3 朝真暮偽、人の心

 グランドル語はエリザース帝国の一部になる前からある言語だ。時代の、国の影響を受け、変質して、現代グランドル語になっている。つづりも発音も、時期によって少しずつ違う。一部の単語にいたっては、まったく違うものになっている。そんな話を、フェイがアニーにしてくれたのは、彼女の記憶が確かならば、まだ五回生だった頃だ。

 今なぜ、そんなことを思い出したのか。考えるまでもない。ふいに耳に飛びこんできた言葉は、馴染みのあるものと少しだけ音が違ったからだ。だが、アニーの勘は間違ってはいなかった。ブランジェ以外の四人が驚いてかたまっているのが、何よりの証拠である。

「エルフリーデ。今のって」

 誰もが物音ひとつを立てるのにもためらうような空気の中。そっと、声をかけたのは、フェイだった。少年の問いに、エルフリーデはうなずくとも首を振るともとれないふうに、頭を動かした。

「うん。言った自分でもそう聞こえた。けど……」

 言葉が濁るのは、エルフリーデ本人も戸惑っているからだろう。アニーは、ひとり冷静なブランジェを見やる。

「あ、あのさ、ブランジェ。これって古いグランドル語なんでしょ? 人の名前?」

「い、いや……。狂人、道化どうけっていう意味の名詞だけど。わかる?」

 ブランジェは首をかしげつつも答えてくれる。狂人と聞いて、アニーがまっさきに思い浮かべたのは、全身まっくろの男性だった。銀髪の女性ではなく。彼女がしぶい顔をしたのを、意味がわからなかったせいだと思ったのか、ブランジェはさらに付け足した。

「もうちょっと乱暴に言うと、何かを壊したり、人をおちょくったりする奴のことだ。ルナーティエ――今風に言うと、ルナティアになるのか――ってのは、もとは神話や古い民話に出てくる女神の名前なんだぜ。傍若無人で戦いが大好きで、『破壊の女神』なんておっかねえ通り名を持ってる。よく、物語の中で人間や化け物を殺してるんだよ」

 強烈だから、怖くても人気な神様だな、と、ブランジェは朗らかに笑った。しかしアニーたちの中の苦みは消えない。子どもたちは誰からともなく、黙りこくっている青年を見た。彼も困っているらしく、いつものようにアニーたちへ言葉をかけてこない。しかたなく、とばかりに、フェイが重い口を開いた。

「あの。人の名前の中に、神様にあやかった名前ってありますよね。その、ルナーティエにもあるんですか」

「いや、ない」

 ブランジェはきっぱりと答えた。アニーが息をのむと同時、ロトの眉間のしわが深くなる。少年は気づいているのかいないのか、なにかを咎めるように目を細める。

「あのな。人気の神様ではあるけど、ルナーティエは災いをもたらすとして恐れられてるんだ。だから、どこの地域でも人の名前には使わない。使われているとしたら――」

「共同体から排除された異端者の名前か……偽名か」

 突然、ロトが後を引きとった。ブランジェが弾かれたように、彼を見る。それから、困り顔でうなずいた。

「おにいさんの言葉は難しいけど、ま、そんな感じ。どっちにしろ、ろくなもんじゃない。昔の奴隷の名前とか、犯罪者の仮の呼び名には使われてたらしいけど」

 子どもたちは顔を見合わせる。それならば、不吉な名前を持つあの女性はなんなのか。アニーも首と頭をひねって考えてみたものの、答えはおろか仮説すらも導き出せなかった。


 最後は少しだけ気まずくなってしまったが、ブランジェとの再会は思っていたより平和に終わった。食堂を出ると、彼は「今度、ヴェローネルに行くよ」と言い残して、アニーたちが向かうのとは反対の方向へ歩いてゆく。薄らぐ背中を見送ったあと、アニーは後ろに立つ青年を見上げた。

「ねえ、ロト。さっきの話だけど」

「……読みが甘かったな」

「え?」

 答えではなく呟きが聞こえて、アニーは思わず訊き返す。ロトはしまったとばかりに口を押さえたあと、ゆっくり言いなおした。

「読みが甘かった。あれだけのことをしでかして、しかも俺たちやエレノアの前に姿を見せてる。普通に考えて、わざわざ本名を名乗る可能性は低いよな。それに、『ルナティア』が本名だなんて、あいつは一度も言ってねえ」

「ロトさんは、偽名だと思ってるんですね」

 エルフリーデの問いかけに、ロトは静かにうなずいた。とたん、鉛のような空気が四人の間に沈む。

「でも、名前もわかんねえんじゃ探りようがないじゃないっすか」

 クレマンが嫌そうな顔をすると、ロトも眉間にしわを刻んで「そこが問題だ」と呟いた。彼自身、どうしていいのかわからなくなっているらしい。アニーはなんと声をかけようかと、しばらく横顔を見つめた。けれども彼女が何かをする前に、ロトは両手で自分の頬を軽く打った。そして、行くべき方をまっすぐ見つめる。

