第46話 おぼろげなる事実
冷たい洞窟の中に、地面を掻く爪の音が響く。
長い鼻と口から吐く息が白く、長い毛並みに覆われていなければもしかしたら凍えていたかもしれない。
『……』
銀狼のやや鋭い目が、氷に覆われて眠るアレアをじっと見据えていた。
静かに眠る氷像、と例えるのが良いだろうか。綺麗なままで眠る彼女の姿は、とても儚く見える。
しばし入り口付近に立ち止まり、そんな彼女を見つめていた銀狼は、ピクリと耳を動かすとゆっくりと身体を動かして彼女に近づいた。そして前足を石台の上に掛け、そっと覗き込むように鼻先を彼女の顔の近くまで持っていく。
『……そうか。分かった』
銀狼は小さく呟くと、足を下ろしクルリと踵を返して洞窟を後にした。
*****
チリーン……と、どこからともなく鈴の音が聞こえる。
「セトンヌ?」
部屋にいたマーナリアが、ふと顔を上げ辺りを見回すが特別何もないように思える。だが、胸にせまるざわめきがやたらと不安を掻き立てた。
マーナリアは部屋を出てエレニアのいる王の間へと向かった。
王の間にいるエレニアはグルータスと共に今後の事について話をしながら、セトンヌからの報告を待っており、突然やってきたマーナリアを見て驚いたように目を瞬いた。
「マリア。どうしたのだ?」
「マーナリア様。顔色が悪うございますぞ。お具合が悪いのでは?」
「い、いえ。ただ、少し胸騒ぎがするものですから……。何か情報が入ったのではと思って来ました」
そう言った時、兵士が一人、王の間へとやってくる。
「エレニア様」
彼の姿を見た瞬間、エレニアとグルータスは期待に満ちた目をし、マーナリアは不安げな目を向けた。そんな三人からの視線を受けて、兵士は僅かにたじろぐ。
「セトンヌから何か知らせは入ったか?」
やや身を乗り出し、エレニアはやや興奮気味にそう訊ね返すと、兵士はゆるやかに首を横に振った。
「いえ、まだ連絡はございません。ただ、別件で、以前から追っていた強盗犯を捕らえました」
「あぁ、ここ何年も警備の目を掻い潜ってきた犯人をようやく捕まえたのか」
グルータスが感心したように呟くと、兵士は軽く頭を下げた。
「罪人は現在牢屋へ入れております。セトンヌ様が不在の為、尋問はいかがなさいますか?」
罪人への尋問はこれまでセトンヌが一手に担ってきていたが、今彼は不在。彼が戻るまで牢獄に入れておく事も出来たが、連絡を待っている間の暇潰しにもなるとグルータスが口を開いた。
「分かった。私が執り行おう」
「了解であります」
兵士は姿勢を正して敬礼をすると、深く頭を下げてその場から去っていった。
「ではエレニア様。しばし失礼致します」
「うむ。暇を持て余しておるからな。セトンヌが戻るまでの間に、たっぷりと尋問してやるといい」
満足そうに微笑むエレニアに、グルータスは深く頭を下げるとすぐさま罪人の元へと向かう。
そんな彼を見送るマーナリアにエレニアはいつになく優しい目を向けた。
「そう案ずるな。時期に良い知らせが入ってくる」
「……はい」
母の言葉にマーナリアはぎこちなく頷いた。それでも、胸の中を覆う不安感は拭いきれず、グルータスの立ち去った方向に目を向けた。
城の離れにある塔の地下深く。長い螺旋状の石造りの階段を下りていくと、ひんやりとした暗い地下牢が並んでいる。
ランプを手に持った兵士を先頭に、地下牢へとやってきたグルータスは罪人のいる牢の前に来ると、中には巨大な鉄球に手足を縛られ、薄汚れた衣服を身に纏ったボサボサ頭の中年男性が胡坐をかいて座りこちらを睨んでいる。
「貴様か。ここ何年も強盗を繰り返していた男と言うのは」
男性は無言でグルータスを睨みつけながらも、その口元は俄かにほくそえんでいた。
「お前は強盗としてこれまで警備の目を掻い潜り続けてきたようだが……。他に余罪はないか?」
「だぁれが好き好んで答えるかよ」
ヘラヘラと笑いながらも、吐き捨てるようにそう呟くと男はこちらから視線をそらした。
その男の態度にグルータスが目を眇めると、ランプを手にしていた兵士が手元にある資料を読み上げる。
「彼の名はグレンデル・ヴァーン。ここ何年も窃盗、強姦、薬物、不法侵入などを繰り返しています。彼にはあらゆる異名があり、詐欺師としても有名です」
空ろに見開かれた目は、焦点が合っていない。長年剃られていない顎鬚は汚れきり、だらしなく開かれた口元からは涎が垂れ、鼻につく酷い酒の臭いが体中から漂っていて、思わず顔を顰めてしまいたくなる。
「泥酔している上に、目つきが尋常じゃないところを見ると、薬物をやっているようだな」
「はい、そのようです」
これではまともな会話が出来るはずもない。もう少し間をおいてから改めて尋問に来た方がいいかもしれない。
そう考えたグルータスが、あまりに酷い悪臭を放つグレンデルに背を向けた時、彼は檻を激しく打ち鳴らしながらうわ言のような言葉を叫びだした。
「南地区にぃ、住んでいた、あの女は最高だったなぁ~! あの女以上の女はいねぇよなぁ~!」
「……」
激しく打ち鳴らし続ける檻の音にも負けないほどでかい声で騒ぐ男の声は、非情に耳障りだった。
「……強姦してきた女の事を言っているようだな」
グルータスが煩わしい目を向けながらそう言うと、兵士も深く頷き返す。
「彼が襲った女性の数は相当です。被害届けの報告が後を絶ちません。深夜遅く目をつけた女性の家に侵入し、事に及んでいたようです」
「……同じ男として許せるものじゃないな」
話を聞いたグルータスは眉間に深い皺を刻み、不愉快極まりない顔を浮かべる。
もう一度チラリとグレンデルの方を振り返ると、彼はヘラヘラと笑いながら声を張り上げていた。
「いい女だったなぁ~最高だった! 可愛がってやったのに、あの女、俺を拒絶しやがった。……火だ。火を使った。家ごと燃やしてやった。俺は悪くない。俺を拒絶したあいつが悪いんだ!」
酔いしれるかのようにゆらゆらと身体を揺らしながら話していたかと思うと、突如として怒り狂って叫び出し、再び檻を激しく揺らし始める。
「へへへへへ……燃やした。あぁ、そうさ。あいつが燃やした。魔物だよ。あいつは魔物だ! あの魔物が俺の女を燃やしたんだ……」
「……?」
その言葉にグルータスは瞬間的に耳を疑った。
泥酔し、ましてや薬物を使っているような男の言葉など何の根拠もない物なのだが、思わず動きが止まってしまった。
グルータスはもう一度牢屋の前に戻ると、グレンデルはズルズルとその場に座り込み肩を震わせながらヘラヘラと笑っている。
「お前が、強姦した女性の家に火を放ったんだろう」
「……違うね。魔物のせいだ」
「魔物だと?」
「……あぁ、俺が火をつけた」
「どっちだ」
「誰だてめぇ……俺を殺しに来たのか? そうなんだろ? ざけんじゃねぇぞ!」
男の話は、二転三転してしまう。挙句の果てには訳の分からない事を騒ぎたて、激しく暴れ出した。
グルータスは今のままでは話にならないと、一度地下牢から出る。そして後日改めてもう一度彼から話を聞く為、それまでこのままにしておくよう兵士に申し付けたのだった。
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