二十五:預言
のろのろと雲が群青色の空を渡っていた。
夜の八時過ぎ。最終一本手前の便を待ち、アザレアとトートは駅舎のベンチに並んで座る。墓守があの受入所に常駐している必要はないらしく、物の街へ行く切符は二人の手にそれぞれ一枚ずつ握られていた。
汽車が来るまでは三十分。携帯などは持ち込めなかったから、めぼしい暇つぶしと言うと本しかない。こんなに真面目に読書をしたのは何時ぶりであろうかと、アザレアは心の中で苦く笑いながら、ファーマシーの医院から持ち出した文庫――『顔無しの城』を出す。ぱらぱらとページをめくれば、中盤辺りに読みかけで止まっていた一文を見つけた。
――「ねぇ、起きて。大丈夫?」 まず、ディクスはその人に声をかけた。けれどもその人は瞼をしっかりと硬く閉ざし、ぴくりともせずに、勿論呼びかけに答えることもなかった。
――生きているのだか死んでいるのだかよく分からなくなって、ディクスは一度だけ辞書を閉じ開きすると、心の中でごめんなさいをしながら、ぎゅっとその人の鼻をつまんでやった。よく考えれば、それはとても失礼ないたずらなのだけど、まだ幼いディクスにはそれが一番いい方法のように思えた。
――結論からいうとディクスの考えは大当たりで、むぐ、とその人は喉を詰まらせて、それからほんの少しだけ投げ出した手足を動かした。わっ、と二人は揃って驚き、鼻をつまんでいたディクスはぱっと素早く手を離した。ディクスとルビーは手に手を取り合い、身を寄せ合って、もぞもぞと動き始めたその人を見つめた。
――ゆっくりと、蕾のほどけるように目が開かれた。みがいた琥珀にも似た亜麻色の瞳はけれども、ぼんやりと虚空の霞を彷徨って、また閉じていった。
――「待って!」 大きな声を上げたのはルビーだった。静けさの埃を打ち払って響いた呼び声は、閉じかけていた目をもう一度開かせた。ルビーは連れ合いと握りしめあっていた手を離すと、少し不恰好だけども四つん這いで駆け寄って、その人の細い肩を強く掴んだ。まん丸く見開かれたいちご飴の色の目が、眠たそうにしばたたくべっこう飴の色の目と合った。
――「こんな所で寝てたら風邪引いちゃうわ。わたしたちベッドがあるところを知ってるの、起きて一緒に行きましょう?」 ルビーはその人の胸の上に座って、一息にそうまくしたてた。聞かされた方は、寝耳に水と言ったふうに目をぱちぱちと開いたり閉じたりすると、夜風に月見草の揺れるような儚い笑い声を、色とりどりのビー玉と一緒に転がした。
――「ぼくは良いけれど、キミがいて動けないよ」 かすれた声が言葉を編んで、薄明に溶け消えた。そこでルビーは、じぶんが結構矛盾したことを言っているのに気付いて、顔を赤くしながらその人から離れたのだった。
一つ瞬き。
ページをめくると、白黒だった画面が急に色彩を帯びる。描かれているのは、先ほど読んだところより少し前の場面の挿絵だ。
タイルの床にステンドグラスから落ちる色とりどりの影と、落ちた影の孕む光を含んで煌めくビー玉、そしてそれらの真ん中に倒れる、恐らくは男性と思しき人。水彩絵の具で描かれたらしいそれは、埃のように沈滞する緊張と、綿毛のように儚く穏やかな静謐を同時に表現する。
アザレアに絵を評論できるだけの眼識はなかったが、感受性の鋭さはあった。そして彼女の感性に照らせば、挿絵は素晴らしいものであったし、挿絵を描いた人だか物だかも大変な人格者なのだろうとも思えた。
ふと、挿絵の右下に目をやる。絵とは違う、流れるような筆記体の文字。
――
「あれが?」
アザレアは首を傾げていた。
おどおどとして要領を得ず、自信のない声音で話す少年。絵の具と埃に薄汚れ、いつも泣き出しそうに震えては、しかし根底に確かな自身の存在意義を持つ、命得たクロッキー帳。