「ここで悩んでてもしかたねえ。帰ってから、まずは神話なり民話なり、ひっくり返して調べてみるさ。それより今は遺跡だ。急ぐぞ」

 ふだんどおりの、飾り気のない物言い。けれどもそこに、無理をしているようなかたさを感じ取って、アニーは思わず声を上げかけた。しかしロトはあえて無視したのか気づかなかったのか、歩きだしてしまう。子どもたちは釈然としないながらも、しかたなく青年の背を追いかけた。



 景色は、一歩を踏みしめるごとに移ろってゆく。人の足で踏み固められた土の道から、草の生い茂る地へ。茂みのような細い道から、砂だらけの荒地あれちへ。ヴェローネルからそう遠く離れていないはずなのに、これほどの姿を持つ場所があったことを知らなかった子どもたちは、感動のこもったまなざしであたりを見回す。対して、半日分の食糧と水の袋をぶら下げるロトは、感動もなにもないような表情だ。彼は便利屋の仕事がもつれにもつれ、何度かこの地域まで足を運んだことがあった。けれど、当然、アニーたちがそれを知ることはない。

 冷気を帯びた風が吹き抜ける。エルフリーデがぶるりと震え、上着のすそをかき合せた。寒いせいか、話すことがないせいか、四人ともしだいに無口になっていった。土を踏む音と風の音、ときどき獣が動きまわるような足音が、空を大地を駆けてゆく。

 アニーはほんの一瞬、足を止めた。永遠にとぎれない道を歩いているように、錯覚していた。気が遠くなって、思わず空をあおぐ。少し雲の多い晩秋の空には、鳥の影ひとつもない。どうしようもなく、不安になったそのとき。足もとから頭のてっぺんへ、衝撃が走る。おぼえのある、けれど感じたくはなかった気配を感じた。

 息をのむ。剣を抜く。できれば抜かずに済ませたかったが、しかたがない。爪が鳴り、地面が鳴く。大きな影が、自分と仲間に飛びかかる前に、彼女は勢いよく剣を振った。重い手ごたえと、肉を砕く音。弾けたこげ茶色のしぶきは、薄い色の土に鮮やかな染みをつくった。

「なっ――!」

 クレマンが切羽詰まった声を上げる。それを合図にフェイとエルフリーデが道のまんなかへ身を寄せ合う。慌てて剣を抜くクレマンと、あたりをにらむアニー。二人に、ロトが、冷めたまなざしを注いだ。

「おっと、結構な数がいるな。今の時期はこんなに出ねえはずだけど」

「……ちょっと!」

 いつ、新たな魔物が飛び出してくるか、わかったものではない。視線を動かさないままに、アニーはロトを怒鳴りつけた。

「危ない場所じゃないって、言ってたじゃない! どういうこと!?」

「俺が嘘をついたような言い方すんな」

「違うって言うの!?」

「おまえらを連れていけないほど危ない場所じゃない、とは言った」

 獣のうなり声がする。間違いなく、戦うべきときなのだが、子どもたちは氷のような沈黙のなかで身動きがとれなくなった。その間にも平然と方陣を描きはじめるロトを、クレマンが恐れのこもった目で見る。

「あの、それって……」

 五指にまといつく光が、図形を描く。白い爪の先が、のそりと顔を出した狼の眉間を指さした。方陣の作り手は、それを弾いてほくそ笑む。

「このていどの魔物なら、問題ないだろ?」

 悪気がないどころか、当然のような言葉に、四人は言葉を失った。

 方陣は、ぱっと散って光の粒になる。そこから生まれた凍てつく透明が、刃になって飛んだ。透明な刃はまっすぐ狼の眉間に突きささる。狼の形の魔物は、声も上げずに倒れた。こげ茶色が吹き出して、すぐに消える。

 呆然としていた子どもたちも、狼が倒れる音で我に返る。クレマンがあせったふうに剣を構え、アニーは左足で地面を叩いた。

「あー。なんだろう、このすっきりしない感じ」

 ロトは遠回しに、実力を認めてくれたのだろう。しかし、すなおに喜べない。それどころか嬉しくない。

 アニーはどなり散らしたくなったが、声をぐっと飲みこんだ。今、叫んでしまったら、魔物の的にされてしまう。しかたなく走りだせるように足をずらして、前を見た。すでに、四頭ほどの獣が岩陰から出てきている。そのどれもが、野獣とは違う空気を漂わせていた。

「いくよ、クレマン!」

「お……お、おう」

 やけ気味なアニーの呼びかけに、クレマンはまごつきつつ答えた。背中から「援護します!」と少女の声が飛ぶ。

 獣たちの鳴き声が、風の叫びを打ち消して、響いた。

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