薔薇色の苦悶 前

 アルバイトが終わり帰宅するとすぐに気がついた。玄関が開いているという異常事態に。

 空き巣であるなら無駄骨に同情する。僕の部屋に金目の物などないのだから。価値があるのは風俗の割引券くらいだ。この際なんでもいいやと盗まれていたら腹は立つが子細なし。それでは確認といこうか。


 ドアを開けると明かりが点いている。それはいい。しかし問題が一つ。靴が綺麗に揃えて置かれているのだ。物取りが靴を脱ぐか?  しかも揃えて。

 だいたいエドワードグリーンの革靴である。高級ブランドじゃないか。紐の結び方も気品高く、よく手入れされているのを見るに盗ったものではないな。自前の、しかもかなり大切に扱っているものだ。ますます分からん。


 訝しみながら直進。リビングの扉を開帳。(この扉も開け締めするのが面倒なので基本は開けっ放しにしていた)そして目の前には来客用の福寿園を我が物顔で淹れて飲んでいる紳士服を着た美顔が鎮座していた。


 目が合う。相手は動じず。太々しいやつだ。だがまぁいいだろう。散り際は潔くあるべきだ。そのいきやよし。だが捨ては置けぬ。不埒な輩を我が格闘術の錆としてくれよう。いざ尋常に!


 僕は相手が湯呑みを口に運んだ瞬間に顔面に蹴りを入れた。整った顔が憎かったのだ。鼻をひん曲げ、見る者が痛々しい悲鳴を上げるのを聞きたかった。顔立ちの良い者に慈悲はない。不法進入者撃退の大義名分もある。専守防衛。そして先手必勝。アメリカでは銃口を向けられても文句は言えない。ここが日本でよかったな美顔め!


 しかし蹴りは空を切って僕は倒れた。何が起こったが分からなかったが突如発生した痛みにより全てを理解した。僕は倒れたのではない。倒されたのだ。そしてそのままあの美顔にアキレス腱固めを極められているのだと。耐え難き激痛。屈辱であったが僕はタップしなければならなかった。それが聞入られるかどうかは美顔の良心に賭けなければならなかったがどうもこの美顔は慈悲深いようで、身体を数回叩いたらすぐに技を解いてくれた。ありがたい。


「いきなり蹴りかかってくるとは。物騒な奴だな」


 腹の立つことに声も美しかった。感謝の気持ちがすっかりとなくなる。


「部屋に知らない人間がいたらどう思うね」


「不愉快ではあるが、先ずは話し合いだろう」


 なるほど自分が異端であるのは認めるか。であるのならば常識力を発揮してほしかった。用があるにしても他人の部屋でくつろぐのは無礼どころか宣戦布告とも取れる所業。僕でなかったら警察沙汰だ。その僕もこれから頼るかもしれんが、ともかくどうするかはやたらと余裕綽々な相手の出方を見てから決めてやろう。どの道すぐには脚が痛くて身動きが取れない。


「なるほど一理ある。それはまぁいい。だが問題は、なぜ僕の部屋に見ず知らずの人間がくつろいでいるのかというところだ。その佇まいからして物盗りでも、部屋を間違えたわけでもあるまい」


 美顔はよくぞ聞いてくれたという風に膝を叩いて明るい笑顔を浮かべた。見惚れるような柔らかさに妬みの炎が燃え上がるが、直後。奴の口から吐かれた言葉により、そんなものはすっかり鎮火してしまった。


「よく聞け愚弟。私は貴様の姉に当たる人間だ」


 訳の分からぬ事を言い出した。僕に男装趣味の姉がいるなど初耳である。


「はいそうですか。と、信じるにはいささか無理があるだろう。真実であればそれを証明するものを用意してもらいたい」


 さてどう出るかと思えば「いいだろう」といって端に置かれた鞄からなにやらごちゃごちゃと出し始めた。なになに。戸籍謄本。住民票。国際免許証。保険証……


「分かっただろう。私は幼い頃英国に隠された沢田家の長姉。偉大なる母と父の子であり貴様の姉である。そして私を人は呼ぶ。レディジェントルと! 」


 頭痛だ。アキレス腱の痛みが消えたというのに頭が痛くなってきた。次から次へと妙なことに巻き込まれる。

 提示された資料は本物とみて間違いないだろう。細かなところを確認しても不自然な箇所はなかったし、仮に偽造だとしても騙すなら枝分かれしている親族を狙うだろう。宗家を騙すなどそう簡単な事ではない。


「まぁ、貴女が姉というのは認めよう。しかしなぜイギリスに隠されていたのにも関わらず、今再び日本の地を踏んだのか。これが分からない」


「ふむ。それはそうだ。それではまず、私の事を話してやろう。私の存在を知るのは父様と母様。それと二卵性の双子である兄の三人。他は近しい親族であってもその存在を知られてはいない。いや、知られてはいけなかったと言うのが正しいか。本来私は影となりて表舞台に出てこないはずの人間であった。それが引っ張り出されたのは、兄が出奔した事に関係があるのだ」


