家族珍八景 後

 気がつくと布団に寝かせられていた。月並みな皮肉を述べるとしたら見知っている天井である。身体は痛み軋む。古今東西あまねく技を使われたのだから無理もない。しかし、派手にやってくれたものだ。


 時間は一時を少し回った程度。よく寝た。普段の睡眠時間より長いくらいだ。打撲や裂傷こそあれ気力体力共に充分。憂は一切なし。飲み足らぬ。

 僕は抜き足差し足で食堂に向かった。普段は見る事もない高級酒を頂くためだ。こればかりを楽しみに来たのにほろ酔いもできぬままとは我慢ならぬ。飲まね帰るわけにはいかない。


 食堂の扉を開けると料理は残ったままだった。母がものぐさとは珍しい。僕は皿に乗ったままの肉をつまみ食いして一直線。数本のブランデーが仕舞われた棚へと歩を進めた。暗くてよく見えなかったが普段飲む酒より全て等しく桁が違うだろう。実に楽しみである。


 到着。手を伸ばし一本取り出す。硝子の栓を抜くと百の果物が程よく熟れたような、かといって決して雑がなく美しく纏まりのある芳香が漂ってきた。うむ。香りだけで値千金。一飲の価値あり。いよいよもってやって来たるは至極の時間。僕は適当にグラスを掴んで酒瓶をゆるりと傾けた。その刹那。背後からの「不埒!」という声に身体固まる。澄み渡る扁桃色が流水する直前の出来事である。あと一歩のところでと憎々しく声の方を向くと、そこに立つのは意地悪い笑顔を浮かべた兄だった。


「まさか我が弟が酒泥棒とはな。これは是非に母上へと言いつけねばなるまい」


 軽い口調で恐ろしいことを言う。冗談にしても質が悪い。


「そうなるといよいよもってして腹を切らねばなりませぬが、その遠因となった兄上は弟殺しの汚名を被ることとなりますね」


「なんと。それはいかんな。では示談といこうか。ここでは場所が悪い。しばし付き合え」


 兄は背を向け進んでいく。何も考えずに僕はそれについて行く。しかし妙であった。会話がないのだ。喋るのを躊躇う空気が流れているのである。つい先ほどまで冗談を言い合っていたというのに、おかしなものだ。兄はやや物事を斜に構えて見る傾向がある為、こうした圧があるのは珍しい。何かあるのだろうか。


 無言のまま廊下を進んで階段を上って行き、たどり着いたのは屋上であった。風強く雲が流れ星はない。目下に見える光は街明かり。電光の粒が煌めき、人々から夜の闇を奪っている。


「今夜は冷えますな」


 兄は変わらず口を閉じたまま。しかし時々漏れる音の混じった息遣いが聞こえる。無視ではなく、言葉を出しかねているのだろう。しかし強い風が一度吹くと、決意を固めたような声を僕に向けて発したのであった。


「……弟よ。俺はこのまま院を出たら、直ぐに父の跡を継ぐ準備をせねばならぬのだろうな」


「それはもう。他に誰がいましょうか」


 もちろん僕はお断りだ。断固拒否である。母も許可せぬだろう。


「継げと言われれば継ごう。元より我が身はその為にある。是非もなく家の為。そこに一片の曇りなし。しかしな。俺には未だ見ていない世界がある。聞いていない言葉がある。知らない知識が、知るべき知識がごまんとあるのだ。それらを得ずして跡目を継ぐなど、到底できるはずもない。未だ未熟な俺は、世界中を見て見識を広めたいのだ。後を継ぐかどうかは、それが終えてからにしたい」


「仰っている意味はよく分かりますが、兄上程の男であるならば、両立も……」


「できぬ」


 兄ははっきりと無理だと言った。かつて聞いたことのない不可能という意思表示。万事を万全に対処してきた人間の口から初めて出た観念の言に僕は五体を失ったような衝撃と消失感を覚えた。


「し、しからば、いかように為さるおつもりで……」


「うむ。しかと聞け弟よ」


 固唾を飲み兄の二の句を待つ。内容によっては聞いた僕にも責が及ぶかもしれない。恐ろしい。恐ろしいが、それでも僕は、尊敬する兄の言葉を、その策を知りたいと思った。


「……逃げる」


 静寂に響く一言。それは思いも寄らないものであった。逃げるだと?  馬鹿な!  そんな事になったら勘当される事間違いなし!  何が継げと言われれば継ぐだ。一度消えた人間にあの両親がそんな事を言うわけないではないか!


「考え直していただけませんか!  そんな事をしようものなら父母ともに怒りで鬼へと変わりましょう!  そうなると僕もただでは済みませぬ!」


 我ながら実に情けなく思うが必死にもなろう。もし兄が消えたとなれば僕が時期家長として神輿に上げられるかもしれぬのだ。あの苛烈な父と棘だらけの母に着いて日夜気の休まらぬ毎日を過ごすなどできようはずがない。


「それについては大変可哀想に思うが、まぁ、慣れるだろう。お前なら大丈夫だ。頑張れ」


「無理でございます無理でございます!  後生ですからどうか果たすべく自らのお役目を〜〜〜〜」


「くどい!  意志は変わらぬ!  己も腹を決めろ!」


 しがみつく私を必死で引き剥がそうとする兄。二十歳を超えてかような兄弟喧嘩を演出するとは思わなかった。しかしこちらも必死にならざるを得ない。靴を舐めろと言われれば舐めよう。泥をすすれと言われればすすろう。しかし此度の兄の血迷いは決して見過ごせぬ。父も母も知らぬ今が好機。何でもして、是が非でも思いとどまっていただかなければ僕の未来が……


「その通り。あなたも腹を決めなさい」


 一番聞きたくない声が突然降って湧いてきた。影から幽霊のように現れたのは、髪を下ろした母であった。肩の下まで伸びた黒い長髪のせいで妖怪が如く不気味である。いかん。兄に発言の責が及ぶ。


「長兄かつ時期家長である貴方が何を馬鹿な事を言っているのですか。外遊ならいくらでも都合をつけしょう。先の発言は全て聞かなかった事にしますから、二度と馬鹿な考えは起こさぬとここで母に誓いなさい」


 なんという慈愛。ありがたいお言葉ではないか。さぁ早く誓ってしまえ。


「嫌でございます」


 ふざけるなよ!  断るとは思ってはいたがせめて悩め。なぜ即答するのだ。これでは母の面目が丸潰れではないか。


「よく聞こえませんでした。今夜は風が強いですからね。さぁ、もう一度。母に向かって誓うと言うのです。風に負けぬよう大きな声で」


 しかし母はまるで意に介していないように兄を自分に従わせようとした。強かである。これはどう出るか見ものだ。


「嫌でございます。私は、自身の力で生きていきたいと思います」


 ど真ん中に直球ストレート。成る程意地を通すか。さすが我が兄。しかし少しは僕のことも考えてほしい。この場に立っているだけで一生分のストレスが生み出されている。このままでは死にかねない。

 そして、母の寛容も三度目はない事を確信した。鉄面皮に青筋の亀裂が入ったのが見えたからである。怒りで言葉を失っているようだが凄まじい形相だ。このような顔は僕でも今日まで見たことがなかった。


「母上。俺は後ろ盾なしに世界を回り現地を見聞したいのです。己一つで観て聴いて、自身を磨きたいのです。どうか、ご理解を……」


「そのような事許せるわけがないでしょう!」


 雷よりも激しい怒号と共に母は兄に詰め寄り、めったやたらに平手を浴びせた。あの母が冷静さを欠いている。怒ることはあっても我を忘れて激昂する事は決してなかったのだが、いやまったく凄まじい。


「貴方は来年には父様の後ろについて回り仕事を知るのです。其れが定めでありましょう。それが言うに事欠いて己一人で世界を回りたい?  勝手が過ぎます!  戯事も大概にしなさい! 」


