兄Q正伝 中

 僕が茶を用意している間にも話しは盛り上がりをみせている。もう見つかってしまったのだから場所を変えてもいいのではと思うが、とても口を挟める雰囲気ではない。


「貴様は私がいなかったら口封じに殺されていたのだぞ。その恩に応えろ」


「だから結婚は十年待てと言っている。今は色々とまずいし、俺もやらねばならぬ事がある」


「男を十年も放っておけるか! 男なんて信用できるか。どうせお前も裏切るんだ。あいつもそうだった……待っていてくれなどと抜かし、自分は他所で他の女と……許せるものか……決して……決してな!」


 茶を置きにきたら女が下を向き何度も拳を卓に突き刺していた。過去に何かあったようだが触らぬ神に祟りなし。僕は盆のまま茶と菓子を差し出して離脱しようと試みた。


「何だこれは」


 だが無理であった。黙って受け取ればいいものを、つくづく僕を困らせたいようだな。


「茶と菓子ですが」


「誰が菓子を出せと言った。私は空腹だと言っただろう。甘いもので腹が膨れるか。料理を出せ」


 茶だけ飲み菓子を突き返された。なんたる屈辱か。しかし招かれざる客とはいえ、客を持てなさぬのもまた恥。仕方がない。即席麺を出してやろう。僕は冷蔵庫からネギと玉子を出した。


「兄の事情などどうでもよいのだが、せめて私が家督を継ぐまで待ってくれないか。こちらにも相応の事情があるのだ」


「できぬ相談だな麗人。私の信条は即断即決即時即効。思い立ったら光の如く速やかに実行し迅速に成さねばおれんのだ」


「なるほど。立派な事だ。しかし急いては事を仕損じる。まずは交換日記くらいから始めたらどうだ? なかなか趣があるぞ」


 発想が八十年代の少女漫画である。そんなもの了解するわけなかろう。


「ふむ。私の性格がもう少し柔らかくあればそれもよかろう。しかしながら元来、饕餮とうてつのような性格でな。苛烈と激烈こそが我が本領。秘めたる想いやいじらしい恋心など、こそばゆい」


 仲がいいぞ。どういうことだ。あの女、どうして僕の時だけ虫扱いなのだ。ふざけている。差別である。個人的人権の侵害だ。これだから未だに毛沢東的の思想などを信奉している国の人間は嫌なのだ。扇動独裁排他粛清ばかりだから教育が蔑ろになる。


「できました」


 怒りを隠しながら即席麺を出した。ネギと玉子が入ったパーフェクトフードだ。存分に味わえ。


「何だこれは」


「拉麺でございます」


「……」


 妙な顔をしてラーメンを見つめる女。早く食べよ。伸びるぞ。

 女は箸を手に取り面を掴む。そして一啜りして黙る。余韻に浸るには早過ぎだろう。さっと食べろ。伸びる。


「おい」


 そう呟き指で僕を呼ぶ。なんだ。感謝の接吻か? 積極的ではないか。そういう態度は嫌いではないぞ。希望的観測を胸に秘め、彼女が望む通り僕は女にそっと顔を近づけた。すると瞬間。降り注ぐラーメン。女が僕にラーメンを投げつけてきたのだ!

 しかし華麗にステップ。我、退避に成功。馬鹿め! その技は母から玉露を浴びせられかけた際に見切っている!


「回避するとは小癪な」


「もったいないではないか。食を粗末にするとは中国人の風上にも置けんな」


 僕の軽口にユンと呼ばれたスーツ男が反応した。案山子のように突っ立ていたくせになんとも素早い反応である。是非もなし。臨戦態勢にて迎撃の準備を整える。さぁ来いと睨みを効かせると、女が「よい」と男を制した。ありがとう。助かる。


「食を無駄にしているのは貴様の方よ。せっかくの素材をこのような無残な味にしおって。採られ獲られた動植物への冒涜だ。料理をなんだと思っているのだ。貴様は厨に立つな。火が泣く」


