家族珍八景 前

 葬式以外で跨ぐ事はないであろう思っていた実家の敷居。それがこんな形で、こんなにも早く反するとは。不本意な事この上なし。


 発端は一週間前。ババアの店で仕事を終え、我が愛機である轟雷号にて万古蘭を家まで送っていった直後の出来事である。(いつの間にやらそういう決まりができていた)

 彼女が玄関に吸い込まれていくのを見届け、サドルに腰掛けペダルを踏んだ瞬間にスマートフォンの着信音が鳴った。幸先悪く出たくなかったが、経験上嫌なタイミングで起こる出来事ほど無視できぬ案件である可能性が高い事を僕は知っている。仕方なしに轟雷号から降りスマートフォンを見ると母からであった。ほら見たことかと深くため息を吐き、覚悟を決めて応対したのであった。


「かねてより計画していた食事会の日取りが決まりました。空けておくように」


 以前母がババアの店で言っていた催しである。まさか本当に開くとは思わなかった。「分かりました」と端的かつ明瞭に応えはしたが、気が重かった。その日から食欲は減退。体重が二キロ落ちた。


 そんなわけで、見たくもなかった懐かしき我が実家へとやって来たわけである。相変わらず無駄に広い。眺めるだけで疲れてしまい落ち着かぬ。

 玄関に入ると待っていた使用人に連れられて客間に通された。自分の家なのだ。言えば分かるというのに。まったく難儀なものよ。


 襖を開けると兄が既に到着していた。胡座を組み、座ったまま「久しぶりじゃないか」と僕に話し掛ける。後ろめたさから目を逸らし、僕も同じく挨拶を返すのであった。


「お久しぶりです兄上。御壮健そうでなによりでございます」


 兄の隣に座り頭を下げる。久方ぶりの兄弟の顔ではあるが、直視するのは憚られた。


「おいおい畏まり過ぎだろう」


「いえ。私はずっと兄上に謝りとう思っていました。されど合わせる顔がなく、卑劣にも避けていたことをここに告白致します。私が不甲斐ないばかりに兄上が仕置きされた事。今でもこの愚弟、慚愧の念が拭えませぬ!」


「まだそんな事を気にしていたのかお前。もう何年も前の話だし。そもそもが俺の失態だ。お前が気に留める必要なし。早く忘れろ」


 そうはいうが、僕が優秀な兄に一つの汚点を付けてしまったのを忘れる事ができない。

 それは中学の時である。僕達は母からそれぞれに使命が与えられた。僕には母の指定した高校を受験し、それに合格する事。兄には僕に勉学を教え、受験に合格させる事。というものであった。





 僕の学力は下の中。母が行けと言った学校には到底及ばぬ成績である。塾に出しても家庭教師を呼んでも一向に良くならぬ頭のできに、母はたいそう嘆いていた。

 そこで文武両道難なくこなし、次期家長である兄に白羽の矢が立ったわけである。兄弟であるのだからお互いがお互いの為に命を張り、無理難題をも突破するであろうというのが母の目論見であった。

 しかし完全無欠かと思われた兄にも唯一の欠点があったのである。それは、人にものを教える事が恐ろしく下手というものであった。母は中々結果が出ぬのは僕の無能からであると思っていたのでそれに気付くのが遅れた。急遽別案を講じる頃には時すでに遅し。残念無念に僕は志望が通らず、二人とも使命を果たせなかった。


 そうしてこれにより兄は仕置き。僕は全寮制の学校へ入学する羽目となったわけである。僕はこれを大いに悔やみ嘆いた。志望校に落ちた事ではない。兄が仕置きされた事にである。


 兄はそれまで叱責さえ受けた経験がなかった。やれと言われれば想定よりも遥か上の結果を出し、自ら率先して動けば万事抜かりなく事を成すに至る。そんな兄が僕の誇りであり目標でもあったわけだが、僕自身がその兄の華麗なる人生に一抹の影を落としてしまったのである。これを恥じずして何を恥じようか。合わせる顔などあるはずがない。





