母 前

 五分経つ。未だに着信は消えない。

 まるでアポカリプティックサウンドだ。世界滅亡を引き起こす七つ目のラッパが鳴る前に止めねばならぬだろう。神よ。僕を救いたまえ。


「もしもし」


「もしもしじゃありませんよ貴方。どうしてすぐにお出にならないんですか?」


「あいにくと就寝中でして……」


「……もう一度聞きます。なぜすぐにお出にならなかったんですか?」


 露見している。隠し立てはできない。母は昔からよく僕の嘘を見破っては容赦ない折檻を与えてきた。半端ないのだ。本気で半端ないのである。久方ぶりのこの恐怖。脂汗と胃の痛みがたちどころに押し寄せ、内に眠る野生が逃亡か服従かの二択を迫る。


「申し訳ありません。本日私めは疲労困憊にてそろそろ眠りに就こうかと思っていたのですが、そこに突然の着信。ものぐさ故無視を決め込もうとしたところ中々鳴り止まず。これは火急の用事に違いないと思いスマートフォンを取ったところ、母上からのお電話だと気付いた次第でございます」


 しかし僕はそこまで馬鹿でもないし気骨なしでもない。逃げても逃げきれぬし、一から十まで従いっぱなしというのも癪に触る。そこでここは嘘は言わず、かといって本当の事も述べないという論弁の高等技術を用いて母を煙に巻くことにした。これぞ言い訳の完成形。非の打ち所がない絶妙な曖昧さ加減である。どうだ恐れ入ったか。僕とていつまでも子供ではないのだぞ。


「分かりましたいいでしょう。ですが、これから母が行くのですから、お茶くらいは出してくれるのでしょうね?」


「は?」


 電話は一方的に切れ数秒。玄関の開く音。軽やかな足音が近づいて来る。まずい。なぜだ。何の用だ。いかん考えている暇はない。ともかく僕は急いで万年床に潜った。敷きっぱなしの布団にこうまで感謝した日はないだろう。危うく母に息子を見られるところであった。まったく丸見え危機一髪である。


「これから行くと言ったのに、まるでもてなす気がないようですね」


 紙一重の差で母が入ってきた。黒のビジネススーツには皺一つなく、厚塗りの化粧が威厳と威圧感を醸し出している。僕を見下す目元は冷ややかで、視線を合わせば背筋が凍りそうだ。実の母だというのにまるで慣れない。時たまこの人は改心しなかった鬼子母神で、僕は攫われた子供なのではと思う事がある。


「い、今から準備いたしますので、どうかお座りになってください。汚い部屋ですが……」


 布団の中でズボンは履いた。万事解決である。


「電気がついているようですけれど、貴方、このまま寝るおつもりだったんですか?」


 舌打ちをしたい衝動を必死にこらえ、「疲れておりましたので!」と無理やりな理由をつけて僕は布団から飛び起きキッチンへと小走りで向かい、カウンター越しにバレぬよう溜息をついた。幾許かの安堵。しかし駆けて行く際に感じた母上の妙な視線が気になる。なぜだかぼくの下腹部を凝視し……


 Open the window.下着を履き忘れ、無防備になっていた息子がチャックの隙間からご挨拶。感動の親子対面である。帰って早々菊の様子など見ず、まず部屋着に着替えておくべきであった。チラリと横眼で母を見ると、しずと正座しどこかを見ていた。まぁ息子の息子(孫ではないが)だ。動じる事もないだろう。ともかく僕はチャックを閉めて、こんな時にしか出さないそれなりの茶葉を使って茶を淹れた。可能であれば金を取りたいくらいだ。




「粗茶ですが」


 何が粗茶か。福寿園だぞ。そんな文句を心の隅で呟きながら茶を出す。母はそれをズズと飲むと一息ついたきり、無言。恐ろしい。


「あの、本日はどういったご用件で?」


「母親が理由なしに息子の顔を見にきてはいけないと?」


 確かに息子は見せたがあなたには会いたくなかったと萎んでいる。ふざけた話だ。普段はろくに連絡もせぬくせに。いや、しょっちゅう来られても困るのだが。


「いえ、このような時間に来られましたので、何か急なことでもあったのかと愚考した次第でございます。申し訳ありません」


「いいでしょう。確かに稀な事ですから、その点は私にも不備がございました。許します。何のことはありませんよ。近くを通りかかったものですから寄ったのです。たまにはこうして会いませんと、貴方に顔を忘れられてしまいそうですからね」


 死に際まであなたの顔は忘れませんよ。冗談半分でそう言おうと思ったがまだまだ命は惜しい。仕方がないので愛想笑いをしてコーヒーを飲む。ちなみに僕のマグカップに入っているのはインスタントコーヒーだ。母が飲んでいる茶の値段は、このインスタントコーヒーの丁度十倍である。


