二十四:遺影

 かたん、ことん。かたん、かたん。

 揺れる音と振動だけを背景とした、静かな車内。随分と長らく使い込まれてきたものか、手触りのよいシートは色褪せ、あちこちに丁寧だが隠しきれない補修の跡がある。その片隅に腰掛け、頰に掛かる栗色の髪を時折払いながら、アザレアは本のページをぺらりと捲った。

 『顔無しの城』。大雑把に言えば、深い樹海の奥に佇む主人の絶えた城に子供たちが入り込み、そこで出会うものどもやその生活を描いたファンタジックな冒険譚だ。平易だが色彩と輝きに溢れ、賑やかなれど何処か寂寥を感じさせる描写には、物の街を彷彿とさせるものがあった。

 ファーマシーの曰く、本の持ち主は人間であったと言う。死病を得て、長い闘病の果てに人の医師から見捨てられた一家。人の街の喧騒と急かしさを厭い、時の緩やかな物の街に静養の場を求めた、裕福な道楽者。いつも流れの遅い砂時計を持ち歩いていた彼らは、『顔無しの城』を愛読していた少年の死を最後に一族離散したとも、その母が養子を取って永らえているとも聞いたと、物の医師は言っていた。


 ――「ディクス、ディクス! 見て!」 木苺のあめ玉をはめこんだみたいな、甘い甘い洋紅ようべにの目を輝かせて、ルビーはチョコレート菓子のような扉の向こうを指差した。それにディクスは一つうなずいて、二つ折りの辞書を開いたり閉じたり、また開いたりしながら、用心しいしい部屋を覗きこんだ。

 ――きらきら、きらきら。床に転がったいくつもの色とりどりのガラス玉が、南天を向くステンドグラスから落ちた色つきの影をはらんで、三角形のタイルを沢山敷き詰めた上に虹色の花園となって輝いている。目のくらむようなきらめきのただ中に、それはまるで眠るように倒れているのだった。

 ――「大変、人が倒れているわ」 ルビーが最初に部屋へ入って、ディクスもそれに続く。何がよくて何が悪いなんて、何が不思議で何が普通だなんて、もう二人には分からなくなっていた。赤や橙や、青や緑や、菫や桃のビー玉を蹴立てて、ディクスは倒れている人のそばに膝をついて、手足を投げ出しているその人の胸に耳を当てた。ルビーは何をしたらいいか分からなくって、頰にぴたりと両手を当てた。

 ――胸の向こうはしんと静かで、まるで深海の奥深くに落っこちたよう。けれど何故だか、身体の奥深くには暖炉のように赤々と燃え盛る暖かさがあった。じぶんがまったく予想しなかったことに、ディクスとルビーは揃って戸惑った。本当はずっとずっと前から戸惑っていたのだけども、それを初めて二人は思い知ったのだ。

  ――戸惑って、迷って迷って、それがどうでもいいことだと最初に思えたのはディクスだった。ぴったりと閉じていた辞書が開かれて、液晶の画面が目まぐるしく点滅して止まった。ディクスは思いもよらない知識をときに溜め込んでいることをルビーは知っていたから、彼女が動き始めると、ルビーもすぐに迷いからさめた。

 ――「ねえ、


 肩を小さく揺すられて、アザレアは没頭から立ち戻った。半ば反射的に顔を跳ね上げると、見たことのある物がひっそりと目の前に佇んでいる。

 星空の写真を入れて白黒のリボンを掛け、額紙を逆さまに垂らした黒い額縁。喪服の肩に白い着物を羽織り、臙脂色の飾り紐で胸元を留めている。白い手袋を着けた右手が、未だに肩を掴んで離さなかった。


「トートさん?」

「…………」


 首を傾げながらその名を挙げたアザレアに、遺影――トートは、触れていた手を離すことで応じた。そのまま踵を返し、すたすたと汽車の出口から出て行ってしまう。その背は『月の原駅』と書かれた看板の前で止まり、そして何かを問うように車内のアザレアを顧みた後、こつこつ、と看板の隅を指で叩いた。

 降りるのではないのか、と。そんな手振りのトートを見て、アザレアは慌てて閉まりかけのドアから飛び出した。


「あ、あっぶなぁー……乗り過ごしちゃうとこだった。えと、ありがとうございます。助かりました」

「偶然である」


 無感情な声。

 アザレアはふと付き人を思い出す。キーンも随分と感情の振れ幅が小さい。暖かい感情を彼も持っていることは分かるが、それを敢えて内に秘めているような、刃の剣呑さに隠しているような、そんな静かな物なのだ。

 トートはまだ出会って間もないから、詳しくは分からない。しかし、似たように何か複雑な経緯を秘めているのだろうとは思う。何しろ命を得て、言葉を持ち、理性と知性を持って動いているのだから。それに見合うだけの意思を注がれることが命を与える条件だろうと、アザレアは考えていた。


 ――そして、それを。

 ――意思持つ彼らを還すのが、物殺しじぶんの役目。


 明後日の方を見て考えこむアザレアの傍に立ち、トートは過ぎ去ってゆく汽車の背を送って、その視線を遠くの空に合わせた。途端、ぱちりとカメラのシャッターを切るような音と共に、額紙の奥に半分以上隠れた写真が、星空から平原に切り替わる。色が褪め、端々に日焼けや傷みの跡を残すのは、大切に扱って尚逃れられなかった経年劣化と、撮られた時代の機材と技術の古さ故。黒白のモノトーンと静謐さの裏に、彼もまた長い長い年月を秘めているのだった。

 十数分の長考の間、遺影は微動だにせず。額縁に収められた写真の変化だけが、彼等の内に流れる時を示した。



『今日は あなたたち 二人で 行くのか ?』

「そのつもりです。……オンケルさん、ダメですよ? またクロイツさんのお説教を聞くのは私だって嫌ですー」

『分かっている 彼が 一緒に 行く ならば 私 も 安心できる 気をつけて』


 駅舎でオンケルとちょっとした話――声を出しているのは片方だけだが――をしつつ、切符を駅長へ渡して駅を出る。ひらひらと手を振るオンケルに手を振り返し、ぐるりと荒野を見渡せば、今日はすっきりと景色が見えているようだ。

 きょろきょろと周囲を見回していると、つい、とトートの手が小さくアザレアの腕を引いた。訝る彼女に返る言葉はなく、遺影頭の墓守は少女の手首を軽く掴んだまま、ゆっくりと荒野に足を踏み出す。


「あの、今日は迷子にならない気がしますけど……」

「否。今日こそ不可能である」

「え?」

「…………」


 沈黙。本当に言葉の少ない男だ。キーンでもこれほど口重ではない。

 もう少し事情説明してくれても、とぶちぶち口を尖らせるアザレアには構わず、トートは荒野を行く。その足取りは造作もないように見えて、よく見ると何かを跨いだり蹴り飛ばしたり、時には何かから逃げるように急いたりと忙しい。

 意味のない動きではあるまいから、少女も男の所作を真似た。


 クロイツの出迎えはなく。

 どこにいるかとトートに聞けば、書斎で寝ているらしい。こっそり覗いた書斎では、確かにクロイツが机に突っ伏して寝息を立てている。余程疲れているのか、ぴくりとも動かず眠る守長の肩に、墓守は傍の寝台から持ってきた薄手の毛布をそっと掛けた。それでも起きる様子のないクロイツを置き、そそくさと部屋から出てきたトートへ、アザレアは心配そうに投げかける。


「クロイツさんどうしちゃったんです?」

「慰霊祭の準備疲れと思われる」

「慰霊祭って、月の原でやる縁日っぽいお祭りですっけ」


 沈黙は肯定。覚えた。

 そうですか、とやや気のない声を虚空に投げ、アザレアは書斎を離れた。そのまま隣の保管庫の扉を開けると、何故かトートまでついてくる。一体どうして、と訝りながらも彼を先に通し、後ろ手に扉を閉めた。

 静々と数歩。乱雑に置かれたボール箱の間を抜け、寡黙な墓守はやおら肩にかけていた白装束を片手に畳み持つと、何かを確かめるような緩慢さでソファに腰を下ろした。ぽかんとして立ち尽くすアザレアを他所に、彼は着けていた手袋をするりと脱いで白装束と一緒に隣へ置き、無造作に積まれていた古い名簿の一束をその手で掴む。

 事情説明は何もない。出ていく素振りも見せない。

 仕方なく、物殺しは墓守の差し向かいに座った。


 四時間ほど過ぎた頃であろうか。

 ボール箱二箱分の名簿整理が終わり、アザレアが元の箱へファイリングされた名簿を戻したとき、古い名簿をひたすら読み返していたトートがふと手を止めた。こつこつ、とテーブルの端を指で叩き、差し向かいの少女の注意を引く。作業に集中していた彼女は、邪魔してきた男にやや苛立たしげだ。

 しかし遺影は泰然としたもので、それまで自身がめくっていた名簿のあるページを開くと、彼女の前に突き出してとんとんと叩いた。

 綺麗な筆記体の文字。アイザックIsaacスチュワートStewartと、英語圏では一般的であろう男性の名が書かれている。あまり特徴のないその名前を、しかしアザレアは食い入るように見つめていた。


「今、このひとは……」

「森外れの街に」

「此処から行けますか」


 肯定。行き方を教えてほしいと乞えば、彼は黙って席を立つ。そして、しばらく少女を一人で待たせていたかと思うと、幾つかの冊子――月の原から出る汽車の路線図と時刻表――を抱えて戻ってきた。左手には陶器のポットとカップを載せた盆も載っている。

 思えば、朝から何時間も不休ノンストップで作業していたのだ。物殺しにまつわる話題にかこつけて、一旦休憩せよと気を遣ってくれたのかもしれない。

 ありがとう、と素直に頭を下げるアザレアに、トートは小さくかぶりを振って、彼女の前にティーカップと銀のスプーンを差し出した。こぽこぽと小さな音を立ててポットから紅茶が注がれ、陶製の砂糖入れとミルクピッチャーが添えられる。

 シズの元で供されたものとは少し違う、華やかな果実の香りを含んだその中に、白い角砂糖を二つ。ミルクと一緒にスプーンで回し溶かしながら、アザレアは差し向かいの遺影をじっと見た。

 細い足を悠然と組み、砂糖もミルクも入れずに小さく杯を傾けている。その様はどこか上の空だが、少女が目を丸くして見つめていることに気付くと、どうした、とでも言いたげに小さく頭を傾けた。

 紅茶を一口。物殺しは尋ねる。


「本題から逸れた話をしますけど。……殺されてくれませんか?」

「何故問う」

「確信したいんです」


 仕事を全うすべき相手なら、問うた時点で否定はしない。堂々と肯定することは流石に珍しいが、大抵はひどく狼狽えたり黙り込んだりと顕著に動揺する。傍目には冷静な態度を装いつつ、聞いてきた理由を尋ねようとしてくる物も、ある。


 ――トートは、即断で否定しなかった。それはつまり、そういうことだ。


 細く長い指が、微かに震えながらテーブルの上へカップを置いた。その白い指先を追う鳶色の双眸は、すぐにトートの頭へ向け直される。ぱちり、とシャッターの音がして、額縁の中の写真が朝の花畑から夕暮れ時の線路に変わった。

 長い、長い黙考。湯気の立ち上る音さえ聞こえそうな静謐は、数分続く。

 それを破ったのは、何かを決意したように搾り出された、トートの声だ。


「一週間後、朝の十時、物の街へ。切符代は、オレが出す」

「何処へ?」

「何処へでも。最期の場所は決めてある」


 最後以外は決まっていないということでもあるのだが。そんな野暮な指摘をするほどアザレアも無粋ではない。そっと苦笑を胸の奥にしまい、物殺しはふわりと笑う。


「分かりました。朝の十時に」


 返答は短く。

 ありがとう、とか細く呟くトートに首肯し、アザレアは少し声色を変えて場の空気を切り替えた。


「好きな花とかありますか?」


 虚を突かれたようにトートは黙り込む。

 けれども、すぐに返事はあった。


花水木ハナミズキ、を。二本」


 ――オレと。あと……


 言いかけてつぐんだ言葉の奥を、物殺しは詮索しなかった。

 此処で聞かなくてもいい。答えはじきに出るのだから。

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