風と共に去らないで 前

 不思議な感覚であった。

 森泉の瞳の色が違って見える。光の加減だろうか。なぜだか、いつもよりも潤み、光沢を帯びている気がした。


「怪我、大丈夫?」


 彼女らしくない発言だ。いつもなら爆笑の後になじりになじるところである。いったい、どういう風の吹き回しだろうか。眠いのだろうか。


「この程度かすり傷よ」


 強がってみせたが痛み止めが切れて現在激痛に見舞われている。酷い痛みだ。あのライオンめ覚えていろよ。


「ごめんね。私、何もできなくて……」


 なんだなんだ。おかしいぞ。艶やかではないか。何に当てられた。流行りの映画か? いやいやそんなたまではないだろう。何があった。お前が嫌味や皮肉のない、正真正銘の謝罪を口にするなど、地球が逆回転するようなものではないか。おかしい。夢か? いや腕が痛いのだ。現実である。


「気にするな。お前が無事ならそれでいい」


 とりあえず好感度を上げにいってみる。これは千載一遇、未曾有の大チャンスだ。逃す手はない。そして既成事実を作り見事悲願を成就してやろう。時は来たのだ。

 森泉よ。その一見するとフルネームのような苗字を僕が変えてやろう。貴様は今日、新たに沢田 澄子として生まれ変わるのだ。いくぞ跳ねっ返り! 今宵はプライベートでSEXだ! 来れおめでた付けるぞ子種! 待ち焦がれていたこの瞬間を前にしたなら、腕の傷など軽い軽い! 我が征く道に曇りなし! いざ突貫!


 が、駄目であった。血が下まで巡らない。吐き気と目眩が興奮を抑えている。一度寝たせいか身体が休止してしまっているのだ。悔しい。不甲斐ない。腹を切って死にたい。いや、死にたくはないが、非常に辛く悲しいことは事実である。訓練が足りなかったか……せっかく個室(母が面子のためにそうしたのだろう)だというのに、これでは台無しである。


「しかし面会時間は過ぎたというのによく入ってこれたな。今日日カメラやセンサーが腐るほどつけられているだろうに」


「夕方にきて、深夜待合室に忍び込んだんだよ。いつバレるかヒヤヒヤだった」


 なるほど。森泉らしい。しかしなんだってまた夜中に来たのかが分からない。分からないが、直接聞くのは無粋な気がする。ここはけんに徹しよう。


「君が襲われている時……あの時私、怖かったんだ」


「……」


 知っている。無様に腰を抜かしているさまをこの目で見た。


「普段なにかとうるさくしてるのに、情けないよね。私、いつもそうなんだ。なんでもない時には好き勝手できるんだけど、いざとなると、身体が動かなくなっちゃうんだ」


「高校での火事の時は迅速に動いていたではないか」


 僕が母の笑顔に恐怖し、失神した時の事である。母は怒髪天であったが、実際にあの放水がなければ被害は更に拡大していた。誇っていいだろう。


「あれね。本当はもう少し早く消せたんだよ。火種を見つけて、どうしようどうしようって慌てちゃって、気付いたら大きくなっちゃって、それでようやく消火栓の事を思い出したんだ」


 なんとも寂しい顔をしている。ふむ。こういう趣も悪くない。そそる。

 しかし意外な一面を垣間見たな。なるほど、森泉は存外小心らしい。それがどうしてトリックスターを演じるようになったかは知らぬが、諸般あるのだろう。


「……そろそろ、落ち着いた方がいいのかな、私」


 随分と弱気ではないか。これは喝を入れてやらねばならぬな。安易に「そうだな!」などとのたまっては中身のない男と思われかねない。ここは叱咤激励にて相手の心を揺さぶろう。恋の駆け引きである。


「何をいうか。お前の美点はその出鱈目さだろう。落ち着くなどつまらん。僕はそんな女に惚れたわけではないぞ?」


 さぁ感涙せよ。その胸に、愛の一文字を刻むがいい。そして僕の男を見よ! もはや面白みがないとは言わせぬぞ!