「帰ってきたら家督を継ぎます」


「いつ帰ってくるかも分からぬ人間を待てと!?  それも重責から逃げ出した臆病者を!」


「逃げるわけではございません母上。これは、この夢は、母上と父上が与えてくださったものなのです」


 兄の言葉に黙る母。僕は完全に蚊帳の外である。ともあれ何としてでも母に兄を説得して頂きたいのであるが、果たしと兄の話とはいかようなものか。聞くしかあるまい。


「昔、母上に寝物語に聞かされた話です。父と万国を回り、数々の武勇を上げた話……幼少の頃より夢として描いておりました。私も父のように世を渡り、得難きを得る為の旅路へ出たいと。今までも知らぬ国を訪れた事がありましたが全てはお遊び。真の旅とは言えません。身の保証のない闊歩こそ本望。男として、俺は自身を試してみたく思うのです」


 素晴らしいの一言に尽きる。僕とは観ている世界がまるでまったく違うではないか。格の違いを見せつけられたわ。我が兄ながらあっぱれである。だがだからといって僕を見殺しにするのは筋違い。せめて子供でもいるのであれば、まだ希望が持てたのだが兄は独身だ。ちなみに僕はその寝物語とやらを聞いた事がない。


「……貴方の覚悟は分かりました。本当に後悔はないのですね」


 最終確認であるが、兄が「ありません」と言うのは想像するに難しくなく、また実際にそういった。母は溜息を吐いた。


「分かりました。そこまで言うのであれば貴方の旅立ちを許しましょう」


「……勘当ですか?」


「いえ。どこで果てるか分からぬ身となる故そこまでは致しません。亡骸の供養くらいはして上げます。また、無事生きて帰ったら、母は貴方を許しましょう」


「誠でございますか!」


 思ってもみなかった母の言葉に思わず叫びを上げた。これで家長などにならなくとも済むかもしれぬと期待が持てた。が、母はそんな私をひと睨みして「しかし」と付け加えたのであった。


「根を上げて帰って来ようものなら、この母が直々に引導を渡します。また、成したいことを成し帰郷したとしても、貴方に家長を任せるとは限らないと覚えておきなさい」


 ぬかよろこびであった。これから僕は、家長候補筆頭として生きていかねばならぬかもしれないのか……


「元よりそのつもりでございます。それでは、旅立ちの準備を致しますのでしばらくの別れをお許しください」


「早う去りなさい」


「それでは、どうか息災でおられますよう……」


 兄は去っていった。足音が遠ざかるのに反比例して、僕のカタストロフが近づいて来ているように思える。悲哀。


 絶望にくれる僕の横に母がやって来たと思ったら突然平手打ちをくらった。


「なぜ追いかけないのですか!  実の兄と今生の別れになるかも知れないのですよ!  貴方には情というものがないのですか!」


 まったくの理不尽と不条理であったが逆らう事はできなかった。「はい!」と言ったつもりであったが裏返った声は涙に濡れて自分でも酷く情けない風に聞こえた。


「お待ちなさい」


 去り際に母が僕を引き留める。その表情からは既に怒気が消えていた。


「はぁ。何か」


「ないとは思いますが、もしあの子が全てを投げ出して貴方を頼ってきたのなら、その時は面倒を見て上げなさい」


「はい。分かりました。お任せ下さい」




 母が頷くのを確認してから、僕は走って兄を追った。人気のない路頭で一人空を見ている。つられて見てみると雲が流れ切って、いつのまにか満月が現れていた。


「母上に言われて来たのか」


 僕に気がついたのか、兄がそう言った。


「どうですかね。ともかく。見送ります」


「……お前には悪い事をしたが、何。母上も父上も快い方達だ。すぐに忘れて、いつも通りになるさ」


 それはいいのだが問題は家督の事である。僕はまるで自信がなくできるわけがないと兄に言うと、「それなら大丈夫だ」と口を開いた。


「家督についてはどうとでもなる。まぁ、どうなるかは程なく分かるだろう。心配する必要はないよ。そもそも、お前がそんな目に遭うと分かっていながら、俺がこんな真似をするわけないだろう」


 さすが兄だ。僕は信じていた。いやはやそりゃそうだ。そうに決まっているではないか。兄が身勝手に逃げ僕に全てを押し付けることなどするわけないではないか。まったくまったく愉快愉快。


「兄上。この時間に開いている店を知っています故、僕の奢りでしばしの別れを惜しみましょう」


 それで許して下さいと、そっと呟き僕らは酒を飲み交わした。次会う時は、もう少し心大きくなっている事を自身に対し言葉なく誓って……

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