 なんとなくであるが事情は察した。金と権力のある家とは、全く面倒なことよな。


「なるほど。つまりは兄の代役だと……次期家長候補筆頭に何かあればその代わりを務める人間であるということだな」


 姉は「その通りだ」と軽くうなづく。


「無能とは聞いていたが存外察しがいいじゃないか。それにはっきりと物を言う。気に入った。母様から聞いた通り惰弱軟弱脆弱ではありそうだが、気心は悪くないぞ」


 好き放題言ってくれる。少しは褒めると言う事を覚えて欲しい。しかしなるほど。兄が言っていたのこの事であったか。


「あの男に昔言ったことがある。影ではなく、陽の光に当たり家族として向かい入れられたいと。当時の私は幼く半分やっかみであったが奴は、本気であればその願いを叶えてやる。しかし、待っているのは並の試練ではないぞ。と言った。そして一年前に会った時に気持ちは当時のままかと聞かれてな。私は無論変わりないと言ったらこうなったわけだ。奴は約束を果たしてくれたのだ。この大恩。家長となり返さねばならぬ。悪いが、家督争いで貴様に負ける気は無い。その辺りは姉弟とはいえ容赦はしないから覚悟しておくように」


 なにやらライバル心を燃やされている。冗談ではない。それこそ僕にそんなつもりはないと何故母は伝えなかったのか……さては陰口を叩くのに夢中で肝心な部分を忘れたな?  まったく。らしくもない。

 仕方がないので代わりに僕がその旨を伝えると、姉は「不甲斐ない」と呆れたように肩を落とすのであった。跡目がほぼ確実だと分かったというのにその反応はなんだ。


「ところで、今日は挨拶に来たのか?」


 そう。彼女の正体が判明したのはいいのだが、なぜ僕の部屋にいるのかという疑問が残る。会食の時のように家に集まればいいではないか。実に不合理である。そんな僕の質問に対し、姉は澄ました顔をして答えた。


「貴様も知っているとは思うが我が家系の習わしとして、学舎を出たら自立せよというものがある。本来であれば私も例に違わず日本へ来た瞬間から己一つで生きてゆかねばならぬのだがそこは母の愛。一年後には家の仕事を覚えてもらうが、それまでは愚弟を頼り日本の生活を学べと仰られたのだ。すまないが、しばし食住その他諸々の世話を頼みたい」


 勝手な事を言う。そもそも金がないぞ僕は。頼られても困る。しかしながら血の繋がった姉。出て行けというのは忍びなく、母の言葉も無視できぬ。ここは承知して、その代わりの条件をつけるか。


「あい分かった委細承知。名も顔も知らなかったとはいえ血を分けた姉弟。路頭に迷わす分けにはいかぬだろう」


「そうであろう?」


 居候になる人間が踏ん反り返るな。立場を弁えろというに。


「しかしこう見えて僕は甲斐性なし……」


「それは知っている。女が買えず手淫に耽っているそうだな」


 本当に余計なことばかり伝えているようだな!


「……それ故なるべく早く仕事を見つけ、部屋代を少額でもいいから払う約束をして欲しいのだが、どうだろうか」


「なんだ。そんな事は元より承知。私も金なしにたかるのは気が引けるからな。既に目処はつけてある。心配するな。それと、盗撮や下着の拝借くらいなら許してやろう。存分に姉を使うがいい」


 ……どいつもこいつも失礼千万である。このままではいつか三こすり半男と名が広がってしまいそうだ。そうなると憤死しかねない。


「まぁともかく。僕も仕事とは別にアルバイトをして忙しくしている。そちらも精進してくれ」


「貴様に言われるまでもない。任せておけ。ところで、せっかくの姉弟初対面。盃を交わしたいと思うのだが、さすがに酒くらいは置いてあろうな」


 図々しい事だが、まぁいいだろう。僕も血の繋がりがあるのであれば邪険にする気はない。ここは一つ。とっておきを……


「どうした?」


「いや、何でもない。しばし待て」


 封を開けていなかったはずの酒が一杯分しかない。理由はすぐに分かった。森泉が家に泊まった日。僕が万古蘭を迎えに行った際に目ざとく見つけて飲んだに違いなかった。冷凍庫に入れた安いバーボンには目もくれずにこっちを飲んだか。おのれ。この借りは店でたっぷり返してもらおう。


「まだか?」


「すぐだ」


 僕は「これだけしかないが許せ」と仕方なく姉に高い酒を渡した。


「何気にするな。しかしロイヤルハウスホールドか。いい酒だ。しかも冠付きとは気が効くな」


 喜んでいただき何よりである。惜しくは思うが遥々イギリスからきた客人だ。初日くらいは、気分良く眠ってもらおう。


「では、これから世話になるぞ弟よ」


 屈託のない姉の笑顔は美しかったが、僕はこれから先が不安でしょうがなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます