兄Q正伝 前

 深夜。

 僕も姉もとうに寝入っている時間であったが玄関の扉を叩く音が聞こえ目を覚ました。誰だまったく。酔っ払いが部屋を間違えているのか?


「私が出てこようか」


 姉も起きていた。それもそうか。一分以上この不快なドラムが続いているのだ。寝ていられる方がおかしい。


「いや、僕が出よう」


 ここは若輩である僕が動くべきだろう。むくと起き上がりて伸びを一回。卓においてある飲みかけのミネラルウォーターを一口飲んでから、仕方なしに扉を開けた。すると、思いもかけない人物が立っていたのであった。


「……兄上!」


「上げてくれ! 早く!」


 僕は「待ってくれ」と言って一度扉を閉め、姉のかけたチェーンロックを外し兄を招いた。部屋の電気は点いている。僕の声に姉が反応したのだろう。気の利くことだ。


「久しぶりではないか我が兄よ。まさかこんなに早く再開するとは思わなかったぞ」


「なんだお前もいたのか……まぁいい。ともかく、少し休ませてくれ」


 僕は兄を部屋に上げ茶を出してやった。この頃福寿園の消費が激しい。来客がやたらと増えたのもあるが、姉が当然のようにガバガバと飲むからである。苦言を呈したいが茶の一つでガタガタ抜かすさもしい人間と思われるのも癪である。泣き寝入るしかない。


「して、何があったのですか? まさかホームシックというわけでもございますまい」


 僕の問いに兄は「馬鹿を言うな」と笑ったが、どこか余裕がないように見えた。


「家督が惜しくなったか」


 姉が真顔でそんな事を言う。よほど英国には帰りたくないようだ。


「そんなものはいらん。いらんのだが、お家騒動の要因になり兼ねない事態となった。お前も他人事ではないぞ」


 僕にとっては一向に他人事であるわけだが、何が起こったかは気になるところだ。聞くしかあるまい。僕も姉も口には出さなかったが兄を急かし、語られる話に耳を傾けるのであった。


「……中国は雲南省にあるミンリンカンリという山を登った際の出来事だ。そこは神々の山といわれる未踏峰の一つでな。是非とも踏破してやろうと進んだわけだがその最中に俺は遭難してしまったのだ」


「そうなんですか」などというくだらない言葉を飲み込み僕は相槌を打つだけにとどめた。


「吹雪と冷気に身体が動かず意識は朦朧。今日こそ年貢の納め時かと、命の儚さを想い。志半ばを悔やんでいると、身体が持ち上がる感覚があったのだ。死して魂が浮かび上がったのかと思ったがそうではなかった。どうやら俺は人の手により運ばれているのだと分かった」


「そんな秘境に人がいるのか?」と姉が口を挟んだが、兄は「まぁ聞け」とそれを制す。


「気付いたらベッドの上。起き上がり周りを見てみれば清潔が保たれた部屋に最新鋭の医療機器。なんだと思えば、そこに丁度医者らしき人間が入ってきたので詳しく話を聞いたところ、なんでもそこには少数部族が暮らしているらしく、発掘される鉱物で経済を回していという事であった。後で知ったのだがその鉱物はレアアースどころの騒ぎではないほど希少かつ汎用性の高いもので、その採掘方法は現地民族しか知らず、知れたとして到底真似のできる技ではないから中国政府から鉱物と引き換えに手厚い保護を受けているのだそうだ。そしてその鉱物は何でも軍事に……いや止めておこう。どこで誰が聞いているか分からんからな」


 賢明な判断だ。僕の部屋で気軽に国家機密的な情報を漏洩するのは止めていただきたい。


「まぁそんなわけで一命を取り留めたわけなんだが、この恩を返さずして別れるわけにも行かない。そして何が困り事はないかと聞いたところ、近辺に熊が出て生活に支障が生じているというのが分かった。年中吹雪く山だ。ライフルでさえ使い物にならんし、それ以上の兵器を使えば騒音で雪崩の心配もある。何より大事な鉱物がいくらか吹き飛ぶかもしれぬのだ。無茶はできない。政府も極秘に動いている為に軍が動くこともできない。そこで俺が金太郎よろしく熊退治を請け負ったというわけだ」


