何もない夏

梔子

何もない夏

 窓から見える景色は熱湯の入った水槽を連想させる。もっとも冷房の効き過ぎた部屋の中でカーディガンを羽織って授業を受けている私にはその暑さも無関係ではあるけれど……。


「次の問題。斉藤、やってみろ」


「はい」


 受験生の夏は何もない夏。


 夏は心弾む季節であるはずなのに、受験生にとって夏は試練の夏。心をときめかすイベントが起きるはずもなく、毎日塾の夏期講習に出て学校の倍のスピードで進んでいく授業内容に必死に噛り付いている。


 受験前の一年間は一生の間のほんの些細な時間だとしても、この一年間を勉強だけして過ごすのは損をしているような気分になる。十五歳の夏は今だけしかない。今、やりたい事やしたい事がいっぱいあるのに、それを全部我慢しただけの価値はあるのかどうか疑問に思う事もある。


 だからと言って受験勉強を放棄するほどの度胸も私には無かった。


 黒板に解答を書いて着席すると、まるでそれを待っていたかのように唸るような機械音が耳につく。塾講が解答を確認している間にこっそりポケットからスマホを取り出してメッセージの中身を確かめた。


『今夜、××川の花火大会行かない? 集合場所は……』


 メッセージの送信者はクラス委員長の麻美。終業式の時に麻美が中学最後の夏休みだから召集をかけるとは言っていたから、多分これがそうなのだろう。


 誘いは素直に嬉しいと思う。でも躊躇いが生じるのも事実。


 どうしようか迷っていると、すかさずスマホにメッセージが届いた。


『一日くらい勉強さぼったって平気だって』


 それもそうか……。


 塾講がこちらを振り向きそうな気配に、私は慌ててスマホを机の中へ放り込んだ。






 その日の夏期講習の授業が全て終わった後、塾生は一斉に教室から出て行く。


 学習塾の教室と言うのは学校の教室と違って愛着がない。毎回同じ教室を使用してもそこに自分の席があるわけじゃなく、授業が終われば今まで座っていた自分の席が他の誰かの席になる。


 だからかも知れない。


 学校のようにいつまでもうだうだ残る人は殆どいない。外へ向かう階段は一斉に押しかけた塾生で混雑する。


「あっ」


 階段の踊場で私ははっとして立ち止まった。


 スマホが無い。


 いつも入れているはずのポケットにスマホがない。考えてみれば授業中、塾講に見つかりそうになって慌てて机の中に放り込んだような気がする。


 迷惑そうに私を避けて階段を下りていく塾生達の波に逆らって、もう一度階段を上って教室へと向かった。






 私が教室に入るのと入れ替わるように最後の一人が教室を出て行った。


 今まで熱心に塾講に質問していたのだろう。真面目と言うか、神経質と言うか、疑問を必ずクリアにしないと帰れない人が必ずどのクラスにも一人はいる。きっと今のはその類の人だと思った。


 それはともかく急がないと本当に間に合わなくなる。


 来れる人だけで……と言う話だから、時間までに集合場所に着かなければ置いていかれてしまう。遅刻してもスマホで連絡は取れるけど、会場はおそらく人でごった返しているはずだから、会えない場合もある。


 さっきまで座っていた席の机の中からスマホを取り出すと、既に時計の表示は十七時四十分を回っている。今から自転車を飛ばせば何とか間に合うぎりぎりの時間だった。


 廊下に出ると、さっきすれ違った塾生がエレベーターに乗る姿が見えた。


 塾生はエレベーター禁止なのに……。


 ふとそんな注意が頭に浮かんだ。だけど今はそんな事を言ってはいられない。


 閉まりかけた扉の間に体を滑り込ませてほっと一息。一緒に乗り合わせた塾生の男の子が「何だ、こいつ」みたいな視線を私に向けていたけどそれは完全に無視する事にした。


 教室は五階にある。ここから階段を駆け下りていくよりはエレベーターに乗って下りた方が早いに決まっている。軽い罪悪感はあるけど急いでいる理由があるんだから、たまには大目に見てくれたって……などと必死に自分に言い訳している最中にそれは起こった。


 突然、がたんと大きくエレベーターが揺れたかと思うとそのまま下にも上にも動かなくなった。エレベーター内の照明が何度か点滅した後、完全に消え、周囲は暗闇に包まれる。同乗の男の子の姿も見えないくらいの暗闇。


 何が起こったかすぐには判らなかった。でも何か普通じゃない事だけは判る。


 暗闇の中で何かが動いた気配がして、思わず体を強張らせると小さな声が聞こえてきた。


「……通じない」


 その言葉で、同乗していた男の子が緊急の電話で管理局に連絡を取ろうとした事が判った。私もスマホを持っていた事を思い出して麻美に電話をしてみたけど、どういうわけか幾らかけてもどこにも通じない。


 つまり私とその男の子はエレベーターの中に閉じ込められてしまった上に、助けも呼べない状況に追い込まれてしまった事になる。


「どうしよう。友達と待ち合わせしてるのに……」


「停電だから、暫く待ってれば動き出すだろ」


「暫くってどのくらい?」


「知るかよ」


 停電したからエレベーターが止まった。


 そんな簡単な事でさえ、今の私には思いも寄らない事だった。


 スマホを利用出来ない現実が私には非常に重く圧し掛かり、友達に置いていかれると言う焦りからパニックを起こす寸前にある。日頃、スマホに頼り切りだった私にとってスマホのない生活は生命線を断たれたも同然。