なるほど彼は、絵描きが練習帳として使う道具の成れ果てである。ならば、クロッキーが何かしら絵の才能を持っていてもおかしくはないし、それで生計を立てていても不思議ではあるまい。物がその物として生まれてきた経歴と理由に大変忠実なことは――少々対比の例としては特殊であるが――キーンを見ればわかる。
しかし、やはり、彼がこの静謐とした絵を描けるようには、アザレアにはどうも信じられなかった。絵にしろ何にしろ、精神は何処かしらに反映されるものだ。クロッキーのほんの些細な問いかけにも掴みかかってくるような情緒の不安定さで、これほどの静けさが体現できるものだろうか。
――何か、深い根がある。
物殺しはそれだけ確信を得た。
直後、隣からぱちりとシャッターを切るような音がして、トートがアザレアの肩を強く掴んで引いた。
「トートさ、んぐっ!?」
思わず上げた声は口を塞がれ遮られる。
戸惑う暇もなく、彼は少女を何かから隠すように強く胸に抱き寄せたかと思うと、自分ごと長椅子から引きずり落とし、その隅へ少女の華奢な身体を押し込むようにして座り込んだ。唐突な密着に、されどアザレアは羞恥するどころではない。
男の身体は冷や水のように冷たかった。死人のように低い体温の奥で、衣服に焚き込められた
トートの腕に力が篭る。鋼糸のように硬く堅く緊張が張り詰める。
その糸を切ることなくして。
――何かの、
「……!」
人、だろうか。砂利を蹴り、爪先を引きずりながら、それは駅舎の端を彷徨っている。足音に混じって何か雑音が聞こえてくるが、何かは分からない。
ずる、ずり、ず。不規則な間隔で徘徊する
ずる、ざ。
ず。
ざざ。
ざ。
ずり、
ザ――
近づいてくる。
足音に混じり、聞こえてきたのは
ざりざりと砂を噛むような音を垂れ流しながら、それはトートの肩を掴んだ。
「っ!」
枯れ木の如き感触。
はっ、と墓守が息を呑む間もなく、ぐいと掴まれた肩が強く後ろに引かれる。咄嗟にトートはアザレアを抱える腕の力を強め、背を縮めて抵抗しながら、頭だけを廻らせその方を見た。
恐らくは、男性。擦り切れて袖の取れかけたスーツ。上から下まで錆や鉱油や諸々の体液で薄汚れ、ゴミの集積場もかくやの汚臭を放つ。片方の靴はない。未だトートの肩を掴む手は、爪という爪が割れ剥がれてどす黒く血が固まっている。
その頭は、大きく破損し、ちぎれたコードが飛び出すブラウン管のテレビ。
一見すれば“粗悪品”にしか見えぬ無様。しかしトートは、その呼称をこの物に使うことは躊躇った。
何故ならば。
「――……?……、……」
自分が手を伸ばしたことが信じられぬ、と言いたげな仕草と共に、傷付いた手を下ろしたから。
――彼はまだ、理性を保っている。
言葉を喪い、記憶と経験の大部分を忘却し、その見当識さえ曖昧になっても、彼はまだ彼なのだ。仮令どれほどその姿が
今にも倒れそうな足取りで、男が墓守と物殺しから距離を取る。その心中で如何なる激しい葛藤と渇望が渦巻くものか、己の血に塗れた手が胸を掻き毟った。爪の代わりと言わんばかりに固まっていたかさぶたが剥げ落ち、じわりと薄くシャツに血が滲んでは、既に元の色が分からないほど汚れた上に更なる染みを作る。
そこで、墓守はこの男に攻撃的な意志がないと判じたか。そっと腕を解き、呆然としていたアザレアを静かに立たせた。
ゆっくりと物殺しの視線が左右し、墓守と男の間を行き来する。トートからの釈明はなく、ただ庇うような位置に立ったまま、壊れかけの物を牽制するように睨みつけているばかりだ。仕方なく、物殺しも彼を見た。
視線が合った、ような、気がした。
「――――」
チカチカと液晶に光が明滅する。
何処から電波を受信しているかは分からない。理屈や理解は置き去りにして、チャンネルが無作為に切り替わっていく。その合間に何度も何度も砂嵐を吐き出して、やがては一つの画像を映し出して止まった。
とは言え、損傷と劣化の著しい液晶に浮かぶ画像は不鮮明で、大量のドット抜けや色飛びによって概形すらも怪しい。普通ならば誰もこれを「画像が映せている」とは評価しないだろう。