「熊を殺したのですか……」


「うむ。とはいっても俺は策を授けただけだ。実働は部族の人間がやったのだが、ともかく熊は仕留めた。驚いたぞ。身の丈五メートルはありそうな化物だったのだからな。まぁそれで人々からは感謝され諸葛亮やらなんやらと持ち上げられてしまったわけだが、気付いた時には長の娘と結婚する事になっていてな。何とか必死に逃げ、今お前たちの前にいるのだ」


 途方も無い話である。信じろという方が無理だが、兄に限って嘘を言うわけがない。まるで絵空事であるが、全て事実なのだろう。


「解せんな。それならば、わざわざ日本でなくとも米国か、それが無理なら欧州辺りに逃げた方がいいだろう」


「奴らは政府の庇護下にあるのだ。公式な移動手段など使えんよ。日本にはあっちで世話になった漁師に……」


 僕は兄の口を手で抑えた。そんな犯罪めいた話は聞きたくないからである。


「だいたいいいではないですか結婚くらい。サクッと契って終いでしょう」


「無責任なことを言うな。夫婦となったからには責務を果たさねばならぬだろう。なれば子も産んでもらわねばいかん。そうなると、親戚連中がそれを利用する可能性が高い。ただでさえ俺が出奔して面倒になっているのだ。これ以上揉め事を起こすわけにはいかん」


「そんなもの、父上と母上がどうとでもするのでは?」


 僕がそう言うと兄は目を逸らし姉は溜息を吐いた。なんなんだ。


「私の立場はお前が思っているより盤石ではないのだよ」


「下手をすると清洲会議になり兼ねないのだ。察しろ」


 どうやら相当にややこしい話のようだ。兄が種付けしなければいいだけのような気もする。それを言ってみると「お前は不真面目な奴だな」と返された。そんな場合でもなかろうに。


「ともかくほとぼりが冷めるまで世話になりたいのだが」


「それはかまいませんが、母上に知れたら事ですよ」


「あの人が知らぬわけあるまい。黙殺しているに決まっているさ」


 それは買い被りすぎではないかと思った直後である。突如として玄関から大きな音が聞こえ、足音が二つ近づいて来た。何事かと思い見ると、そこには一人の女とスーツを着た男が立っているのであった。


丈夫ちゃんふー探したぞ。さぁ。早く村へ帰ろう。皆、お前を待っているぞ」


 土足である。おまけに手土産はおろか挨拶もなし。舐められたものだ。僕は立ち上がり女を見据える。見据えるが、向こうはまるで眼中にないようだ。視線すら兄の方から動かさない。


「女よ。ここは僕の部屋なのだが、礼儀くらいは通すべきではないかね」


 紳士的な対応だ。百点満点であろう。

 

「黙まれ虫。私は貴様などどうでもいい。死ぬか消えるか選べ」


 なんだろうか。中国式の冗談だろうか。粗野で面白くもない。文革で野蛮人しか残らなかったのかあの国は。


「わざわざ日本語で話してやったのに聞こえなかったのか虫。私は貴様が逃げられるよう温情を与えたつもりであったが、死にたいのか? いいだろう。ユン。殺せ。この世に未練が残らぬよう、一瞬で終わらせてやれ」


 スーツの男が懐からナイフを出した。あぁ冗談じゃないのか。やめてくれないか本気なのは。どうしてこう違った人間ばかりと関わり合いにならねばならぬのだ。いい加減にしてほしい。


「止めろ。ここにいる二人は共に俺の兄妹だ」


「ほぉ……この間抜けがか。そっちの麗人は分かるがな。なるほど。他に吸い取られたか。哀れよな」


 初対面の相手に対する態度か。腹立たしい事だが命は惜しい。僕はすごすごと引き下がり、兄の後ろに退避した。


「なかなか面白い女だ」


 姉がそんなことを言った。何が面白いものか。芸もできぬ狂犬など見たくもない。まったく次から次へと碌な目にあわない。できることならば、松田辺りと人生を替えたいものである。


「うむ。では仕方がない。ここは穏便に話すとしようか。愚義理弟ぐてい。私は空腹だ。食べ物と茶を持て」


 僕はたまに自分が許せなくなる。なぜかというと、こんな時にさえ小心に陥り「只今!」と、言われた通りにしてしまうからである。兄姉の視線が痛い。そんな目で見ないでくれと思いつつ、僕は福寿園と菓子を用意したのであった。

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