 暗闇と静寂は私を恐怖に陥れていく。


 不意に体が震えだした。怖くて堪らない。スマホを幾ら操作しても誰とも連絡が取れない。そんな恐怖に見舞われた事はこれまで一度もなかった。


 一緒に乗っている男の子がせめて何か話しでもしてくれれば気が紛れるかも知れない。でも男の子は片隅でじっと息を潜めているだけで動く気配が見られない。


 もっともさっき会話した様子では、あまり私に好意的とは思えなかった。


 静けさに耐え兼ねて着うたを選んで流してみる。無音に近い空間に微かに流れる大好きなアーティストの歌声。それだけで少しは救われた気分になれたのに、「煩ぇ」の一喝でその歌声を聞く事さえ出来なくなってしまった。


 再び襲ってくる暗闇と静寂の恐怖。


 体の震えが一段と大きくなり、思わず蹲る。両手で自分の体を抱えるようにしても震えは収まらなかった。


 怖い。怖いよ。誰か、ここから出して……。


 ようやく私はこの場がどれだけ異常に満ちているかに気付かされる。エレベーターの中にたった二人の子供でだけで閉じ込められ、明かりさえも無い狭い空間。しかも一緒にいるのは協力的じゃない見知らぬ男の子。


 このままこの状態がいつまで続くとも判らない。


 スマホを出して時計を確かめると、まだ集合時間の午後六時までには幾分時間がある。閉じ込められてから既に一、二時間は経っていると思っていたのに、まだほんの十分程度しか時間が経っていない。


 今すぐ動き出せば、一旦帰宅するのを諦めて直接集合場所に向かえば、まだ間に合うかも知れない。


 そう思ってから、私は自分の愚かさがおかしくなった。


 この期に及んでまだ私は花火大会に行くつもりでいる。みんなに会うのを楽しみにしている。いつまでここに閉じ込められるとも判らない危機的状況で、そんなお気楽な事しか考えられない自分が酷く惨めに思えた。


 涙が自然と頬を伝い、落ちていく。


 恐怖と心細さと諦めと……。そんな様々な気持ちが頭の中で滅茶苦茶に混ざり合って、自分の中だけ留まり切れなくなった感情が涙となって流れていく。


 そんな弱気な自分を知られたくなくて、口を片手で塞いで漏れそうになる声を必死に押し殺して泣き続けた。


 どれだけそうしていただろう?


 口を押さえていない手に突然何かが触れた。遠慮がちに触れたそれは、温かい温もりを伝えながら私の手を握っていく。


 どんな気持ちで男の子は私の手を握ったのか判らない。多分、私の息遣いを聞いて何となく泣いていると伝わってしまったのだろう。


 相変わらず何も言葉は発しない。静かで静まり返ったエレベーターの中で、私は見知らぬ男の子に手を握られている。


 手から伝わる温もりが心まで温かくしていく。何故かほっと安心出来た。


 一人じゃないんだね。






 エレベーターが動き出したのはそれから一時間以上後の事。急に照明が点いたかと思うと、そのままゆっくりエレベーターは下降を始め、目的の一階で止まった。


 何でも突然の落雷で付近一帯停電になってしまったらしい。おまけに激しい雨まで降り出し、エレベーターの管理会社もあちこちの建物で同じような被害報告があって救助が遅れてしまったとの事だった。


 エレベーターから降りた私達がまず目にしたのは、夜空に大きく咲いた色とりどりの花火。華やかで美しい夜の花はそれまでの時間を帳消しにするほど見事で、まるで楽園に降り立ったような気がした。


「おい、君達、大丈夫だった? どこか打ったりしてない?」


「大丈夫です。止まった時に少し揺れたくらいで、後は何ともありませんでしたから」


 作業員の問いかけに男の子がてきぱきと答えていく。


 私は自分の事だけで精一杯だったのに……。


 私がパニックなっている間、その横でこの男の子が冷静に状況を判断していたのだと思うと何だか情けなくなってくる。同い年のはずなのに、条件は一緒だったはずなのに、どうしてそんなに冷静でいられたのだろう。不思議に思えて仕方が無い。


 その一方で少しだけ逞しく思えたのも事実だった。


「おお、綺麗に上がってるな。ついさっきまで中断してて、このまま中止になるんじゃないかって大騒ぎだったんだよ。川が増水して危険だから、見物客は避難のために会場の土手から追い出されたそうだよ」


 ふうん、そうなんだ。


 破裂音と共に空高く上っていく花火の競演。彩られた夜空に魅せられて、現実から解き放たれて引き込まれていく。


 考えようによっては私は運が良かったのかも知れない。もしエレベーターの事故に巻き込まれていなければ、まとに雷雨に遭遇して大変な目に遭っていた所だったのだから。


 とても花火見物どころじゃなかっただろう。


「待ち合わせしてるんじゃないの?」


「あっ!」


 スマホを取り出そうとして、まだ手を繋いだままだった事を思い出した。


 エレベーターの中で男の子と二人きり。しかもずっと手を繋いでいたなんて……。


 さっきの事を思い出して急に恥ずかしくて堪らなくなっていく。慌てて手を振り解いて、逃げるように駆け出した。胸がどきどき高鳴っている。


 名前も知らない男の子。お礼もまだ言ってない。


 明日も夏期講習に来るよね?


 何もない夏がほんのり色づいたような気がした。

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何もない夏 梔子 @kuchinashi

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