ゲルニカの日 前

 いつもの通りアルバイトが終わり、いつものように一日が過ぎるはずであった。


「……あっ」


「どうした」


 万古蘭を送り届け家の前で下ろした際、彼女の口から漏れた何やら意味ありげな発声を僕は聞き逃さなかった。


「いえ、何でもありません。本日も送って頂きありがとうございました」


 万古蘭の様子は変であった。無視をして帰ってもよかったが、それではあまりに後味が悪い。聞くだけ聞いてやろうと思い僕は彼女に「話してみろ」と言ったのであった。


「その、鍵をお店に忘れてしまいまして……」


「何だそんな事か。では戻るぞ」


 万古蘭は一瞬呆気に取られた顔をしていたがすぐにあたふたと喚き、「いけませんいけません」と長々と話を始めたので一発頭を小突いて半ば無理やり店へと引き返したのであった。しかし結局鍵は見つからず、どうしたものかと思案した結果、僕の部屋に来ることを提案したのである。


「大丈夫です大丈夫ですホテルに泊まりますからお気を使わないでください!  それに貴方様のお部屋で一夜を過ごすだなんてそんな……は、恥ずかしいです!  いけませんわいけませんわ!  そんなはしたない事私到底できませんわ!  どうか許してくださいまし貴方様!  私その気になれば野宿でも何でもいたしますので本当に何かもう色々すみませんお世話になります幸せにしてください!」


 最終的にわけの分からぬ解釈に至ったようだがともかく了解を得た。そのまま暴れる万古蘭を轟雷号の後ろに乗せて無事部屋についたのであったが、姉が丁度風呂上がりでフルフロンタル。万古蘭と姉の聞いた事もない悲鳴がこだましたのであった。


「弟よ!  なぜ彼女がここにいるのだ!  そ、それに裸を……恥だ……前代未聞。空前絶後の大恥だ!  身内以外に無防備な姿を晒すとは!  は、腹を切る!  介錯を頼む!」


「いけませんわいけませんわ!  私は見ておりませんのでどうかお気を確かに持ってくださいませ!  それに仮に貴女のあられもない姿をこの目に収めたとしても所詮は女同士!  憂うことなど何一つございませんわ!」


 騒がしい事この上なかったが僕は気にせず万古蘭を部屋に上げ缶ビールを三人分用意した。初手はビール。これは譲れない。


 そうしてわざわざよそ行きに着替えた姉と万古蘭とで乾杯を交わしたのであった。二人とも一癖ある性格ではあるが嫌なところはない。共に酒を飲むのに不足はなかった。時々姉がぎくしゃくとした挙動を取っていたが、やはり万古蘭を意識してしまっていたのだろう。普段は気丈なくせに可愛らしいものである。


 さて。ここまでは良かった。僕達は三人で仲良く酒を飲み、くだらぬ話に馬鹿笑いを上げ大いに盛り上がっていたのだが、そこに一つの異物が紛れ込み自体は一転。現在、地球の何倍かの重力がかかったかのような圧が場を支配している。いったいどうしてこうなったのか。好事魔多しとはいうが魔が過ぎるというものである。




 それはそろそろウィスキーにでも移ろうかとした瞬間であった。やたらめったら玄関扉を叩く音が聞こえ皆押し黙る。水を差された気分であった。騒音の苦情を言いにきたかと思い仕方なしに立ち上がって扉を開けると、そこに立っていたのは森泉であった。


「遊びにきたよ!」


 そう行ってするりと部屋へと進入する森泉はやたらと酒臭かった。今日以外なら大歓迎だったのになぜ今日なのか。日本軍に真珠湾を攻撃された米兵達の気持ちが分かる気がした。


「あれ!?  人がいるじゃない!  あぁ君は万古蘭君!  久しぶり!」


 森井はさっそく万古蘭に絡んだ。どうしてあの二人は仲良くできないのだ。同じ人間ではないか。


「何なんですか貴女は突然現れてからに!  こんな時間に他人様の宅へ連絡もなしに訪ねて来るだなんて常識が欠落しているのではないですか!?」


「知らない知らない聞こえない。あら、こちらの美形は初めてね。私の事は澄子って呼んでくれていいよ。なんなら結婚しない?  私顔の良い男が好きなんだ」


「……初対面で求婚された事は何度かあるが、君のような人間と会うのは初めてだな。それと、私は女だ」


 騒ぎは大きくなるばかり。僕は開けたドアから逃げ出そうと思ったが万古蘭の「たまとってやりますわ!」という声に慌てて部屋へと戻り二人をなだめ一人に酒を注いだのであった。