「その、母上とお会いできて大変嬉しく思います。積もる話もあるのですが、なにぶん明日は仕事がございまして……」


「おや、休日出勤ですか?」


「いえ、アルバイトでございます」


「ほぉ……今の職では金が足りませんか」


「そうではなく、遊ぶ金が不足しておりまして……私も男の端くれ。飲む打つ買うのタネ銭くらいは出し惜しみしない気前を持ちたいと思い、副業を始めたわけでございます」


 嘘は言っていない。ここまではセーフ。まったく、心臓に悪い。これが親子間の会話だろうか。幼少の頃、テレビで流れるアットホームドラマを観て何度羨んだか知れない。しかしそれも昔のこと。人生とは与えられた条件で勝負しなければならないのである。今更自身の生まれを哀れんだところで仕方がない。今できる最善の行動は、この突然現れたカーリー女神のような存在にお帰り頂く事である。幸いな事に母上は勤労を良しとする。仕事があると言えば、たとえ非正規だとしても文句は言うまい。


「それは興味深い。して、どこでアルバイトをしているのですか?」


 嫌な予感がする。


「中華料理屋でございます」


「何を間抜けた事を言っているのです?  分かりませんか?  母は場所を聞いているのです」


 母の目から笑みが消える。蛇に睨まれた蛙が如く僕は震え上がった。


「恐れ多くも母上。お教えするのはやぶさかではありませんが、お聞きになっていかがするおつもりでしょうか」


「貴方が労働に勤しむ様を見るに決まっているではありませんか」


 アルバイトの話をした事が裏目となった。完全に墓穴だ。策士策に溺れるとはこの事か。下手な考え休むに似たり。素直に話を合わせて適当に去ってもらうのが正解であった。


「早う言いなさい。それともよもや、貴方は母が来るのを嫌だと申しますか」


 そんなもの嫌に決まっていよう。子供ではないのだ。職場に親が来るなどなんの辱めであるか。包羞忍恥にも限度がある。しかも店にはあの半妖怪のババアがいるのだ。顔を合わせた途端に般若対古庫裏婆の妖怪大戦争が勃発する事請け合いだ。


「いえ滅相もございません!  母上にご照見頂きまするは光栄の極み。至らぬ私の働きも不が可となり否が賛となりましょう。しかしながら母上。母上を招くには私の働き所は些か環境が悪うございます。衛生観念は劣悪。来客の殆どが礼を知らぬ異邦人。客席は狭く窮屈で座り難い事この上なし。おまけに立地は裏路地で危険でございます。とてもじゃありませんが、母上をあのような場所に……」


「お黙りなさい!」


「ヒャア!」


「先ほどから聞いていればグダグダと。それでも男ですか。恥を知りなさい!」


 黙れと言われたら黙るしかない。いつぶりの怒号だろうか。肝が潰れる。思わず訳の分からぬ声を出してしまった。


「何を黙っているのですか!  私が行っていいのか悪いのか答えなさい!」


 黙れといったのはあなたでしょうとも言えず、強烈な重圧で押し潰されそうになる。凄まじい怒気だ。この感覚を、僕は久しく忘れていた。あぁ恐ろしい恐ろしい……


「ご……」


「ご?」


「ご来店、お待ちしております……」


「よろしい。後で場所を私の携帯電話に送っておくように」


「はい……」


「それでは今夜は帰ります。貴方も夜更かしはここまでにして、明日の仕事に差し支えぬよう早く眠りなさい」


「分かりました……」


 ストンと音を立てて湯飲みが置かれ母が立ち上がった。やれやれようやく解放される。そう思うと、肩の力が抜けると同時に、忘れていた肛門の痛みが再発し痒みを伴った。母の歩は遅い。は、早く行け!


「あぁ、それと」


「何でしょうか!」


 此の期に及んでまだ何かあるのかふざけるな!


「年頃です。肉欲が出るのも仕方ないでしょう。ですが、幾ら困窮しているとはいえ自慰は程々にしておきなさい。何も得るものがありませんからね。貴方もいい大人なのですから、良き相手か、いないのであれば娼婦を買いなさい。女遊びは男の誉れ。肌を重ねる毎に良き糧。良き経験となりましょう」


「はい。今後からは、そのように致します……」


「よろしい。それではまた明日」


「はい。どうぞご壮健で……」


 母の姿が見えなくなった。尻の痒みも消えてしまった。自慰をしていたと思われたか。これは屈辱。しかし、菊の花を散らした事が知られぬだけましであったか……

 何やら色々と失ってしまったような気持ちになり、もはや僕には睡眠以外の選択肢が浮かばなかった。布団も被らず電気をつけたままその場に倒れ込み、明日の事を考えぬよう森泉の事を想いながら夢の中へと入っていったのであった。

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