70.気持ちが沈んだ日は~紗奈~

 中間テストも終わって10月も中旬の土曜日。陸先輩と梨花は朝から部活に行った。今日は選手権都大会の準々決勝だ。観に行きたい気持ちはあるけど、私は自分に任された役割をこなさなくては。陸先輩が全国大会に私を連れて行くと、張り切っているとのことだし。


 男子サッカーの選手権都大会は全国への代表校が2校だ。トーナメントが2つのブロックに分かれている。そのうちの1つで優勝すれば全国大会である。あと3勝。


 今日の私は午前中から仕事でお出掛けだ。まずは手塚不動産。9月に買い付けの申し込みをした収益マンションが契約でき、そして都合よく先週の中間テストの期間に引き渡し決済の予定を組めた。学校が終わってからだったので、学校を休まずに済んだ。

 今日は事後処理のため訪問である。まだ何かと受け取らなくてはいけない書類もあるし。


「日下部さん、お世話になっております」

「こちらこそ」


 担当の権田さんが愛想のいい挨拶をしてくれる。この人の営業対応は見習うべきところが多々あるから勉強になる。


「本来はこちらから出向かなくてはいけないのに、わざわざお越しいただいてありがとうございます」

「いえ。お気になさらず」


 その後、滞りなく業務を済ませ、私は手塚不動産の営業所を後にした。


 さてと、次も不動産屋だ。アポイントを取っている。しっかり回って顔を覚えてもらわないと、物件情報をもらえないからな。それに土曜日は営業している不動産屋が多い。学校がある私としては一般企業よりも回りやすい。


 そして到着した王平おうへい不動産。それなりに規模の大きな不動産会社だ。私は受付の女性に名乗り出る。


「お世話になっております、天地事務所の日下部です」

「お世話になっております」

「11時に苦波羅くはらさんとお約束なのですが」

「少々お待ちください」


 受付の女性は内線を使って話し始めた。事務所内に確認を取っているようだ。しかし、何だか様子がおかしい。一度受話器を置くと、女性は再び受話器を上げた。恐らくだが、外線を使っている。そして電話を切ると言った。


「申し訳ありません。苦波羅は現在外に出ておりまして。もうすぐ戻って来るとのことですので、お待ちいただきたいのですが、よろしいでしょうか?」

「あ、はい。わかりました」


 時間は10時55分。早すぎず、遅刻もせずの絶妙な時間なのに。しょうがない、待とう。アポイントを忘れられていたのかな? たぶん外線は苦波羅さんの携帯電話だったよな。

 私はブースで仕切られた打ち合わせテーブルに案内された。そして事務員さんが熱いお茶を出してくれる。




 そして30分後。そろそろ時刻は11時半である。手元のお茶は全部飲んでしまった。30分もじっとしていると、お茶を飲む以外やることがないのだ。もうすぐ帰ってくると言っての30分……。


「すいません。遅くなりました」


 すると30代前半くらいだろうか、男性が来た。私は立ち上がった。


王平おうへい不動産の苦波羅くはらです」

「天地事務所の日下部です」


 お互いに名刺交換をした。電話で話したことはあるが、会うのは初めてだ。私が仕事を手伝い始める前からやり取りはあったそうだが、陸先輩も会ったことがないと言う。そう、この人が今日のアポイントの相手、苦波羅さんである。


「何でも現役の高校生だとか?」

「えぇ」

「へぇ、そうなんだ。全日制?」


 むむ。高校生だと確認した途端、タメ口に変わった。これは舐められている。そうか、だから30分も待たされたのか。あまり相手にされていないようだな。


「はい。そうです」


 そう話に入ってから、仕事の話に切り替わった。


「収益物件を探しているので、ぜひ御社からも物件のご紹介をいただけないかと思いまして」

「そうだな……。今個人のサラリーマン投資家さんも増えていて、いい物件がなかなか残ってないんだよね」


 はぁ……、天地事務所はサラリーマン投資家ではないのに。業としてやっている独立した個人事務所だ。一緒にされてしまっている。


「あ、でもこれなんかはいいな。どう?」


 相変わらずのタメ口。そして提示された一つの物件。価格帯は手頃。エリアはよし。建物構造も問題なし。事故物件でもない。


「レントロールはありますか?」

「はい。これ」


 あれ?


 レントロールとは家賃表のことだ。収益と売値から利回りを計算して買い付けの検討をするので、絶対に必要な資料だ。しかし、提示されたこのレントロール、3月の家賃になっている。半年以上前の資料だ。なぜ?


「最新のものはありますか?」

「あ、そう? えっと、これ」


 再び提示された資料は先月の家賃表だ。むむむ、何だ、これは。一気に空室が増えた。どういうことだ?


「最近、空室が増えてますね」

「まぁ。近くで土壌汚染が発見されちゃって」


 そりゃ、安いわけだ。ケラケラ笑いながらよくわからない営業トークを続ける苦波羅さん。もうこの物件には興味ないから、次に行こうよ。


「購入実績教えてもらってもいい?」

「あ、はい」


 これは大事な質問だ。それで天地事務所の能力を見られるから。て言うか、今頃聞くのかよ。


「○○区で先日○○万円の物件を購入しました。昨年は○○市で○○万円の物件の購入実績があります」

「ほえぇ。○○市の物件はなかなか高額だね」

「えぇ。現物担保を基本に買ってはいますが、銀行からの融資枠も○○万円ほど残っています」

「これなんかどう?」


 すると途端に出てきた優良物件。食いついてきた。銀行の融資枠を聞いて手のひらを返したな。あるなら最初から出せよ。けど、この物件はもうすでに既得情報なんだよな。権田さんから提示してもらった物件だ。


 この後も数件物件を紹介してもらったが、結局いい物件はなかった。それでも手ぶらで帰るのはどうかと思い、2件ほど資料をいただいて帰ることにした。陸先輩に一応見てもらおう。


「良かったら今からランチ行かない?」


 帰り支度をしていると苦波羅さんが突然そんなことを言った。はぁ、業者さんからの食事のお誘いか……。今からなら少しだけサッカー部の試合を観に行けるのにな。終盤だけだけど。スーツだから目立たないように陰からこっそり観るつもりだったのにな。

 ただな、あんまり断るのはな……。陸先輩もその辺は理解を示してくれているし。


「じゃぁ、ぜひ」


 そう答えて私は苦波羅さんに連れられ近くのレストランに入った。イタリアンで、メニューはパスタだけだと私には量が足りない。そうかと言って、仕事関係の人前でもう一品注文する勇気はないし。定食屋か中華飯店が良かったな。


「彼氏はいんの?」

「えぇ、まぁ……」


 プライベートの質問かよ。仕事と関係ないじゃん。


「へぇ。今何年生?」

「今一年です」

「一年? てことは十六歳?」

「はい」

「もう彼氏とはエッチしたの?」

「……」


 こいつ……、完全にセクハラ発言じゃないか。苦笑いしか出てこない。


「経験人数は?」

「ご想像にお任せします」


 役所に行ってこいつの戸籍を勝手に書き換えてやろうかな。名前の頭に「セ」を足してやりたい。


「今度飲みに行こうよ?」

「私まだ未成年なので」

「そっかぁ。お小遣いあげるから俺の相手もしてよ。君めっちゃ可愛いから結構出すよ?」


 もう泣きたくなってきた。食事に誘ったのも結局は下心かよ。お金のために私が仕事をしていると思っているのだろう。確かにお金のことも否定はしないが。


 生活費に充てておいてくれと言った私の給料は、結局生活費に充てずに陸先輩が貯めてくれている。私の口座を一つ開設して通帳を陸先輩が預かっているから変だなとは思っていたのだ。最近まで知らなかった。

 来年から恐らく会社設立の準備が始まる。陸先輩は私を役員登用するために、私の分の出資費用を準備しているのだ。それが使わずに貯め込まれた私の給料である。貯め始めた頃は会社設立の話はまだなかったのに、私のことを考えてくれていて感謝の限りだ。


「泊まりとかできる? 今度夜、ご飯行こうよ?」

「すいません。泊りと夜は無理です」


 この人はわかりやすいが、私は夜のご飯の誘いは一切断っている。陸先輩と一緒の時以外だが。やはり危険だからだ。陸先輩からも夜の時間帯の誘いは注意するようにと言われている。て言うか、この人言っていることが完全に犯罪行為なんだけど。


 この後も私はランチの最中、苦波羅さんのセクハラ発言に耐えた。直接触られることはなかったのでそれは良かったが。仕事で舐められ、女として舐められ、散々だ。こんなことのために、結局サッカー部の試合を観に行くことも叶わなかったし。

 陸先輩の言う通りだな。舐められながら仕事をするって。まぁ、わかっていたことだし、初めてではないからいいけど。ランチを終えると私は真っ直ぐ帰った。因みにこの苦波羅さんからの誘いは全て断った。


 午後は事務所、つまり書斎で仕事をした。陸先輩と梨花は3時過ぎに帰ってきた。試合後の反省会もあったのだろう。試合は無事勝ったそうだ。これは嬉しい報告だ。


「今日はどうだった?」


 陸先輩が自席に着くなり、今日の進捗を聞いてきた。


「うん。権田さんの所にも挨拶に行けたし、王平不動産からも物件貰って来たよ。いい物件とは言えないけど」

「そっか。紗奈仕事はどう?」

「うん。楽しい」

「何かあったら言えよ? 溜め込まずに」

「大丈夫だよ」


 もしかして気づかれているかな? 私の気持ちが沈んでいることに。ちゃんと笑顔は作っているつもりなんだけど。

 けど言えないな、陸先輩には。陸先輩はずっと一人でやってきたのだから、私が弱音を吐くわけにはいかない。それに私は仕事での愚痴は親に聞いてもらえる。けど、陸先輩は親との関係が良好ではないので、聞いてもらえる人もいなかったはずだ。

 陸先輩には言ってあるが、私は陸先輩の仕事を手伝っていることを親に言ってある。同棲が内緒のままだ。


「紗奈」


 ドキン。陸先輩が優しく私を抱きしめてくれた。いつの間に私の横まで来ていたのか、私は椅子に座りながら陸先輩の温もりを愛おしんだ。


「いつもありがとうな」

「ううん」


 心地いいよ、陸先輩の腕の中。今日くらい自分から甘えてみようかな。陸先輩の優しさに。たまにはいいよね。うん、自分から言うのは恥ずかしいけど言ってみよう。


「先輩、今日の夜は一緒に寝たい」

「え?」

「今日、朝起きたら女の子の日、終わってたから、先輩に抱いてほしい」


 昨日は金曜日だったので一緒に寝たけど、行為はしていないのだ。


「紗奈……」

「梨花には私から言っておくから。お願い」

「うん。わかった」


 この夜、陸先輩は優しくたくさん私のことを愛してくれた。

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