それでも彼は、その一枚だけを描画し立ち尽くす。それが知性の忘却による偶然の産物だと、物殺しの勘は評価しない。
――自身が道具として用を果たせていないことは、きっと承知の上。
――それでも己に見せるなら、それは何か、重大な暗示を秘めているのだ。
物殺しとしての霊感にも似た第六感と、二週間近い滞在の中で彼女が知った物全体の特徴。その二つを重ね合わせて出した己の直感を、彼女は信じた。
アザレアは目を凝らし、時折砂嵐に掻き消える画面の中の輪郭を丁寧になぞる。その間、男は自分で自分の腕を抱きすくめ、強烈な欲求に伸ばされそうになる手を必死に抑えつけながら、少女が結論を出す時を、ただ辛抱強く待ち続けた。
十数秒の時が、互いにとってひどく長い時間に思えただろう。
凝視と長考の果て、少女は出した結論を――胸の
黙って男の前に両の手を突き出す。瞬く間に白い靄が掌の上に集まり、形を作って質感を模倣し、そして水彩絵の具を含ませたように先端から色が滲んでいく。
そうして咲いたのは、一枝の
月光の下に仄紅く浮かぶ花と、それを差し出す物殺しを、男は交互に見やる。己が受け取って良いものか否か、そもそも少女の差し出したものが何か分かっていないのか。ともあれ戸惑うような仕草を見せる彼に、少女はおかしそうに笑った。
ゆっくり、一音ずつ。疲弊した彼の知性にも分かるように。
「あげます。また、逢いましょう?」
男が意図を読み取ったのは、数秒の後。
淡雪に触れるかの如く慎重な手付きで一輪の沈丁花を持ち上げ、傷だらけの両手に載せてじっくりと検め、彼はプレゼントを貰った子供めいた喜色を浮かべては、花を胸に掻き擁いた。チカチカとテレビの液晶が素早い点滅を繰り返し、砂嵐を吐き出して止まる。
喜んでもらえたようで何より。そう笑って、ひらひらと手を振るアザレア。その所作の意味も忘却していたのだろうか、男はきょとんとして首を傾げていたが、やがては同じように小さく手を振り返し、踵を返した。
来た時と同じように足を引きずりつつ、けれども何処か足取り軽く。荒野の向こうへと消えていくその背が、ふっと途中で霧のように掻き消えた、直後。
真正面から、肩を掴んで揺すられた。
「アザレア。……アザレア、おい!」
「ふぇ――へ、け、ケイさん? へ?」
立っていたのは付き人。アザレアにしてみれば、突然駅舎に彼が現れたようなものだ。虚を突かれ、驚き慌てて手を振り払おうとした少女の肩を、キーンはより強く掴んで引き留めた。
手が小さく震えている。態度や言葉には一切出さぬまでも、ひどくアザレアを心配していたであろうことを、その手だけが声高に伝えていた。
「もう十二時過ぎだぞ、アザレア」
「十二時!?」
――物を見送っていただけなのに、何でそんなに時間が経っている?
――汽車は来た筈なのに、気付かなかったのか? 墓守は何故私を呼び戻してくれなかった?
混乱し固まるアザレアを、キーンはじっと見つめ。駅員用の出入り口から聞こえてきた二つの足音に、ゆっくりと振り返る。
真っ白な白熱灯の光。肩に掛けた深緑色の外套をなびかせ、早足に近づいてきたのは、他でもない。フリッカーである。その後ろからはスペクトラも付いてきていた。
自失状態のまま、ぎぎぎ、と錆びついた音がしそうな緩慢さでその方に首を回すアザレア。困惑と不安に揺れる鳶色の瞳を、月明かりより尚明るい照明が、奥まで照らし出した。
「事情が知りたくて仕方ないって顔だな」
「…………」
「物殺しが泣きそうな顔すんじゃねェよ。心配しなくても話はしてやる、来な」
煙草と酒に焼けた、しゃがれた笑声。彼女の反応は慣れっこと言うことか。
それでも尚動き出せない少女に、けらけらといよいよ面白そうな声を上げて、フリッカーはこつんと拳を軽くぶつけた。
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