「……!」


 僕に与えられたのは、愛の言葉ではなかった。暴力である。バシリという乾いた音と共に産まれる激痛。森泉の右拳が、僕の肩にクリーンヒットしたのだった。そしてまた出血だ! スーパーの安売りではないのだぞ!

 森泉はそのまま走り去ってしまった。おかしい。何か気に触るようなことを言っただろうか。皆目検討もつかない。と、悩んでいる場合ではない。ナースコールナースコール……


 僕は駆け付けた看護師に何があった聞かれたので、悩んだ挙句腕力強化鍛錬と答えたらしこたま怒られた。鬼の形相であった。






 そして翌日である。無事退院となり、ひとまず森泉に謝罪をしようと連絡したところ、不通。それでは店はどうかと電話をしたら、彼女は退店したと言われたのだった。


 まずい。僕のせいだとしたら、思ったよりも深刻な事態となっている。あそこは肯定しておくべきだったか。覆水盆に返らず。下手に考えるより、素直に「嫁にもらってやる!」くらい言っておくべきであった。とんだ大失態である。

 しかしだ。もし森泉が、本当に落ち着いてしまって、他の女と変わらなくなってしまったとしたら、僕は彼女を愛せるのだろうか。僕の好きだった森泉は奇天烈で滅茶苦茶なエキセントリックガールで、安定や平安など歯牙にも掛けない苛烈さを持つ女であった。それがすっぽり抜け落ちてしまったら、僕は……


「あの、沢田さん。どうなさいますか?」


 電話が繋がりっぱなしだったのを忘れていた。いかんな。


「……九十分。誰でもいいからつけてくれ」


 つい予約を入れてしまった。しかし、唆らない。滾らない。抱きたいと思わない。森泉がいないこの現実が、僕の持つ雄力を吸い取ってしまう。足取り重く、気が乗らない。しかし歩けば距離は縮むのだ。いつの間にやら店の前。入店して案内されて、わずか五分で嬢の前である。

 勃たなかった。ただ謝るだけであった。申し訳ないし、不甲斐ない。男として、立つ瀬がない。


「澄子ちゃん、いなくなっちゃったの、ショックですか?」


 嬢の言葉に項垂れた首を上げる。森泉は源氏名に本名を使っていた。そしてこの店でその名前は、森泉しかいなかった。


「ごめんなさい。私、何度か貴方が澄子ちゃんを指名してると聞いていまして……あの、澄子ちゃん。凄くいい子だったんです。昨日もお休みなのにお店に来たんですけど、男に騙されて、大切な時計を売っちゃった子に、いらない。って言って同じ物をあげたり、子供がいてお金のない先輩に、高いミッ◯ーの置物をプレゼントしたりしてたんです……いつも元気で、明るくて、たまに嫌なお客さんを殴ったり危険なプレイを強要したりしてたけど、本当、さみしいな」


 まさかである。

 いやいや。本当にか? 突然の真実発覚はやめてくれないか。心にくる。おのれ素っ裸で目頭が熱くなってしまったではないか。様にならん男泣きよ!


「すまん。帰る」


「はい。何もできなくてすみません。また、よろしくお願いします」



 何もせず、四万円だけ払って店を出た。森泉よ。僕はお前が分からなくなってしまった。霞を掴むが如く、埒のあかぬ思案に暮れるも得るものなし。何もする気が起きない。酒でも買って帰ろう。

 夜道を一人歩く。虚しい。下を向き、呆然と歩いているとスマートフォンに着信があった。松田であった。


「暇だろう。付き合え」


 空気の読めぬやつだ。間も悪い。最悪だ。


「すまんな。気分じゃない」


「いいではないか。退院祝いくらいさせろよ獅子殺し」


「無理だ。他を当たれ」


「そうか。どうしても駄目か」


 なんなんだ。今日に限って、妙に食い下がるではないか。


「くどい」


「なるほど。人がせっかく親切心で森泉の行方を教えてやろうと思ったのだが、来ぬか」


 それを先に言えばか! 一体全体なぜ松田が僕の事情と森泉の居場所を知っているのか疑問に思ったが、それよりも彼女が今どこにいるのかの方が気になった。

 僕は松田が飲んでいるという店まで飛んで行った。年越し間近。積雪の残る、寒い日の夜であった。

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