お嬢さんのこゝろ 後

 心をご存知ですか? などという禅問答のような問いかけになんと答えればいいのか。


「……」


「……」


 うむ。分からん。

 しかし、分からんでは済まされぬだろう。それは万古蘭の眼差しが物語っている。彼女は、僕に対し真剣に向き合っているのだ。それに応えられぬとあれば、人間としての沽券に関わる。例え間違っていようとも、彼女の意に沿わぬ言葉であったとしても、僕は怠けず思慮し、僕なりの言を並べなければならぬだろう。


 万古蘭の心。

 彼女は僕を慕い、あれこれと手と世話を焼いてくれた。それは一重に恋慕の情があってこそのものだろう。自惚れかもしれぬが、蘭は本当に僕の事を想ってくれている。

 一方、僕はどうか。彼女を嫌いなわけではない。だが、どうしても女として見る事はできないし、いい友人止まりの関係で終わってしまっている。

 しかし、今回の旅もそうであるのだが、僕は彼女の一途さに甘え、ほとんどが頼りきりとなってしまっていた。そも発端が万古蘭の喝にある。僕は、好いた女に会いに行くのにも理由をつけて二の足を踏んでいたのだ。体たらくにも程がある。

 だが、その僕を奮い立たせた万古蘭の心中も、決して穏やかではなかっただろう。焦がれる相手が恋敵の元へと赴く手助けをしているのだ。その悔しさと歯痒さは、僕が測れるところではない。


 以上を鑑みて僕から送る万古蘭への返答。それは極単純で、まったく味も素っ気もないものであるが、僕の誠心誠意がこもった、本当の言葉であった。


「すまない蘭。お前の気持ちに、僕は……」


 応えることができないと口に出そうとした時、万古蘭はシッっと、人差し指を唇に当て「違うんです」と、儚い、失意に溢れた笑顔を見せた。


「あのスケコマシの話を盗み聞きして私、森泉澄子に少し同情してしまったんです。私と違って、ちゃんと女の身体を持って生まれてきたのに、叶わぬ恋に翻弄されてしまって、哀れじゃありませんか。それで思ったんです。彼女も、いつまでも愚かな男の影に入っていないで、貴方様のような方と陽の当たる所に出なければいけないと。もちろん私は貴方様の事を愛していますけれど、それは貴方様の愛を強制するものではございません。ですので、どうぞ私めの事はお気になさらないでくださいませ。全ては自分で決めた事ですので」


「蘭……」


「ですが、もしあの女に拒絶され、どうしようもなくなったらお申し付けください。その時はこの蘭。貴方様を、拾ってさしあげますわ」


 万古蘭は最後にそう言って、先に湯から出て行ってしまった。

 明るく、さも気にしていない素振りであったが、あれはきっと、決別の挨拶なのだろう。「拾ってさしあげる」か。優しい事だ。だがそれでは、お前が救われないではないか。

 両の瞼が熱くなる。しかしここは公共浴場。涙は控えよう。男の雫は人に見せてはならぬのだ。あぁ万古蘭よ。許せ。僕はお前の悲恋に対し、悲涙すら送れないのだから。それに……


「兄さん、あんたの隣におった奴ぁ、なんだい。もしかしてそういうぷれいかい?」


「そりゃあけしからんのぉ。どれ、どんなぷれい内容なのか言うてみぃ」


「やめんかお主ら。俺ぁそんな事よりも、話していた内容の方が気になるけん、ちょっと聞かせてみぃ」


 そう。公共浴場なのだ。先ほどから好奇の目で見ていた地元のジジイ共がこぞって僕の近くに押し寄せ、根掘り葉掘りと聞き出そうと入れ歯をガタつかせてくるのであった。堪ったものではない。僕は適当にお茶を濁し万古蘭が着替え終わったくらいを見計らって湯から上がった。




 茹だった体を脱衣所備え付けの扇風機で冷ましてから、僕は服を着てスマートフォンの確認をした。連絡は来ていない。

 一抹の不安が過ぎる。まさか、森泉は既に愛媛を後にしているのでは……だとしたら、個人では完全に後を追う手立てがない。興信所なりなんなりに安くない金を払って捜索してもらわねばならぬ。


