三十五:代理子

 結局、本棚の傍でこそこそしていたプラムを第三塔で見つけ、連結した他塔をぶらりと一周したところで、ケイ達の散策は終わった。リブロウがやってきたのだ。


「プラムちゃーん、ケイさーん。探検は一旦おしまいにして、第一塔に戻っておいで。……って、中尉ってば帰ってなかったの? 大佐が探してるんじゃないの?」

「ふん、我輩の仕事はとうの昔に終わっている。今更フリッカーに呼びつけられたところで行かねばならぬ筋合いは無い。そも、我輩があの場にいたからと言って何になるのだ。何だ貴殿、この枯れ枝のような矮躯わいくで探照灯の横に並び立てるとでも思うか?」

「さあねぇ、僕“粗悪品”と戦ったりするのからっきしだから、よく分かんないや」


 腰の黒いエプロンに付いた白い粉をはたはたと払い、その度に焼き菓子のような甘い香りを漂わせながら、司書は肩を竦めている。その喉から紡がれる、悲観のかけらもない呑気な言葉に、モールディは細い肩を爺臭く落とした。

 いくら長寿でも、いくら博識でも、結局リブロウは図書館の一司書に過ぎないのだ。少年の悩みは理解もされなければ、氷解するなど以ての外。溜息以外出せるものはない。

 やり場のない感情を取り繕い、細い手が古辞書のページを撫ぜる。潔癖に指先まで漂白された手袋は、しかし経年の劣化までは隠せない。散々使い込まれて薄くなった布地は、同じく手垢まみれになるほど使われ劣化した紙と擦れあって、ざらざらとした古い音を立てた。

 何度か指の腹でページをめくり、やがて一つのページで止まる。薄く開かれた小口の合間に掛けた親指は、ただ記憶を辿って茫然としている風にも、そのままページを開こうか開くまいかと逡巡している風にも見えるだろう。

 今少しの沈黙の後に、モールディは諦めたように自身の頭から手を離した。


「貴殿はそうだな。己は卑小な場末の司書だと本気で思っているのだろう」

「まあね」

「フン。吾輩などより余程殲滅戦には向いているだろうに……」


 喉の奥から絞りだされた自嘲に、果たして魔法使いの返答は。

 ほんの微かな、怒りを込めた。


「なんでそんなこと言うの? 僕を侮辱する気?」

「む、吾輩が知る限り、『意術論書』にはものを殺傷し得る魔法も書かれていたように思うがな。魔術書とは魔法を使う為にあるものではないのか?」

「そうだよ。そうだけど……人を傷付けるためにこの身体を貰ったんじゃない」


 悲しげに揺らぐ声色に、流石のモールディも不味いことを言ったと気付いたようだ。あ、とやや間抜けた一声を挙げて明後日の方へ視線をやり、押し黙った。少し距離を取って様子を見ていたキーンが、何時もと変わらぬ声で気まずさを断つ。


「込み入った話は後にしないか。プラムが暇そうだ」

「……そうだね」


 事実を話していることは分かっている。分かっているが、限りなく平坦な声音にはデリカシーもシンパシーもあったものではない。同情を買いたいわけではないものの、呆れるくらいは構わないだろう。

 ふうと溜息をつきざまに肩を落としながら、リブロウは頷いた。



「そう言えば、この――何だ。円環の御使いか? 何故御使いのステンドグラスが此処に飾られているんだ。教会でもあるまいに」

「その教会が元々此処だったの、所有者は敬虔な信徒だったから」

「その割に主の聖像イコンらしいものは無いようだが……」

「僕は信徒じゃないからね。御使いのモチーフは幻想物ファンタジーの題材として好きだけど、宗教的な意味を求めちゃいない。だから僕に主は必要ない。聖像は別のもっと求めるひとの手元にあるはずだよ」


 果実香の強い紅茶にリンゴの蜂蜜を一掬い。澄んだ音色を立てながら混ぜ、引き上げると同時に手元へ差し出す。目の前で湯気を上げる紅茶の杯に、しかしキーンは手を付けない。白いクロスの掛かったテーブルの上で諸手を組み、彼はただ黙々として、他の客の茶を入れるリブロウの手を見つめるばかり。

 右手の中指にペンだこ。長く紙に文字を書き続けてきた――少し意地悪く言うならば、持ち方が少々拙いまま書き続けた――証だ。いつから魔法使いリブレット小説家リブロウの名が付いたのかは定かでないが、ペンを取って相当に長い年月が経っているとは察し得た。

 何とはなしに、己の手を見る。浅黒く節くれ立ち、身長相応に大きい。そして、妙に肌荒れしているようだった。連日駆り出される“粗悪品”との戦闘で気疲れでもしているのか、と考えかけて、そんな訳があるかと心中で自嘲する。

 気を張っているのはいつものこと。心労程度で体調を崩すほど軟弱ではないし、そもそも“粗悪品”との戦闘程度で調子が乱れるような柔弱さは、彼に限ってはない。物殺しの護衛ぶきであると言うのはそう言うこと、強靭無比の精神を持って初めて成し得る役目である。

 ――ならば何故?


「どうしたの、自分の手じっと見て」

「……何でもない」

「何でもないって感じには聞こえないね。どれ、魔法使い様が聞いてあげようじゃないの。その為に来たんでしょ」


 ね、と念押ししつつ、席に着く。優雅に足を組み、白い陶杯を摘む仕草には、生まれたての物にはない繊細さがあった。

 長く生きた物はそれだけ人に近づく。近づき、そして再び人らしさから乖離していく。アーミラリなどは、最早人たることから遠く離れてしまった典型だろう。滅多刺しにされて尚平然とし、心の古傷をどれほど抉られたとて、その存在意義たましいが己の在り方を疑うことはない。人と物の営みを保つために在りながら、自身は人ならざるナニカに変容していく――そんな矛盾を、彼はどうやってか矛盾のまま受け入れられる存在なのだ。

 リブロウは、その点で言えばまだ人間らしい。人の生活に近い場所で暮らし、七百歳も歳下の物に小突かれただけで容易く感情が揺らぐのだから、まだまだ彼は人に近しい物であろう。

 キーンは再び自身の手に意識を向けながら。ぽつぽつと絞り出した。


「手荒れするようなことは、していないはずなんだがな。妙に荒れているから、気になった」

「そなの? 見せて」

「あぁ」


 素直に差し出された手を細っこい両手で受け取り、検分するようにじっくりと眺め回すリブロウ。そのいつになく真剣な態度に興味を引かれたのか、クッキーを齧りながらプラムがその様を見上げてくる。そろばんを弾いていたレザも意識を留め置く中、モールディは一人、御使いのステンドグラスを見上げて甘い紅茶を啜るばかり。

 リブロウの沈黙は三分ほど続き、やがて彼は、喉の奥から感心したような唸り声を上げた。


「とても良い手をしてる。養うもの、誰かに幸せを分けてやれるものの手だ」

「……?」

「長く水仕事をして荒れたみたい。君は包丁みたいだし、炊事か何かでこうなったんじゃないかな。まあ……武闘派きみにはちょっと似つかわしくないかもね」

「――嗚呼」


 詩的な言葉を再記述。それにキーンが納得の意を示したところで、リブロウは持ち上げていた付き人の手を離す。自由になった右手を引き寄せ、まじまじと見つめる包丁をよそに、司書は自身で淹れた紅茶を一口含んだ。いつもの紅茶よりも強い果実の香りが意識を心地よくくすぐり、程よい渋みと蜂蜜の甘味がまろやかに溶けて広がってゆく。

 晩夏から初秋に移り変わる、ほんの短い間にのみ採れるという一等の茶葉。プラムが携えてきた手荷物にあったものだ。つまりは“名家”がリブロウに対して贈答したもので、普段からこうした物品のやり取りは行われてきている。ただ違うとすれば、今回の贈答品の等級グレードが、いつもよりも数段高いことか。

 こんなに良いものを贈られるようなことをしたかしら、とぼんやり司書は考えて、引き取り領収書を書いているレザにふと意識をやったとき、ぼんやりとした疑問に一つの答えを見る。

 即座に視線はプラムの方へ。彼女の方もすぐ気付いて、なぁに、と舌足らずに問いかけては首をひょこりと傾げた。


「プラムちゃん、名家の坊ちゃんは?」

「ぼっちゃん? んー……いつだったかなぁー……おうちにゾンネぼちのひとが来て、ぼっちゃんけむりになっちゃったよ」

「ゾンネ墓地のひと、煙――あぁ、そっか」


 火葬された、と言うことだ。つまり、この世にはいない。今まで聞かされていなかったのだから、息を引き取ったのは一か月ほど前か。緩慢な時の刻みしか持たぬリブロウにしてみれば、それはあまりに最近のことだ。

 いつになく思考を回転させつつ、頬杖をついて押し黙る司書へ、プラムは更に声を掛ける。


「ぼっちゃんずっとおなじ本よんでたよ。そのときのぼっちゃんとってもたのしそーだったって、おとーさま言ってた」

「それ、もしかして……」

「『かおなしのしろ』だって」


 絶句。

 僅かばかりの沈黙を漂わせた後、そっかぁ、と吐息に掠れた声を零して、司書は固く戒められた書の表紙に諸手をそっと当てた。人と同じように表現するならば、顔を手で覆ったとも言えるだろう。

 『顔無しの城』。リブロウが初めて執筆し、そして書き上げた物語。それは幻想と理想を詰めた甘い理想郷であり、同時に彼自身が感じてきた失望と希望の集大成でもある。一から築き上げた自身の世界観に共感し、それを享楽と認めてくれる者の如何に有り難いことか。そして、自身の存在意義を認めてくれた者の死が、如何に哀しく突き刺さることか。

 泣きたいが、生憎涙が流せるほど器用ではない。もう一度震えた溜息をついて、意識を強引に切り替える。組んでいた足を解き、ペンだこの目立つ手で白い陶杯の持ち手を取った。


「坊ちゃんの娯楽を提供した御礼、ってことかな」

「わかんなーい。おとーさまもおかーさまもおしえてくれないもん」


 ぶらぶらと脚を遊ばせながら、乳母車の幼女の声はふて腐れたよう。当事者たるはずの自分が事情を知らないのは、いかな幼い彼女と言えど不満なようだ。

 熱い紅茶を一啜り。茶葉を寄越した主の、刃物で切り刻んだような険しい顔を思い浮かべつつ、リブロウは明後日の方に視線を飛ばす。零れ落ちる声もまた、何処か虚ろな響きを以て、御使いのステンドグラスから落ちる陽光に溶けた。


「ひとの生きた死んだの機微なんて……まだ、君の知ることじゃない。こんな微妙な駆け引き、今知っても全然得しないよ」

「そーぉ?」

「そ。そう言うのはになってから知りなさい」


 ――大人?

 さり気なくリブロウの発した一言に、引っ掛かりを覚えたのはキーン。

 物の年齢とは、即ち物本人が意識する年齢のこと。それは生まれ出でる以前に重ねた年数と刻まれた意志の深さに対応――無論例外は多いが――し、そして命を得た後は固定されて変わらない。それが原則だ。

 しかし、リブロウの言い草は、プラムの意識年齢が変わり得ることを示しているように、キーンには聞こえていた。いくら出自の特殊そうな彼女とは言え、そんなことがあり得るのか。疑念たっぷりに魔法使いを見れば、彼はすぐに反応する。


「プラムちゃんは事情が特殊だから」

「そうは言っても限界があるだろう」

「そんな幅の狭いこと言っちゃ駄目だよぉケイさん。此処じゃただの物が意志どころか命を持つって、そんなの常識じゃない。それに、元の所有者名家にとって、プラムちゃんは娘の模倣であってはいけない。


 それは、氷のように冷たい声音。

 ぞくりと、背に悪寒じみた怖気が走って、キーンは思わず声を震わせた。


「言っている意味を……理解しかねる」

「名家に、幼くて無邪気で優しいままの子なんて要らない。プラムちゃんは人間と同じように、経験を重ねて成長してもらわなきゃ困る。……そういうこと。今はこんな幼い子供の姿でも、いずれ彼女は人と同じように大人になっていく。しかも、人と同じ時の歩みで」


 魔法使いの紡ぐそれは、付き人を絶句させるに余りあるものだった。

 名家、という一族が、清濁を併せ呑む者達であることは、アーミラリの持たせた知識と記憶の中に詳しい。しかし、そこから想像し得るよりも遥かに、彼等は厳格で冷徹な一族であるようだった。

 死病を得て夭折ようせつした――『顔無しの城』は中学生も低学年の童子が読むようなものだ――跡目のはずの息子と、本物の娘たることを要求された特異な物。そこから答えを導くことは簡単だ。

 簡単だからこそ、付き人は恐れる。


代理子だいりし……」


 一族の将来を託すために、本来あったであろう物の存在意義を捻りげてしまえるほどの、徹底的な意志の強さを。

 呻くように呟いたキーンへ、リブロウは重々しく点頭する。


「名家が名家たる所以はそこ。あの人達は、人が人でいようとするためならどんなこともできる。君が物殺しの為に在って自分の魂全てを賭けられるように、名家の人達は人の営みを繋いでいくために在って、一族の魂と誇りを賭けてる」

「だが……!」

「ケイさん」


 反駁を絞り出しかけたキーンの声を留めさせたのは、両手で頬杖をついたプラム。当の本人から掛かった声に誰しもの意識が集まる中、代理子は、まるで何も分かっていないかのようにふにゃりと笑った。


「わぁし、だいじょーぶ。わぁしがいいって言ったんだもん」


 否。

 何も考えていないようで、本当は何もかも分かっているのだ。

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