 そうして現在。一応の沈静化は図られたが各々が黙って酒を飲み通夜のようである。酒だけが進み、その割に酔えない。緊張感は酩酊を抑制する効果があるようだ。


「空気が重い。愚弟、何か余興の一つもないのか」


 事の解決を僕に頼るな。この中で一番なにもできない人間だぞ。


「沢田君。あれやったら?  ほら、君が前に言っていた男同士裸になって相撲を取るってやつ。丁度もう一人、男の子がいるわけだし」


「本気で殺しますよ」


 万古蘭は怒ると口数が少なくなる。つまり、彼女を黙らせたければ禁忌に触れればいいわけであるが、恐ろしくて僕にはとてもできない。


「君はそういうところが良くないな。他人の神経を逆撫でしたって碌なことにはならん。改めよ」


 姉の正論も森泉には馬耳東風。ふふんと嫌味な笑いを浮かべ酒を飲む。さすがの姉も眉間に皺を寄せ不快感を露わにしている。


「君達。せっかくの酒の席だ。もう少し楽しく……」


 言葉を言い切る前に全員から睨まれてしまった。阿修羅と対峙しているようだ。こんな時だけ息が合うのはどういう事だろう。


「元はといえば貴女がこんな時間に無遠慮に来たのが原因ではないですか。この恥知らず!」


「そういうあなたはなんでこんな時間に沢田君のところにいるの?  ひょっとしてお姉さん狙いかな?  彼女なら問題なくお付き合いできるものね」


 怒り狂い野犬のように唸る万古蘭であったが姉は満更でもない顔をしていた。お前は好いた人間が貶されているのだから多少は庇ったらどうなんだ。


「そういえば沢田君。先日前私が泊まった時に黙って飲んだあの高そうなお酒ある?  ろいやるはうすほーるど。だっけ?」


 森泉が言っているの以前彼女が僕の留守中に飲んだTHE RoyalhouseHold の事だ。あるはずがなかろう。通常のロイヤルハウスホールドは諭吉一、二枚で足りるのだが、あたまにTHEが付くとそれだけで諭吉十人が消えるのだ。そんな次から次へと買える酒ではない。しかし黙って飲んだ酒と堂々と言うところがこの女の美徳だな。


「貴方様。この女、貴方様のお部屋で一晩過ごしたのですか?」


「やむ負えぬ事情があったのだ」


 初めて万古蘭が僕に対して軽蔑の眼差しを向けた。背筋が凍る。


「いえ……私は貴方様を信じます。この女が貴方様を誑かしたに決まっています!  許せませんわ!」


 お前ら二人の出会いは僕が森泉を買った事から始まったのだろうに。今更誑かすもクソもあるものか。


「あのクラスの酒を勝手にか……弟も我が一族とはいえ援助は皆無のはず。言ってみれば庶民だ。そんな人間からあれを盗み飲みするとは、何とも救い難い……それに私は一杯しか飲んでいないというのに」


 姉よ。同情してくれるのはありがたいが、その心情は自分が飲めなかったから腹を立てているだけではなかろうな……


「なに。私一人が悪いって言いたいの?」


 万古蘭と姉は口を揃えてどう見てもそうだろうと怒鳴りつけた。しかし森泉はまったく悪びれもせず「まぁ恐い」と僕にすり寄ってきたのであった。


「助けて沢田君。私あの人達にいじめられているの。君、私の事好きでしょう?  助けて欲しいなぁ」


 明け透けに身体を密着させ猫なで声をだす彼女に思わず身体が反応してしまう。悲しい性よな。


「よくもまぁ抜け抜けと!  離れなさい淫売女!  三枚におろしてやりますわ!」


「何だ弟。そんな淫魔の如き女に骨抜きにされてしまっていたのか。それならば自慰の方がよほどいいぞ」


 散々な言われようだが森泉は笑っている。僕は心臓が潰れそうだ。なんなんだ。女難にしてももっとこう、あるだろう色々と。美味しい部分がまるでない。ただただ女の邪悪を見せつけられているだけではないか。


「貴方様」


「弟」


「沢田君」


 三者一様。重なる視線。中心は僕である。まるでパリスの審判だ。禍々しい女の思念が身体中に纏わりつく。動けない。指先すら凍り付いたように停止している。いや、馬鹿をいうな。僕はそれ程小心ではない。動く。動ける。動けるのだ。よし、それでは僕は今から動くぞ。


「……?」


 おもむろに立ち上がり距離を取る僕を三人が見つめる。

 予感がした。それは船乗りが時化の前兆や雲の動きを看破するのに似ていた。極度のストレス下に置かれ、第六感的な能力が僕の中に目覚めたのかもしれない。


 予想通り響く着信音。一音が鳴り切る前に受信。


「はい。えぇ。分かりました。すぐ準備いたします」


 僕は携帯を切り茶の準備をした。インスタントコーヒーではない。福寿園の方だ。


「貴方様。誰がいらっしゃるんですか?」


「デリヘルの予約でもしていたんじゃない?」


「どうして貴女はそうなのですか!?  そんなもの呼ぶわけがないじゃないですか!」


「そうだ。弟は金がなく右手に頼るような甲斐性なしだぞ。娼婦などそう呼べるものか」


 また騒がしくなり始めた。女三人揃えば姦しいというが、果たして四人揃えばどうなるか見ものである。


「騒がしいですよ!  何時だと思っているのですか!」


 こんばんは母上。本当に貴女はタイミングが悪い。僕は茶菓子を用意しながら、今日この日が自分の命日にならぬよう信じてもいない神に祈った。

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