「困ったな……」


 みっともなく独り言など呟いてしまった。いかんな。酒など飲んでいる場合ではなかったか。これは早々に宿へと帰り、次の一手を考えなければいかん。


 道後温泉から出た矢先、着信があった。松田であった。誰かも確認せず咄嗟に出たものだからその落胆は大きい。とんだぬか喜びである。


「なんだいったい。暇なのか」


「お前はまったく失礼な奴だ。せっかくあの女から連絡があったのを教えてやろうと思ったのに、これでは電話した甲斐がないな。切るぞ」


「待て待て。それを先に言え。いやさすがお前だよ。友達でよかった。それで、森泉はなんと」


「よくも私の居場所を教えたな。絶対に許さない。という口上から始まり、グダグダとお前に対する恨みつらみを聞かされたよ。あれだけ人を悪く言えるのも才能だな。俺は感服した」


「そうか。なんの価値もない報告に感謝する。では」


「気が早い奴だな。話は最後まで聞け」


 松田は半笑いであった。他人事だと思いおって気に食わん。


「あいつな、お前が何から何まで承知していると勘違いしていたのだ。教師達との淫行や花も恥じらう少女時代を昨今まで知らなかったと言ったら絶句していたよ。顔は見えなかったが、中々に愉快であったぞ。奴め、早とちりしてすべて承知の上でお前が告白してきたと勘違いしておったわ」


 ちょっと待て松田よ。お前、森泉に僕が何も知らなかった事を話していなかったのか?


「あいつはお前が自分の身体だけを目当てに近付いてきたと勘違いしていたのだ。高校の時からずっとな」


「お前はなぜ最初にちゃんと言わなかったのだ!」


「馬鹿か貴様。そんなものお前が伝える事であろう。なんでもかんでも人に頼るな」


 こんな時だけ正論を吐きおってからに。遺憾である。しかし言い返す言葉も思いつかずしばらく黙っていると、「言いたいことは言った」と松田は電話を切ってしまった。勝手なことだ。


 さて。どうしたものか。結局のところ森泉の居場所は分からぬし、八方塞がりである。

 しかしだ。考えようによっては、これで話し合いの余地はできた。森泉め。早い話、拗ねているだけではないか。まったく素直ではない。正直に言えば、僕とて早い段階からお前のすべてを受け入れたというのに。


 ……そうでもないか。僕は万古蘭を始めとした、多くの人間の手によって今抱いている愛を認識できていた。恥ずかしい話、僕は彼女の事を何も知らなかったのだ。それを置いて何をほざくが……


 いや待て。かつてはともかく、今の僕はすべてを知っている。そして、彼女を愛すると誓ったではないか! 

 なればこの恋慕。成就せずしていかなる結末を迎える事ができようか。できるはずがないだろう! 何を卑屈になっているのだ僕らしくもない! 

 そうだ。僕は森泉を愛している。それが全てだ。何を迷う。何を儚む。愚かなり! 我が生き様を、自身が縛ってどうするというのだ! 


 僕はスマートフォンを取り出し森泉に電話をした。耳に残る取次の音が機械的に響く。今なら、彼女に繋がる気がした。


「……もしもし」


 よし繋がった!


「森泉! いや澄子! 話がしたい!」


 腹の底から声を出した。道行く人々から注目を浴びたが、知ったことではない。


「……分かった。今から言うところに来て……」


 電話はすぐに切れた。だが、アポは取れた! 

 僕は全速力で、彼女が指定した場所へと向かった。そこはテナントすらつかない廃ビルの屋上であり、話し合うには、絶好の立地であった。


 壊された南京錠がぶら下がった扉。森泉は先に待っているようだ。一歩一歩、ただ屋上へと向かう。それは天国へと続く階段か、はたまた絞首台へと続くステップなのか……僕には予想も出来ぬものであったが、それでも、自らの足で進みたいと思った。

 最上階。これ以上はどうやったって登れぬ階層にある扉を開く。辿り着いた先は、朽ち果てたブロックが敷き詰められた、忘れ去られた最果てであった。

 周りには闇が広がっている。その最奥に、僕が愛した女が立っていた。寒風が吹く中、僕は真っ直ぐに、森泉澄子が待つ方へ向かって歩くのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます