ゲルニカの日 後

 母の一喝は効果絶大であった。姉などは小さく悲鳴を上げたくらいだ。さては絞られた口だな?


「何ですか。女が三人揃って来客の用意もできないのですか。親から何を教わってきたのですか」


 一人は貴女の子だがいいのかそんなことを言って。


「母上。お茶でございます」


 母に茶を出したら盆からひっくり返されて僕は熱湯を頭から被った。熱い!  僕は踊りたくもないダンスを夜更けに披露してしまった。玉露なので火傷するほどの高温というわけでもないがそれでも五十度はある。意味が分からない。


「何ですか貴方は男のくせに主婦のような真似をして、仮にも家主なのでしょう。そんなものは姉にやらせなさい。だいたい酒の席に茶を出すとは何ですか。母に出す酒はないと言いたいのですか」


「す、すぐに用意を……いえ、姉上に用意していただきます……」


 姉は素早く動いた。というより言葉の途中で既に動いていた。以心伝心である。ついでにいうと家主は大家である。僕ではない。





「して、これは何の集まりなんですか?」


 母はウィスキーを一口飲みそう言った。乾杯はなかった。しかし都合よくロイヤルロッホナガーを買っておいてよかった。こいつはロイヤルハウスホールドのキーモルトとなるシングルモルトウィスキーである。値はかなり落ちるがその割に十分すぎるほどの味わいがある。


「あの、本日は私がこちらにお招き頂きまして……」


「それでどんちゃん騒ぎですか万古さん。貴女は淑女としての教育を受けているとお母様から伺っておりますが、まだまだ覚える事が多そうですね」


 万古蘭は小さく頷いて黙ってしまった。下手に反論すれば檄が飛ぶと理解しているようだ。恐らく、彼女の母もここまででないにしろ似たようなものなのだろう。家柄が良いというのも大変だ。


「次に、貴女」


 呼ばれた姉が肩を震わせている。話を聞く限り母を慕っているようであったのだが、まるでこの世の終わりのような顔をしている。そこまで恐怖するか。過去に何かとんでもない事をやらかして酷い仕置きでも受けたのだろうか。


「まず行動が遅い。女がいながら男に盆を運ばせるとは何事です。貴女がそんなだから、酒器ではなく茶など出てきたではないですか。家長候補筆頭とはいえ立場はまだ貴女の愚弟とほぼ同列。わきまえなさい」


「母上。それは私がそもそもの原因で……」


「貴方は黙っていなさい!」


 黙る他なし。僕は姉一人庇えぬ自分を不甲斐なく思う。しかし許せ。僕も恐いのだ。


「そして次に許せぬのがこの騒ぎを止めもせず傍観していた事。我が一族の家長となるのであれば適時適切なる判断を下し、過ぎたるは鎮め、及ばざるは滾らせる器量がなければなりません。此度の貴女の失態は、まさにその器量が不足していたからに他なりません。そんな事では、この先を任せられませんよ?」


「申し開きもできません。全ては私の不手際。大いに反省し、今後このような事がないよう一所懸命に努めさせて頂きます」


 茶だの酒だの沈めろだの滾らせろだの。大袈裟な話だ。姉もそう気に留めずともよいのだ。僕なら同じ過ちを三度は繰り返すぞ。


 しかしすっかり二人は項垂れてしまっている。無理もない。二十歳を越えて叱責されるなど屈辱的だろう。しかしこの二人は常識がある分まだいい。問題は森泉である。彼女に対して母がどう出るか分からないし、更に彼女自身もどう反応するか分からない。というより知りたくもない。二人が正座をして頭を下げている中、一人胡座をかいてその様子を肴に酒を煽っている女の出方など、予想するだけで脳が一生分の働きをしてしまう。


「さて。つきましては貴女様にご迷惑をお掛け致しました。我が子達とその関係者がとんだご無礼を働いたようで……」


 意外な展開であった。姉と万古蘭は鳩が豆の回転式多銃身機関銃の集中砲火を浴びたような顔をしている。


「あぁいいですよ。別に。お遊びですから」


 僕を含めた三人の血の気が引いていく。寒い。先ほどは動けたが今度は無理だ。凍りつくなんてものじゃない。部屋が一つの氷塊となり、そこに閉じ込められたような気分だ。


「ところで。貴女は森泉 澄子さん。でしたよね?」


「はぁ……そうですけど、何か?」


 森泉はなぜ私の名を知っているんだというよう顔をしている。そして僕も不思議に思ったのだが、母の不気味な笑顔に封印していた記憶が蘇り、頭の中で避難警報が鳴り響いたのであった。

 動かなければならぬ。この部屋から出なければ死ぬ。DNAに刻まれた危機察知能力が逃げろと言っている。すべてが思い出された今、僕は必至で凍り付いている空間から逃げようと身体中に力を入れた。その間にも、トラウマとなった凄惨たる忌まわしき記憶が断続的にフラッシュバックしてくるのであった……





 あれは母が珍しく僕の住む寮に来た時。森泉に愛を告げる少し前のことである。なんの用かと聞けば僕の家だけ三者懇談を一度もしていないから一度だけでも来て頂きたいと言われたのだそうだ。確かにそれまでそんなものをした覚えはなかった。


 僕は母と共に寮から出て校舎に向かった。その途中には使われていない小さな小屋があるのだが、その日、なぜだかその小屋が炎上していた。

 母は素早く消防車を要請した後に少しでもその火を消さんと諸々と手を打っていた。その時に「消火栓はないのか!」と誰に向けるでもなく叫んだ瞬間。


「任せて!」


 と、声を張り上げた女が巨大なホースを持って放水を始めたのであった。その場に立つ母諸共……


 火はすぐ消し止められ大事には至らず。原因は追って調査するとの事であった。しかし、僕にとってはそれだけでは済まなかったのである。


「貴女、お名前は?」


「森泉 澄子だよー」


 泥と水に塗れた母は笑っていた。恐ろしい笑顔だった。かつてこれほどまでに地獄の淵に近づいた時はなかった。僕は戦慄してしまいその場で失神。今日までその思い出を脳の片隅に封印していたほどに恐怖したのであった。




「覚えていますか?  貴女が、私をホースで吹き飛ばした事を」


「……!  あーあの時のおばさん!  お久しぶりでっすー!」


 這いずって玄関近くまで来ていた僕は森泉の発言により直立からの疾走が可能となり逃走に成功した。後ろから轟く怪音は聞こえないフリをして必死に走った。姉よ。万古蘭よ。そして我が愛しの君、森泉よ。すまぬ。だが僕はまだ死にたくないのだ。いかに矮小な命とはいえ、むざむざ無残に散らせたくはない……故にさらばだお三方。生きていればまた会おう!





 近所のバー。

 命からがら逃げ延びた僕は一時の安息に酔いしれていた。


「沢田さん。そろそろ閉めたいのですが」


「すまないマスター。今日はもう少し休ませてくれないか」


「……」


 何も言わず置いてくれるマスターの心意気に感謝である。部屋がどうなっているかとか置いて来た三人が無事かとか明日どうしようとか、考えれば考えるほど絶望が押し寄せてくる。心臓がもたない。せめて、陽が昇るまでは心清らかでいたい。

 そんな風に僕が現実から目を背けていると、マスターがそっと、酒が入ったコリンズグラスを出してくれた。


「これは?」


「スーズトニック。サービスです」


 マスターの心遣いに感謝の念を示し僕はスーズトニックとやらを頂いた。うむ美味い。トニックのほろ苦さが甘いリキュールを引き立てる。


「スーズはピカソが愛したリキュールです。彼はギネスに載るほどの数の作品を世に残したそうですが、そんな膨大な芸術品に想いを馳せれば、長い夜も瞬きのように過ぎていくでしょう」


 ありがとうマスター。しかし僕は時の経過を止めたいのだ。その殺し文句は次回にもっと似合う客に言ってくれ。


 出された酒を楽しみつつマスターと談笑していると、ふいにカランと扉に付いている鐘が鳴った。こんな時間に客か。非常識な奴だ。


「申し訳ありません。本日わぁっ!?」


 マスターの驚いた声に、僕は思わず入り口を確認する。すると、そこには……


「こ、こ、かぁ……」


 ゲルニカのような、見る者の正気を削りそうな顔をした女達が立っているのであった……

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