お嬢さんのこゝろ 前

 愛媛県松山市。

 夏目漱石が著した、坊ちゃんの舞台となった街である。特急しおかぜは松山駅に着くのだが、四国随一の都市と呼ばれるには寂れた作りであった。


「松山駅は小さい作りで静かなんですけど、松山”市”駅の方は、賑わってますよ」


 そんな僕の空気を察したのか森泉涼子がそう教えてくれた。礼を失したようで、赤面するほどでもないが、恥に思う。


 岡山での一悶着の後。正気を取り戻した彼女は平身低頭に謝罪し、万古蘭はそれを受け入れた。心に根付いた恐怖はぬぐい切れていない様子で、森泉涼子といる時は見るからに口数が少なくなってしまっていたが、痛くもない腹を探られる事がなかったと前向きに考えてもらいたい。

 


「私の実家はここより少し離れた静かな場所にあるんですけど、途中に通るお堀はそれなりに活気がありますよ」


 僕達は歩きながらこの辺りの話を聞いてみた。お堀。とは、松山城を囲う城堀の事で、彼女が言うには掘りの周りは公園のようになっていて、四六時中人が歩いているのだという。


「蘭。後で彼女と散歩してきたらどうだ?」


「……」


 万古蘭は涙目で僕を見た。軽いジョークのつもりだったが、そんなに嫌か。どうにも、彼女は森泉の血筋と相性が良くないらしい。 


「沢田さん。あまりいじめてはよくないですよ。さぁ、電車が来ました。早く乗りましょう」


 トラウマを植えつけた本人があっけらかんとしているのはどうなのだろうか。しかし、言及すればまた自害しようとしかねないので、僕はいつの間にか辿り着いていた、道路上に設けられた駅から路面電車に乗り込んだ。

 松山はこの路面電車が主な交通手段だという。道路を走る、そのずんぐりとした車両は、のどかな街並みの情緒を引き立てるのに一役買っていた。


「道後温泉へ行くのも路面電車を使うんですけど、時間があったら是非行ってみてください。きっと、楽しめますよ」


 温泉か……そうだな。ケリがついたら、それも良かろう。最近はシャワーばかりで久しく湯浴みなどしていなかった……いや、している。風俗でいつも浴槽に浸かっている。なぜだろう。それが、何か悪いことをしてしまっていたようで、窓に映る風景が心に刺さった。





 電車に揺られる中、森泉涼子は彼女の妹の話を聞きたがったので、暇潰しがてらに向こうでの暮らしっぷりを、風俗嬢であるというのを伏せて話してやった。すると彼女は「おやまぁ信じられません」と驚いてみせたのであった。


「森泉の武術は打、投、極の括りがない実践派なんですけど、あの子ったら人肌に触れたくないからって打撃一辺倒の鍛錬しかしなかったんですよ。その打撃も、本来ならやりたくないと母に泣きついていたくらいです。それくらいに暗くて引っ込み思案だったのに、変わるものですね」


 あの日聞いた松田の言葉に嘘偽りはないらしい。それにしても、姉妹揃ってよくもまぁ明後日の方向へ走るものだ。血は争えんな。


「澄子には、私もしばらく会ってないんです。連絡先すら教えてくれなくって」


 森泉涼子は憂気にそう呟いた。僕も兄姉を持つ身として気持ちは分かる。血を分けた人間との間に溝ができれば、どうしたって後ろ向きに考えてしまう。あいにく僕は兄弟喧嘩すらした事はなかったが、遠く離れて行ってしまった兄を思う事は多々ある。ベクトルが違うだけで、気持ちの強さは同じであろう。


「人間、小さな事でも恥を感じ、顔を赤くするものだ。仕方ないさ」


 月並みの気休めに森泉涼子ははにかんだ。無理もない。他人に親兄弟の話はしにくいものだ。僕はそれ以上彼女の家庭に踏み入る事は避け、益体のない無駄話に興じることにした。






 話に花を咲かせていると、路面電車は目的地に着いたようだった。山の麓にある駅で下車すると、辺り一面に人工物はほとんど無かった。


 枯木が並ぶ道を歩いていくと、景色は次第に浮世離れしていった。街灯と電柱くらいしかない、寂れた場所。現代日本でこのような前々時代的な所に住む人間がいるのだろうか。もしかしたら狐か狸に化かされているのでは……と、思った矢先、木々に隠れるようにして、大きな屋敷が眼前に姿を表した。木と土と瓦で造られた家屋は時代を感じさせる趣きがあり、見ているだけで圧倒される存在感を放っている。


「ここが、実家です」


 森泉涼子は涼し気に笑った。この屋敷を背にして言われると、息を飲んでしまう。それは得体の知れない怖さであり、畏敬の念でもあった。迷い家とその主人を目の前にしているようである。


「素晴らしいお屋敷です。きっと、代々と伝わる由緒があるのでしょうね。素晴らしいです」


 森泉涼子は「ありがとう」と返した。長らく口を閉じていた万古蘭が思わず語ってしまうほどの建物だ。僕が感じた以上に、価値のあるものなのだろう。


「それでは、どうぞこちらに」


 案内されるままに門を潜る。敷地へ足を進み入れ白い石畳を渡っていると、風光明媚な庭が見えた。よく手入れされ、見事にわびさびを一画に落とし込んでいる。雅なものよ。


「父は庭弄りが趣味なんです。朝稽古が終わると、門下生が来るまで弄っていて……ちょうど今は母共々今治の祖父の家へ行っているんですけど、帰ってきたら、すぐに手入れをするでしょうね」


 何となくだが気難しそうな印象を受けた。森泉と契りを交わせば、いずれ挨拶せねばならぬだろうが、いなくてよかった。

 

 庭が見えてから玄関までは近かった。森泉涼子は重そうな引き戸を開けて、「どうぞ」と茶の間に上げてお茶を出してくれた。僕が来客用に出しているものよりいい葉を使っている。


「玄関に靴がなかったのを見ると、澄子はいないようだな」


 分かりやすく下の名前で森泉の名を言ってみたが気恥ずかしく違和感があった。それを万古蘭に「慣れていないようですね貴方様」と指摘され、顔が熱くなった。


「そうですね。どこかに遊びに行っているんでしょう。大人しい子でしたけど、一人でよく出かけていましたから」


 そうか奴は一人上手か。という冷気が立ち込めそうなくだらない冗談を呑み込み、慰みに床の間に掛けてある掛け軸を読んでみた。随分達筆ではあるが、読めない事はない。


【苦難より退かず。孤独にあっても媚びず。迎える修練に全霊を持って励めば省みる必要なし。其の心。即ち独尊也】

 

 これは家訓だろう。森泉め。何が、退かない媚びない頑張ろう。だ。簡略しまくりではないか。


「あの女めが……澄子さんが言っていたものとは、かなり差異があるようですね。大変ご立派な訓辞です。字も美しい。思わず見惚れてしまいますわ」


 万古蘭が言うのだから間違いないのだろう。だが僕は書やら絵やらの価値は分からない。もっともらしく頷いては見せたが、僕の書く字とどこに遜色があるのかは不明だ。


「蘭ちゃんお目が高いね。家は古来から書道と茶道も教えているんだけど、その掛け軸は森泉派随一の書聖が書いたものなんだって。ちなみに私、武の方は中伝止まりなんだけど、書は皆伝だから教えてあげようか?」


「機会が御座いましたら、や、やぶさかでもないような気がしないでもないです。はい……」


 万古蘭のやんわりとした拒否に対し森泉涼子は怪し気な流し目を送っていた。お前、男女関係ないんじゃないのか? 






 そうこうしていると、引き戸が開かれる音が聞こえた。森泉が帰ってきたか!? 固唾を飲み、屋内に上がった、軽やかな足跡に耳を傾ける。すると奥から懐かしき我が君の声が鐘の音の様に奏でられるのであった。


「お姉さん。帰ってきたの? お客様?」


 信じられない。あいつがまともな口の聞き方をしている。驚愕唖然大発見だ。これはどんな顔をするのか楽しみだ。

 どんどん足音が近付いて来る。僕は立ち上がり、感動の再会を演出する準備を始めた。心が踊り、歓喜の声が出るのを我慢しながら待つ。そして、襖のすぐ前に彼女はやってきた。数日ぶりの邂逅まで残り三秒。二、一……


「……」


「久しぶりだな森泉! 遠路遥々やってきたぞ!」


 そう言った瞬間に顔面に冗談回し蹴りが飛んできたのであった。あぁ懐かしい。卒業式以来ではないか。僕は下着の色もあの時と同じ薄紫である事に感動を覚えながら、彼女と出会えた事に喜んだのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます