崩そうとしていた鋏を床に放り、悠然と立ち上がる。
対峙した“廃物”は、理性ある物を見ても動かない。同じく理性を得て此処に立っていると、そう察するのに長い時は要らなかった。
そんな男を見て、一体全体何が嬉しいと宣うのか。顔があれば満面に喜色を浮かべているだろうと誰もが思う大仰さで、罪過と血に塗れた柱時計の手が、白々しい拍手を以って称賛を送る。
「素晴らしい! まさか戻ってくるとは思ってませんでしたよ!」
「…………」
応答はしない。爪が白くなるほど鉄のパイプを握り締め、ちらつきの酷い画面をゆっくりと明滅させながら、ただその場に両脚を踏ん張って立ち尽くす。そんな男の様子を満足げに眺望して、クロッカーはやおら喉の奥から言葉を紡ぎ出した。
「で? 今更復讐しに来ました? それともこの物殺しを助けに?」
クロッカーは、決して学のない男ではない。目の前の“廃物”が黙りこくっている理由も、それが如何にして己と意思疎通を図ろうとしているかも、彼は誰より良く知っている。それ故に聞き返した。
『やっと見つけた』――傍目にはランダムに見える
男は、問いに答えた。
『その子に触るな。』
「おやまあ、随分と正気のご様子で。薬が足りませんでしたぁ?」
『ふざけるな、あんなもの沢山だ。』
「よく言う。身体中から液体垂れ流して、血反吐と一緒に喘ぎ声吐き出してたのは何処の誰です?」
『貴様にそっくり同じ言葉を返す。』
過去を蒸し返すのはお前も同じだ、と。にべもなく言い返されて、クロッカーは続く言葉を捨てた。決して二の句に詰まったわけではない。物として持つ存在定義に従ったまでだ。
かつて己を貶めた恨み辛みを果たしに来たと言うならば、それを嘲笑う材料として過去を出すのは面白くない。見下す側が見下される側と同じ土俵に立ってはなるまい――根本からして善良さと袂を分かつものの、それは確かに、クロッカーなりの哲学か約束のようなものだった。彼はあくまでもそれにのみ従って嘲ることをやめたのだ。やり込められてもいなければ感化されてもおらず、それは対峙する男も理解しているように見える。
立ち位置を変えた拍子に、高い
『その子に触るな!』
「丁重にお断りします」
そこに、沈黙があった。
男が、静かに鉄パイプから手を離す。
『だそうだ、』
声なき声は、打ちっ放しのコンクリートと鉄のぶつかり合う音に紛れ――
何ものかに呼び掛けたのだ、と。そう理解した時には、最早眼前に無力な“廃物”はいなかった。肩で息をする男の姿が立体感を失い、
瞬きの内に豹変は終わり、そこには大柄な人影が一つ。いっそ亡霊じみた静穏さで視界を占拠するのは、須臾の前までそこにいた男より何回りも隆々とした、
それは、見間違えようのない暴威。
物殺しの付き人が、そこにいた。
――だが、どうやって?
「な……ッ」
「よくも、辱めたな」
地獄の底から這い出たような、低く重く掠れた声が、瞬きの間も与えず肉薄する。思考回路が追いつかない。背を駆け上る死の予感だけが、辛うじてクロッカーの身を突き動かす。
掴みかかられる寸前で回避。アザレアから離れるように大きく横へ飛びすさり、着地しざまに懐から拳銃を抜いた。対するキーンは、未だ横たわったままの主を庇うように佇み、得物を構えた柱時計をじっと観察するばかり。敵であるとは認識されているものの、脅威とは見なされていない。どれほどの罪を重ねようが個人は所詮その程度なのだと、穏やかな構えだけが雄弁だった。
「怪我で動けない筈では?」
「ふん」
困惑げな問いには答えない。気配を消し、地面すれすれを跳躍して足音もなく距離を詰める。いきなり気配が消えたことで対応が遅れたか、柱時計はその場で棒杭のように硬直したまま、然れども銃口だけはキーンに向けた。
一気に三発。目にも留まらぬ速度で急所を狙う弾丸を、獣の如く腰を落として潜る。曲げた脚に力を
そのまま首を掴もうとして、急停止。無理やり重心を後ろに傾けて背を反らせば、直前まで胴のあった虚空を、艶消しされた刃が閃いた。穴の空いたクロッカーの左手、未だぼたぼたと血を零すその内には、アザレアが使うよりも大振りのナイフが握り込まれている。
「ひゅぅ、危ない危ない。逃げおおせる隙もありませんねぇ」
慇懃無礼ここに極まれり。恐らくは今までの攻防で――より正確に言うならば、つい先程ナイフの一撃を避けたことで――この包丁が抱えている欠陥を見抜いたのだろう。今なら無力化できる、そう確信を込めた皮肉を投げつけてきた。対する付き人は、その場で低く構えたまま、喉の奥だけで悪態をつく。
この男、愚図でも馬鹿でもない。むしろ、他の物と比較しても指折りに聡明で知性的だ。しかし、彼はそれを、人道を踏み外す為にしか使おうとしない。心身の弱さを見抜く
まことに面倒である。端から言葉を交わす気などないが、向こうは勝手にこちらの弱点を見抜いて、しかもそれを貫こうとしてくる。
そう、今この瞬間も。
「僕の
考えに耽ろうとした
黙って半身を前に出す。刺してくれと言わんばかりの無防備さで。
「何のつもりです?」
「貴様を還すのは俺ではない。今でもない」
落ち着き払った返答に怪訝なものを覚えつつも、瑕疵を庇うための挑発と判断。キーンに勝るとも劣らぬ精度で気配を消して惑わせ、一散に懐へ飛び込んだ。
そこに、声が降る。
〈消えてしまえ〉
――“案内人特権”。
常と響きを異とすることはすぐに気付いた。けれども特権であると気付いたのは、手にしたナイフの感触が、忽然と消えたその直後。見れば、最初から持ってなどいなかったように、ナイフだけがそこにない。
まさか、そんなはずは。クロッカーの驚愕が言葉になってすり抜けるより早く、キーンは脚を引きざまに第二声を放つ。
〈崩れてしまえ〉
次なる異変は身体に襲いかかった。膝から下が砕ける。何とか手を付いて這いつくばることは免れたものの、安堵する暇もなく腕も力を失った。
制圧はあまりに素早く、罪科の権化すら理不尽と思う程度には容赦ない。かつて己が踏みにじってきた相手の如く、完膚なきまでに叩き潰されて地に首を垂れたクロッカーは、見下ろす付き人の吐息が微かに震える様を聞いた。
「……?」
疑問を感じる暇はない。キーンは無力化した柱時計に目もくれず、倒れ込んだアザレアを片腕に抱え、衰弱しきったテリーに肩を貸して強引に立たせたかと思うと、脇目も振らず一目散に離脱した。
その足元が隠しようもなくふらついていたと、罪科の物が知らずにいたことは、果たして幸いであっただろうか。
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