 あっけらかんと笑う兄に対し僕が「しかし」と食い下がろうとすると閉じた襖がまた開き、「その通りですよ」との声が響いた。母であった。


「あれは長兄が仕置きを受け末弟が一時放逐されて始末がついた。それで終い。既に落着した事案です。いつまでも昔の話を持ち出すものではありませんよ」


 僕達は並んで頭を下げた。こうして兄弟揃って平伏するのも何やら懐かしい。

 母が良いと言ったところで面をあげ、横を向いて笑い合う。その時ようやく僕は兄の目を見ることができたのであった。


「母上の言う通りだ。もうあれは終わった事。いつまでも気に病まれては逆に迷惑なのだから、さっさと忘れてしまえ」


「貴方は昔から阿保なのにあれこれ考える悪癖があります。馬鹿の考え休むに似たり。そろそろそれを分かりなさい」


 散々な言われようである。しかしまぁ、それもよかろう。詫びようがなく忘れ得ぬ事ではあるが、兄が気にするなと言ったのだ。もはやこれまで。これ以上は詮無い。


「無駄話はここまで。食事の準備ができています。二人とも食堂に来るように」


 「はい」返事を述べ、母が部屋を出て程なくして僕達も客間を後にした。廊下を渡っているとすれ違う度に使用人が頭を下げてくるのが煩わしかった。兄にしておいてなんだが、畏まられるのはどうも苦手だ。あちらもら仕事なのだから仕方がないとはいえ、どうにも堅苦しく窮屈に感じる。


「相変わらず慣れんようだな」


 兄が笑いながらそんな事を言った。


「はい。息が詰まりそうです」


「そうだな。しかし俺はお前が出て行ってからもこの空気に曝されてきたんだ。それは大いに同情してくれ」


「兄上は、次期当主であられますから、致し方ありますまい」


 冗談のつもりであったが兄は真面目な顔をして「そうだな」と呟いたきりであった。僕は失言を恥、続く沈黙を罰だと思って食堂までの道を歩んだ。





 食堂に入ると既に母が待っていた。

 円形の卓に並べられた料理の絢爛さたるや筆舌に尽くしがたい。見ようによっては悪趣味とも思える彩りは輝きを放ち、普段質素な食事をしている僕の目にはしばらくそれらが食べ物だと認識できなかった。


「さすが母上。縒りをかければ特級厨師の腕前ですな」


 兄がそう言うまで僕はこの料理を母が作ったものだと分からなかった。それをどういうわけか一発で看破したのはさすがという他ない。


「食べてもいないのに何を仰いますやら。しばらく厨からは離れていた為、味の保証はできかねますよ」


「いいえ私には分かります。色艶香り。どれを取ってもまさしく逸品。これで不味いと感じるのであれば、それは舌が腐っているのでしょう」


「まったく。男子がそのように口を上手くするものではありません」


 母は嬉しそうであった。僕にはおべんちゃらを控えろと言ったくせに兄はいいのか。理不尽なものだ。

 

「お父様はじきお見えになりますが、こんな風に立っているのも返って失礼。座って待ちましょう。それまで、貴方のお見合い話でも聞いてあげましょうか」


「なんだお前。俺より先に結婚する気なのか。まったく。兄を敬う気持ちが足りんな」


 椅子に座ると二人が好奇の目で僕を見つめる。とんだ事態となった。食事時にするような話ではないぞ。それに母に知られたら間違いなく逆鱗に触れる粗相もしている。脚色は通じぬし不安要素を除けば秒で終わる。まさかこんなところで絶対絶命の窮地に立たされるとは……かくなる上は最終手段。天に召します我らが南無八幡大菩薩。どうかこの哀れな僕を救いたまえ!


 扉が開く。願いが通った!


「応!  只今参上仕った!」


 なんということか。確かに妙な話をせずには済んだが、代わりに別の窮地がやって来た。現れたのは二メートルを越す巨漢。隆起する筋肉はスーツの上からでもその圧倒的存在感を放っている。太陽のような笑み。腹の底から出される声。まさに絵に描いたような益荒男である。そう。この強烈な怪物こそが……


「久しぶりではないか我が息子たち!」


 僕の父であった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます