三十:救済
五時間でダンボール二箱と半分。途中でクロイツが紅茶を淹れて休憩に入らせなかったならば、三箱出来たかもしれない。
果実香の強い紅茶にちびちびと飲みながら、アザレアは今日こなした仕事の成果を確かめていた。相変わらず保管庫は雑然としているし、積み上がった段ボール箱は整理される気配もないが、それでも二か月ほどで全て片付けてしまえるだろう。仮令本業が合間に挟まったとしても。
……二か月。そう二か月で、どちらも終わらせてしまいたい。きりのいいタイミングで終われるならばそれに越したことはないし、何より妹をそれ以上独りにさせておきたくはなかった。
父が蒸発――そうと親族の皆々からは聞かされてはいるものの、所謂浮気や駆け落ちによる家出ではないことはもう
決意も新たに紅茶を含む。そこに、彼女の想いを知ってか知らずか、クロイツが声を掛けてきた。
「物を還して、どう思った」
アザレアは最早、質問の意図を聞き返そうとはしなかった。これから誰の話が始まるのかは察しが付いたし、何故今質問したのかもおよそ分かってしまったから。
紅茶をもう一口。ゆっくりとソーサーへ杯を戻し、アザレアは視線を手元に合わせたまま、己の中に用意した答えを紡ぐ。
「軽かったです。怖いくらい」
「軽い?」
「呆気なかった」
背筋に走る震戦を隠すことで、クロイツには精一杯だった。
まだ高校生の彼女が。もう何百年も生きてきた己からすれば年端もゆかぬ少女が、そう平然と口にする様は、あらゆる生死の営みを尊ぶクロイツにとって恐ろしい以外の何者でもない。何より、軽く呆気ないと言う彼女の様子には事実の重みがあった。耳年増の知ったかぶりでなく、小動物や獣の屠殺でもない。人を殺した経験との比較が、アザレアの口ぶりには垣間見えた。
無論、言おうとしない過去をあれこれ詮索しようとは思わない。だからこそ、底知れなさと恐ろしさが心中に募る。
「……そうか。そう言う子を見たのは初めてだな、私は」
「そうなんですか?」
「嗚呼、物殺しが墓地を訪ねることは頻繁ではないし、この世界の人々が物を還すことはそれ以上に稀だからね。案内人や魔法使いほどに長生きすれば、或いは見ることもあるだろうが、高々二百五十年では機会もない」
――高々のレベルがおかしい。
アザレアは内心舌を巻きながらも、口を出すことはしなかった。
物に人の常識を当てはめることは出来ない。何しろ、最も傍にいるキーンですら生まれ出でて一か月足らずと言うのに、見た目は三十代の立派な成人の姿をしている。要するに、人のような成長や老衰の概念がまるで通用しないのだ。ならば、物にとっての二百年が、人の時と等価であるとはとても考え難い。
クロイツが一体如何なる時の数え方をしているか、アザレアには分からない。しかし、その価値が人の考えるそれよりずっと低そうなことは察しがつく。
とにかく。雑念を振り切るように紅茶を飲み干し、鳶色の目で
「私、ピンズさ……いえ。ピンズから御礼を言われたんです」
「そうだろうね」
「どうしてですか?」
純粋な疑問だった。
人ではないとは言え命を持ち、知性と理性を以て生きた物を手に掛けて、何故感謝されるのかと。罪のないものを殺すことで礼を言われるなど、少なくともアザレアの持つ倫理観に照らせば、恐ろしく歪んでいると言っていい。
しかしクロイツは平然として答える。
「今際の時、シズがどんな状況だったのか。思い出してごらん」
「元気がなかったです」
「もう少し詳しく。元気がないのは今際の物には良くあることだ」
「……鋏を持っていました。後、右手に大きな怪我も」
そうだったか、とクロイツは低く一声。当時の彼の状況を予想していたかのような声音だ。思わず眉根を寄せたアザレアに、刃物のような顔をするものじゃない、と守長は微かに苦味を混ぜて笑った。
言外に包丁の付き人と比較されていることに気付いたのか。物殺しは眉間に寄ったしわを押さえ押さえ、ソファの背もたれに深く身を預ける。そこでクロイツが空だった杯に紅茶を継ぎ足した。
一度預けた背を再び離し、紅茶の中に角砂糖を二つ。添えられた銀の匙で軽く掻き回し、ソーサーの上に役目を終えた匙を置いたところで、クロイツが声を上げた。
「シズは右利きだった。手の怪我は鋏か何かを突き刺して出来たように見えた」
「!」
はっと息を呑んで、杯を取りかけた手を止める。
守長の言葉が一体何を意味しているか、分からないアザレアではない。自分で、自分の、財産とも言える技術を詰めた利き手を傷付ける。その行為がどれだけ切羽詰まって行われたものか。アザレアに、分からないはずがない。
――わたしこれでも感謝してるのよ。
――兄さんが正気を失くす前に還してくれたんだもの。
ピンズの言葉が物殺しの頭を過ぎった。
そしてそれを裏打ちするように、クロイツは慎重に言葉を編み上げる。
「花屋が殺された日だった。何も言わなくていい、聞かなかったことにしていい、ただ話を聞いて欲しいと。――忘れるはずがない。全て覚えている。「嫉妬の内に人を傷付けそうになって、自分の脚を刺したことがある。それ以来自分を傷付けることを止められない。そこら中を転げ回るほど痛いのに、それでも止められない自分がいる。自分は狂っている。怖い」と。泣きながらそう言った」
「シズさんが、そんな……」
「シズの性格を知っているとあまり想像の付かない話かもしれないね。だが、私は無理もないことだと思っている。何しろ彼の元の所有者は、彼で針子や親兄弟を殺しているんだ。皆殺しだった」
「…………」
「その遺体は此処で受け入れたが――あれが才能に対する嫉妬と努力しても埋まらない差への絶望のみで成されたと言うなら、シズは生まれながらにして恐るべき狂気の火種を抱えていたことになる。それほどに、綺麗だった」
綺麗だった。
その一言に、アザレアはクロイツが目の当たりにしたであろう狂気の一端を聞く。
綺麗と言うことは、つまりその瞬間に躊躇いが無かったことと同値。純然たる殺意だけを載せて刃を振るうのが、如何に狂気と背中合わせになった行為か。物殺したる彼女が知らぬ道理などない。
そして、それほどの狂気を抱えながら、尚彼はそれを抑えつけた。人を殺した
もう、誰さえも傷付けないように。
「どうして……」
「運命とは時に残酷なものだ。世界とは往々にして善い人や物にこそ試練を課す。それを超克したからこそあの彼が居たと言うことも、恐らくは出来てしまうだろう」
「そんな、の。酷い」
彼が望んでそうなったわけではないのだ。ただそんな性質を生まれ持っただけで、何故ああも苦悩せねばならないのか。アザレアは吐き捨てるように呟き、注ぎ足された紅茶を改めて一口含む。あの日シズが淹れた茶の如く、苦い味が舌の上に残った。
対するクロイツは、物殺しの言葉に小さく首を振る。
「彼は、平穏な心の内に還りたいと願った。完全に理性を亡くして潰されるより、人として在れる内に眠ってしまいたい、と。それが出来たのは貴方だけだ、アザレアよ。他の誰でもなく、物殺しとしての貴方を、彼は選んだ」
「私じゃなきゃいけない理由があったんですか」
「貴方はシズの店で服を仕立てたじゃないか。他の誰でもなく、何処でもない」
――ファーマシーは恐らく貴方に幾つかの選択肢を示したはずだ。それでなくとも、付き人は物の街の地理を知っている。貴方に何らかの示唆はしただろう。
――その中から、貴方は選んだ。
――貴方の行為の真意が何処に在れ、何であれ、彼にとって貴方という来訪者は重大な選択の答えとなった。文字通り、生死を分ける問いの。
淡々と紡ぎ上げられる言葉を、アザレアはただ俯き拝聴する。
状況に振り回され、他の事情を知る者にただ諾々と従って起こしただけの行動さえ、この世界では命ある物の生死を分かつほどの意味を持つのだ。ならば、今まで重大事と思っていなかったあらゆる行為が。目の前の出来事を処理する中で聞き流してきたことが、今後を左右し得る選択の鍵を握るかもしれない。
彼女の聡明さがそう思い至るまでに、さほどの時は要らない。鳶色の双眸を一度ゆっくりと閉じ、そして何かを確かめるように見開いては、差し向かいに座す教導者の頭を見た。
茶の瞳は磨かれた
「もしも、人の模倣に過ぎぬ器物にさえ人の如く尊厳があるとするならば――物殺しと言うのは、その最たるものなのだろう」
煌めく瞳が、一度瞬いた。
「尊厳、ですか」
「嗚呼……精神を病んで人から蔑まれながら誰かに殺されるより、人として在ることを許されている内に還りたいとは、物の誰しもが心の何処かで考えているものだ。その手段の一つとして物殺しは招かれているのだろうし、アザレア――貴方のように、願いを叶えて還す物殺しなら尚更。彼等の尊厳の象徴と言い得る」
――それがいかに自分勝手な願いであり定義かは承知している。だが、私達には最早物殺ししか頼れるものがいない。
――この世界の誰も、私達を還してはくれない。もし貴方達が居なければ、私達はこの心が擦り切れて尚生きねばならない。それはとても、辛いことだ。
「――――」
絞り出すような声音に、アザレアは長く沈黙を返した。
心は既に、シズを還す前から決まっている。言いたいことは数日前にトートがくれた。ならば、後は言葉にするだけ。しかしその言の葉を選ぶことが難しいのだ。何せアザレアは、聡明ではあってもまだ高校生の身。若さ故の浅学が彼女を黙らせる。
クロイツはそれを知ってか知らずか、ただだんまりとして彼女を待った。そして物殺しは、たっぷり数分ほども考え込んで、やがて一つの言葉を編み上げる。
「クロイツさん、質問いいですか」
「どうした?」
「アイザック・スチュワートってひと、今はなんて呼ばれてます?」
一瞬、十字架の中央にはめ込まれた透明な石が、驚いたように光を照り返した。
しかしその驚愕は丁寧に隠され、代わりに返ってくるのは平静な声ばかり。
「通り名は、リペント。彼は森外れの街で、恐らくはまだ生きている。いや、生かされてしまっている」
「……嫌な言い方ですね」
「私もそう思うが、しかし彼についてはそうとしか言えないんだ。あれはもう、貴方にしか救えない」
――どうか、手を貸してやっておくれ。
微かにかぶりを振りながら、守長は懇願めいてそう零す。
滲む悲哀の色には、何も見出せない。
まだ。
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