 食道楽か。万古蘭と話が合いそうである。傍でうんうんと頷く姉を無視して哀れにも残飯と化したラーメンを片付ける作業に入る。まったく、安いとはいえタダではないのだぞ。


「客に即席麺はないだろう」


 兄がそんな事を言いながら手伝ってくれたが貴方は庶民の暮らしを学ぶべきだ。伝記めいた冒険譚より余程心を揺さぶられるだろう。


「貴様。掃除が終わったらこれを買って来い。近くに傲慢にも二十四時間営業をしているスーパーマーケットがあった。そこで事足りるだろう」


 女はそう言ってメモを僕の前に落とした。箇条書きで食材の名が記されている。なんだこれは。


「貴様には任せられん。かといって丈夫ちゃんふーに包丁を握らすわけにもいかんし、麗人にやらすのも無礼。そこで私自ら腕を振るって真の料理というの教えてやるから早く買って来い愚義理弟ぐてい


 ふざけている。怒り以外の感情が湧かない。しかし、言われるがままに僕は買い出しに行った。あの手の人間には逆らうだけ無駄なのだ。何をしてもどうせ最終的には従わねばならん。ならば、無駄な労力を費やすこともない。








「買ってきました」


「うむ」


 女は既に準備をしていた。頭に巻いた三角巾がやけに似合う。


「ガスなのはいい心がけだ。電気より値は張るが遥かに美味い料理ができるからな」


 なぜ日本のキッチン事情に詳しいのかよく分からぬが、ともかく女は調理を開始した。見事な手際である。一連の動作にまるで無駄がなく、それ自体が芸術品のような輝きを放っている。言うだけのことはあるな。


「さぁできたぞ。麻婆豆腐だ。本場四川のものとは些か違うが、味は保証する。丈夫と麗人も食すがいい。ユンも食べろ。いかに貴様といえど多少は疲れただろう。それと、愚義理弟はよく味わい己の愚かさをよく噛みしめるように」


 袒裼裸裎たんせきらていもいいところだ。不味かったら承知せんからな。

 僕は中華鍋から麻婆豆腐をすくい取り皿にして移した。香りは良し。スパイシーな匂いがなんとも食欲をそそる。味は……うむ。美味いではないか。イケるぞ。実は麻婆豆腐は辛味と豆腐の淡白さがイマイチ合っていない気がしてさほど好きではなかったが、これはいい。豆腐に味が染み込んでいる。美味い美味い。


「どうだ? 美味かろう」


 そう聞く女に姉は絶賛の嵐でやたらとめったらと褒め、兄は複雑な表情で「美味い」とだけ呟いていた。


「そうだろそうだろ。愚義理弟。貴様はどうだ? 舌に合わぬということはなかろう」


 完全に勝ち誇った顔をしている。このまま阿呆のように「おいしいですぅ」と言うのははばかられる。

 よし。いい案を思いついた。上手くいけば兄も自由の身になれるかもしれん。ここは動いてみよう。僕がただの匹夫ではない事をみせてやる。


「やれやれ。確かに美味いのですが、この程度でしたり顔をされるようではまだまだ未熟。井の中の蛙もいいところ」


「……なんだと?」


 殺気が満ちる。こいつも感情で人を殺せるタイプだな? しかしそういった人間の方が策にはハメやすい。所詮小娘。貴様は既に蜘蛛の巣の上よ。


「一週間後。僕が本当の麻婆豆腐を食べさせてあげますよ。その際、もし貴女が負けを認めた際には、兄の事を綺麗さっぱり忘れて頂きたい」


 こめかみが震えている。怒り心頭か。無理もない。散々馬鹿にしていた人間に噛み付かれたのだ。プライドの高い貴様が正気でいられるはずもなく、僕の提案を受けるしかないだろう。


「……いいだろう。貴様の口車に乗ってやる。ただし、私を侮辱したのだ。もし私が負けを認めぬ場合、死ぬだけでは済まぬと心得ておけ」


「分かりました。好きにして頂いて結構です」


 僕の言葉に仏頂面だった女は嫌な笑みを浮かべてスーツ男と共に部屋を出ていった。一先ずは安泰か。


「おいおい。大丈夫なのか」


「どうするつもりだ愚弟。あの女の腕はかなりのもの。勝てるのか?」


 兄姉の質問に胡座をかき頷く。大丈夫。僕には切り札があるのだ。人間万事塞翁が馬とはよくいったもの。こんなところで役立つとは思わなかったが、こんな時で役立つ縁に僕は運命という不可視の存在を信じられずにはいられなかった。

 頼むぞ万古蘭。あの女に一泡吹かせる為には、お前の力が必要なのだ。

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