魔女 後

 スマートフォンの音で目が醒める。

 あまり寝られなかったと感じたのは当然であった。アラームをかけた時間より二時間ほど早く曲が鳴っているからである。これは目覚ましではない。着信だ。

 スマートフォンの画面には万古蘭の名が表示されている。用があるならば部屋に来ればいいではないか。何事だ。


 不審に思い、僕は応答ボタンをタップして「もしもし」と声をかけた。しかし返事はない。代わりに、彼女ではない声が聞こえてくる。遠くて聞きづらいが、これは森泉涼子の声だ。


「ホテル、ピーチラヴァーまで」


 彼女は確かにそう言った。その後に「分かりました」という男の声が聞こえたので、二人はタクシーに乗車したのだろう。しかしなんだピーチラヴァーとは。ラブホテルか? そしてなぜ万古蘭は喋らない。だいたいなぜ電話を……

 もしかして、喋る事ができず、どうにかこうにかして僕に連絡をとったのでは……そうなるとあまり考えたくはないが、森泉涼子の手によって万古蘭が拉致されたという結論に達する。森泉涼子はなんらかの手段を用いて口を封じ、ピーチラヴァーと呼ばれる場所に移動しているのだろう。

 となると、そのなんらかの手段が気になるところだ。猿轡は……ないな。さすがに人目につく。脅迫でもされて制約を付けられたか、薬でも盛られたか……万古蘭の部屋は隣である。何かあればまずひと暴れして騒音を響かすだろうから、その音が聞こえなかったという事は後者の可能性が高い。なれば口だけではなく身体にも不自由が生じていよう。そうでなければもっと暴れているはずだ。

 万古蘭が昨夜言っていた事を思い出し、僕は舌打ちをした。想像もできぬ事件ではあるが、それなりの対処はしてやるべきであった。だが後悔先に立たずである。今できることは、早急に万古蘭を助け出すことだ。


 僕は着替えを済ませホテルを出て、タクシーを拾ってピーチラヴァーまでと告げた。警察沙汰にするかどうかは、森泉涼子の出方次第で考えよう。


 タクシーでの移動中。スマートフォンを耳にしていた僕は彼女達が目的地に到着したことを知る。向こうでは森泉涼子が、随分饒舌に話しているのが聞こえた。


「ほら着いたよ蘭ちゃん。どこの部屋がいいだろう……この三〇四号室、素敵じゃない、まるでお城の中みたい。ここにしましょう。蘭ちゃんもいいよね? あぁ大丈夫。無理に返事しなくてもいいから、楽にしていて」


 流れる機械音声。足音が響き、エレベーターの発着音が聞こえる。数分が経ち、ガチャリと開く扉。いかん。このままでは万古蘭がやられてしまう。


「運転手。後どれほどだ」


「十分もかからんけん。ちーと辛抱してくりゃー」


 岡山弁の返答に緊張感が薄れるが、十分後など間に合うか分からん。やむを得ん。警察に電話するか……と、森泉涼子が何やら喋り出したぞ。よしいいぞ。どんどん舌を回して時間を割いてくれ。貴様が御用となれば、僕も困るのだからな。


「ごめんなさいね乱暴しちゃって。でも私、蘭ちゃんの事好きになっちゃったの。いいえ違うの。決してレズビアンってわけじゃないの。この肉体は、しっかりと男性を求めるのだから。でもね。私は、貴女みたいに可愛い子の血や臓物や筋肉や繊維や皮が好きなの。肉体的な快楽はペニスによって満たされるけど、精神的な快楽は倒錯によって潤うんだ。そんな自分に気が付いたのは小学生の頃だった。仲の良い友だちが、一緒に遊んでいる時に車に跳ねられてしまったの。血みどろでもがき苦しむ彼女を見て私は、初めてオーガズムを感じてしまった……快感と罪悪感とが交互に私の脳でまぐわい、得体の知れない騒めきが私の心に響き渡ったの。私はこのエゴイズムに気付いた時、凄く悩んだ。だってそうでしょう? 可愛い女の子から血が流れ、傷の隙間から覗く肉を見るのが好きだなんて、悪趣味もいいところじゃない。それでも私は、私の中で産まれた衝動を拒絶できなかった。だから医者になる道を進もうと思ったの。だけど、駄目だね。当たり前だけど患者がみんな、貴女みたいに可愛らしい女の子とは限らない。研修で現場に行った際に見た、醜い人間が血を垂れ流す姿は、私を大きく歯嚙みさせた。だから、ごめんなさい。貴女を見て、我慢できなくなっちゃった。大丈夫。傷は残らないようにするから。薄皮をちょっと開いて、ほんの少し貴女の中身を見せてほしいだけなの。意識があるのは怖いだろうけど、無意識の人を割いても面白くないから、だから、お願いね?」


 鳥肌がだった。本物だ。森泉涼子は本物のサイコだった。今まで会った誰よりも危険な人種である。もし万古蘭の身体が男と知れたらどうなるか分からん。急がねば。


「運転手。まだか!」


「もうちーとけぇいがらんといてくれー」


 理解不能な岡山弁がより焦燥を募らせる。早くしてくれ。このままいくと取り返しがつかん事になる。


 タクシーはそのまま二分ほど走り停車した。周りに何もない閑散とした場所に、ハートと桃を掛け合わせたようなシンボルマークを掲げた廃墟のようなホテルが一軒静かに建っている。あれだな。僕は一万円を出してタクシーから駆け下りホテルへと入った。


 玄関を通ると見慣れた電子パネルがある。確か三〇四号室だったな。僕は横にある受話器を取り、フロントへ「頼みたい事があるから来てくれ」と連絡を取った。するとすぐに、奥にあるドアから痩せた中年男が姿を現したのであった。


「はいはい。なんでしょう」


「今使っている三〇四号室に入りたいから鍵を貸してくれ。部屋にいる女二人は俺の身内だ。なんとか頼む」


「はぁ? 馬鹿を言っちゃいけませんよ。警察呼びますよ?」


 やはり上手くいかんか。しかしそれは予想の範疇。いいだろう。奥の手を見せてやる。僕は財布をとりだし全ての札を中年男の前に差し出した。


「十万ある。迷惑はかけん。これで手を打ってくれ」


 実弾だ。さぁ折れろ。ラブホテルのフロントなどそう儲かる仕事ではあるまい。金は喉から手が出るほど欲しかろう。


「お客さん」


「なんだ」


 駄目か? 失敗か? 


「……申し訳ありませんでした。こちらの手違いです。三〇四号室はただいま使っておりません。鍵は電子ロックですのでこちらで開錠させていただきます。ただ、何分ここはお一人で楽しむ場所ではございませんので、事が済み次第お引き取りをお願いいたします」


 狸め。ごちゃごちゃと抜かしおって気に食わん。だが、交渉成立だ。僕はエレベーターまで走り三回のボタンを連打した。スマートフォンからは金属やプラスチックが擦れる音が聞こえる。まだサバトの準備段階か。よしよし手間取れ手間取れ。

 ……おや、何か、息遣いが近づいているような……









「電話が繋がってる誰だろ誰だろ誰だろ誰だろ誰だろ誰だろ誰だろ誰だろ誰だろ誰だろ誰だろ誰だろ誰だろ誰だろ誰だろ誰だろ蘭ちゃん蘭ちゃん蘭ちゃんこれは誰だろ誰だろ誰だろ誰だろ誰だろ誰だろ誰だろ誰だろ誰だろ誰だろ誰だろ誰だろ誰だろ誰だろ誰だろ誰だろ誰だろ誰だろ誰だろ誰だろどうしてこんなことするの私の邪魔をするのやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて私は貴女の血が見たいのいけないことだって分かっているけどもうどうしようもないのだからお願いしますお願いしますお願いしますお願いしますどうかこのまま切られてくださいそうしたら私は捕まるのもいいし死んだって構わないだからね、ね、ね、ね、ね、ね、ね、今から捌くね捌くね捌くね捌くね捌くね」




 アウトだ! 全速力で向かわねば! エレベーターが到着した瞬間、僕は三○四号室まで韋駄天の如く走った! 


「蘭!」


 勢いよく扉を開けると、そこには虚ろな目をしてベッドに寝かされている万古蘭と、その傍に薬品とメスを持った森泉涼子が立っていた。間一髪である。


「あら沢田さん。どうなさったんですか?」


 どうなさったんですか? ではない。こいつ正気か? いや狂ってはいるのだろうが、この期に及んで冷静に応対できるか普通。


「話は電話越しに聞いた。馬鹿な真似はよせ。今ならまだ間に合う」


 森泉涼子はくつりくつりと小刻みに不気味な笑い声を奏でた。不協和音のようで身の毛がよだつ。


「嫌です。だって、せっかく私好みの素敵な女の子を見つけたんですもの。手放せるわけ、ないじゃないですか。大丈夫です。殺しはしません。処方した薬も少量なら害はありません。意識があるまま、ちょっと身体が動かなくなるというだけです。それでも許せないというのであれば、この後私をどうしようと構いません。ズタズタに引き裂こうが警察に引き渡そうが、何だってしたらいいじゃないですか。でもね、この子だけは、この子の血を見る事だけは止められないんです。分かってください。お願いします。どうか、どうか私の気持ちを理解してください。これから行う背徳をお許しください。お頼み申します。どうか。どうか……」


 さっきまで笑っていたのに突然泣き始めた。情緒が不安定だ。関わりたくない。しかし、そういうわけにもいかん。うむ。一か八かだが、奴に万古蘭の真実を伝えてやるとしよう。


「森泉涼子。君は一つ、勘違いしている」


「はぁ……何がですか?」


 森泉涼子はもうすっかり泣き止んでいた。恐ろしい。


「蘭はな。男だ」


 僕はあえて端折った物言いをした。心が女なら問題ないという輩を、何人か知っているからだ。


「……何を仰るかと思えば、そんな嘘に引っかかるとでも?」


「嘘なものか。試しにそのスカートをめくって見てみろ。そうすれば、一目で分かるはずだ」


「……」


 少しの間があって、森泉涼子は万古蘭のスカートをゆっくりとたくし上げた。


「……!」


 そしてまた一間。だが、あるはずのないものを見てしまった彼女の顔は青ざめて引きつりを起こしている。


「……分かっただろう。さぁ、蘭は返してもらうぞ。


 僕が蘭に近寄り抱きかかえても、森泉涼子はピクリとも動かない。よほど衝撃的だったのだろう。気の毒な事だ。


「あぁそれと、君の実家には案内してもらいたい。どうしても、妹さんには会いた……」


 言いたい事を言う前に、僕は万古蘭を放り投げ森泉涼子に駆け寄った。手にしたメスで首を掻き切ろうとしていたのだ。冗談ではないぞ! 何を考えているんだこいつは!


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい私は取り返しのつかない事をしてしまいました死ぬしかありません死ぬしかありません死ぬしかありません死ぬしかありません死ぬしかありません死ぬしかありません死ぬしかありません死ぬしかありません死ぬしかありません謝ってもあやまりきれませんどうか死なせてくださいお願いします」


「まて! 大丈夫だ! 水に流すから! なぁ蘭! そうだろう!?」


 床に転がる万古蘭からは返事がない。ただの屍のようになっている。


 その後森泉涼子を説得し、万古蘭を助け起すまでに三十分掛かった。酷く、疲れた……

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