Full-Time Lover 前

 風を裂く音が聞こえる。

 森泉は背を向け、夜空を見ていた。星も月も雲に隠れているのに、いったい何を眺めているのやら。


「森泉。来たぞ」


「知ってる。音で分かるよ」


 悲しい声であった。大きくはっきりと聞こえるのに弱々しく、いつも耳にしていた彼女の声とは違った音色をしている。これが、森泉澄子の本来の姿か。


「病院ではすまなかった。俺はあの時点で、お前の事を何も理解していなかった」


 彼女への謝罪の言葉はこの場までにまとまることはなかった。どうしようもなく簡潔に述べてみたが、胸にくすぶる感情がスッキリとしない。


「それも知ってる。松田君から聞いた」


 そしてこの返事である。鋭い刃で斬られたようだ。二の句が引っ込み、口ごもってしまう。

 森泉はひるがえって僕を見た。視線が重なり息が沈んでいく。心臓は、ろうがまとわりついたように不自由な鼓動を繰り返している。


「なんだか、独りよがりだったね私……いつも一人で突っ走って、後悔しての繰り返しで、馬鹿みたい……あのね? 私、松田君につまらないって言われた日から、ずっと普通の自分には価値がないって思ってたんだ。普段の私は、生きていても誰も必要としてくれないって」


 想像以上に重い。まさかここまで病んでいたとは思わなかった。少しばかり面倒に感じてしまう。だが、世に面倒ではない女などいはしない。皆多かれ少なかれ、煩わしい部分を持っているものだ。交際経験はないが、遊びは場数を踏んでいる。それくらいの事は学んだつもりだ。


「だから、ライオンから必死に守ってくれた沢田君を見て、この人なら、素顔の私を受け入れてくれるかもって思った……でも、その後病院で、またつまらないって言われちゃったのがショックで……あの時、逃げずにちゃんと話をすればよかったね」


 自嘲的な表情が心に刺さる。いいだろう。その曇った顔を、僕が太陽となって照らしてくれる。


「確かに僕は、明るく奇特なお前を好きだった。しかし、今なら平時のお前も愛せる自信がある。だから……」


 深く息を吸い込み身体の震えを止める。さぁいくぞ。男沢田。二度目であるが、一世一代の大勝負。当たって砕けろ日本男児! 我が愛しの女よとくと聴け!


「森泉。今一度言おう。好きだ。僕と男女の仲となってくれ」



 僕は、あの夏と同じ告白の言葉を、同じ女にぶつけた。季節は違えど、同じように汗が流れ喉が乾く。早く、早く返事を……


「……よろしくお願いします」






 悲願達成! 初恋が、時を経て実ったぞ! いや長かった。諦めずに今日まで生きてきた甲斐があったというものだ。まことに良かった。ハッピーエンドだ。あとは二人で万古蘭と森泉涼子に挨拶を済ませて完了だ。めでたしめでたしである。

 そうだ。せっかくだしここは記念に接吻でもしておこう。愛する恋人から分泌される唾液は、店で出される業務用とはまた違った味がするであろうな。酸いか甘いか想像もできぬが、楽しみだ。僕は「森泉!」と叫びながら、彼女の立つ方へと向かって走った。すると勢いが強すぎて、彼女をフェンスへと押し付けてしまった。これでは暴漢ではないか。いや恥ずかしい。だがまぁ仕方ない。それだけ嬉しか……


 体重が軽くなった。突然の浮遊感。次の瞬間、腕に感じる彼女の重みが増していく。これはなんだ。落下だ。いきなり始まった愛のフリーフォール。恋に落ちるとはいうが、まさか物理的な意味だとは思わなかった。うむ。愉快である。笑おう。あっはっは。


「何してくれてんの馬鹿! 笑ってる場合じゃないでしょう!」


 僕が馬鹿笑いをしていると腹部に鈍い痛みが走った。森泉のボディブローだ。密着状態からこれ程の威力を出すとは、中々やるな。


「気にするな。なに、大した高さではない。僕がクッションになれば、怪我は免れぬとしても死ぬことはないさ。もちろん。僕は死ぬがな!」


「あんたが死んじゃ意味ないでしょ! ふざけた事言ってないで二人とも助かる方法を死ぬ気で考えて! 死んだら殺すからね!」


 そうは言ってもである。ビルの高さは約十メートルほどあり、下はコンクート。姿勢は頭から真っ逆さま。死ぬ。普通に考えたら死んでしまう。無常。

 しかし、命は惜しいが好きな女を守って死ぬなら男子の本懐。契って早々の死別故に森泉には悪いのだが、美しく死に花を咲させてもらおう。


 僕は目を閉じ己が人生を振り返った。巡り巡る春夏秋冬。思えば短いながらに多くの経験を得たものだ。恐怖、苦痛、挫折、諦観……なんという事だ。ろくな思い出がない。

 いやはや駄目な奴はなにをやっても駄目だな。それもまた人生。是非もなし。だが、そんな中にも喜びもあった。好きな女を抱いて死ねるのだ。それで満足ではないか。


「なに寝てんの! 起きろ馬鹿!」

 

 森泉が罵声とともにまたボディーブローを入れてきた。くそ、格好もつけさせてはくれんか。野暮な女よ。だがまぁ、そこが可愛いのだがな!

 そして懐古の途中に名案を思い付いた。走馬灯とは過去の経験から危険を回避する為の記憶を呼び覚ます防衛本能なのだそうだが、僕もそれを今しっかりと体験し、閃いたのだ。この危機を打開する方法を!

 人生とは奇なものである。出会いからしてろくでもなかったあの化物とのいざこざが、死中に活を見出す事になろうとは思いもせなんだ。人間万事塞翁が馬とはよくいったものだ。


「森泉。少し跳ねるから、歯を噛み締めておけ。舌を噛むなよ」


「え!? なに!?」


「いいからしっかり奥歯を噛んでおけ! いくぞ!」


 足先に伝わる柔らかい感触。ふむ。いい腹だ。後で存分に愛でてやろう。


 僕は落下中に身体を回転させながら制御し、巴投げのようにして森泉を真上に蹴飛ばした。重力にどこまで抗えるか不安だったが、杞憂であった。彼女と僕の間に空間ができた。地上まで残り五メートルくらいか。よし。ゆくぞ!


 再び回転して足を下に向けた。そして、地上に爪先が触れた瞬間に身体を捻り順序良く倒れ込んでいく。そう。名古屋で見た、五点着地法である! 感謝するぞヒバゴン。 貴様のおかげで、九死に一生を得ることができた。


 しかし、そうそう上手くはいかないものだ。起き上がると、足首に強烈な痛みが走った。折れたな。付け焼き刃ではこんなものか。だが、少し歩けるだけでいい。なんならなくなってしまっても構わない。後少し。ほんのちょっと移動さえできれば……


 目算で後三秒。落下点までは余裕で間に合う。悲鳴を上げながら落ちてくる森泉を待ち構え、僕はグッと力を入れる。来たぞ。気合いだ!


 雄叫びを上げながら僕は彼女の身体を抱きしめた。同時に、両腕。及び腰椎に尋常ならざる激痛を覚える。さすがに無傷とはいかんか。ライオン戦の傷も開いてしまい、辺り一面に鮮血が噴き出した。洒落にならん痛みだ。

 それでも、生きている。僕も彼女も、共に、生きているのだ。


「いや、一時はどうなるかと思ったが、何とかなるものだな」


 これもすべてヒバゴンのおかげである。次キャバクラで奴をを見かけたら、ドリンクの一杯でも飲ませてやろう。


「あんたが突っ込んで来なかったらこんな思いしなくてよかったじゃない馬鹿!」


 森泉は悪態をつきながら僕にしがみついていた。

 うむ。すっかり口が悪くなっている。全て受け入れるつもりであったが、やはりこっちの方が、僕は好きだな。


「森泉」


「なに!?」


「少し、眠る」


「は? ちょっとどうしたの!?」


 ダメージを負いすぎた。身体が意識を拒否している。目の前が暗転し、音も感触も遮断されていく中、僕は心底から森泉の生還を喜んだ。

 そして、僕の身体よありがとう。このところ無理をさせすぎたな。帰ったら、めいいっぱい、やす、もう………………

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