第二章 ポルティエの夜と朝

1 夢と現と憂鬱と

 その日は、珍しくからりと晴れていて、だからこそ子どもたちも父親の狩りに連れていってもらえた。弓を携えた、細おもての男が、後ろからくっついてきていた子どもたちに目線を合わせる。

「それじゃあ、おまえたちはここで待っているように」

 二人ともに向かってそう言いつけたあと、男は自分の息子を見た。幼く無邪気な男の子が首をかしげるだけで、いつもは厳しい男の表情もほころぶ。

「お姉ちゃんのいうことをちゃんと聞くんだぞ」

 男の子は、元気よくうなずいたあと、大きな目をくりくりさせて父親を見上げた。

「おとう。ぼく、いつおとうとかりにいける?」

 男は、そうだな、と考えるそぶりを見せてから、小さな頭を強くなでた。黒髪がくしゃくしゃになり、子どもは高い声で笑う。

「あと、二年くらい経ったら連れてってやろう。だからそれまでは、たくさん食べて、たくさん動いて、体を鍛えておかなきゃな。あと、お父さんのいうことをちゃんと守れる子になることだ」

「うん」

 男の子は元気よくうなずいたあと、父のそばにひかえている、黒い犬を見た。体が大きく、毛が長く、一見動きが鈍そうだが、こう見えても猟犬として昔から重用されている犬種だ。まだ、そんなことまでは知らない男の子は、その犬を兄のように慕っていた。

「イサといっしょにかりしたいな。だからぼく、がんばるよ」

「イサも、がんばってきてね」と言う男の子になでられると、笑ったような顔をしている犬は、鼻を弟分の頬にすりつけた。

 息子にほほ笑むと、男は立ち上がる。それから隣の女の子を見やって、「いつも面倒かけるな。頼むよ」と穏やかに言う。女の子は胸を張り、拳でとん、と叩いて「まかせて!」と、明るい返事をする。男は、二人の変わらず仲良しな様子に安心し、猟犬イサをともなって仲間のもとへ向かっていった。

 

 子どもたちも、ただ待っているのが仕事ではない。親たちが狩ってきた獲物を運ぶための準備をしたり、ときには解体の手伝いもしなくてはならなかった。女の子にはつらい仕事でもあったはずだが、どうも彼女は二歳年下の幼馴染に格好いいところを見せたかったらしく、いつも弱音を吐かずにやっていた。

 この日は、思ったよりも長いこと、父親たちが戻ってこなかった。よほどの大物を相手にしているのか。事情など知りようもない三歳児は、ひまをもてあましてあちらこちらを見回していた。そして、たびたび、女の子の服のそでをひく。

「ねえ、あれ、なあに」

 男の子は、ずうっと遠くを指さした。女の子は背伸びして目をこらし、男の子が見ているものに気づく。遠く離れた場所にある、まっ黒い森の影。女の子はわずかに頬をひきつらせたが、すぐに強がり、すまし顔で男の子を見た。

「あれは森よ。木がいっぱい集まってるところ」

 へえ、と男の子の目が好奇心に輝く。この大陸は樹木が少ないため、森もなかなかお目にかかる機会がない。だからこその好奇心と知りながら、けれど女の子は、自分が親にされているように、厳しい顔で「でも」と続けた。

「あそこは入っちゃだめなんだからね。怖い魔女が住んでいるから」

「魔女……魔女、ぼくも知ってる。おかあがおしえてくれたよ。人をのろうこわいやつだって」

 うん、と女の子は神妙にうなずいてから、不安げな弟分に向かってほほ笑んだ。

「だーいじょうぶ。森に行かなければ呪われないから。魔女も、自分の家に知らない人がくるのがいやなだけよ」

「あ、そっかあ。ぼくも、家に知らない人がいたら、びっくりするよ」

「あたしも」

 軽いやり取りをして、子どもたちは笑いあった。

 それからしばらく経ったのち、また男の子が女の子を呼んだ。今度は、近くを指さす。

「ねえ。あれは、なに? 猫さんみたいだけど猫さんじゃない」

 首をひねった女の子は、その先を見る。すると――いつの間にか二人のそばに、黒い生き物がいた。確かに猫のようだが、猫より胴体も脚も長い。その動物は、二人を金色の目でじっと見ていた。少しおびえながらも、女の子は答えた。

「あれは……豹かなあ」

「ひょう?」

「うん。猫さんのなかまだって、お父さんいってた。ユキヒョウかなあ。でも、ユキヒョウなんてこんなところにいないはずだし」

 不思議そうに呟いていた女の子の声が、ふっと途切れる。男の子が見上げると、豹を見ていた女の子は、目を見開いて震えていた。唇が動いたが、何を言おうとしたのか、幼子にはわからなかった。

「おねえ?」

 男の子がもう一度呼んだとき、いきなり腕を強くひっぱられた。男の子がよろめいているのをよそに、女の子はあせった様子で豹に背を向ける。

「お、おねえ……!?」

「逃げよう、はやく!」

「え、え? なんで? お、おとうたちがまだ」

「あれは逃げなきゃだめ!」

 混乱しきった男の子の言葉をぴしゃりとさえぎった女の子が、走り出す。男の子も、慌てふためき追いかけた。すると背後で、どん、という音がして、風が渦巻く。豹が追いかけてきたと遅れて気づいた男の子は、震えあがった。そのときになって彼も、豹の恐ろしさを直感した。

 ただの動物ではない。奥底にひそむ、黒くて、暗い、何かの影。

 それはぐらりと揺れながら、彼に襲いかかってきた。

――これは、いい駒を見つけた。

「え?」

 何事かをささやかれた気がして、男の子は驚いた。けれど次の瞬間、足をもつれさせて派手に転んでしまう。ぎゃっと声を上げて倒れた彼は、何気なく後ろを見た。そして、金色の瞳と視線があった。豹は――にやりと笑ったあと、彼めがけて飛びかかり、牙をむいた。

 震えがくる。動けない。声も出ない。

「ロト!!」

 たすけて、と思ったとき。痛みとともに、世界が暗くなる。

 

 この日、晴れわたった空を、子どもの悲鳴が切り裂いた。



     ※

     

     

「進んでも進まない」という恐怖の怪奇現象から逃れた馬車は、予定より大幅に遅れはしたものの、ポルティエに到着した。茜色にそまった馬車乗り場から人が吐きだされ、小さな町へ消えてゆく。彼らを見送っていた御者が、ここまで乗合馬車を先導したマリオンに頭を下げる。

「いや、世話になったよ、本当に」

「いいえ。気にしないでください」

 マリオンはにこりと笑って言った。そのとき、御者の横に、何やら気まずそうな顔をしている若者が並び立つ。「魔術師が嫌い」などと大声で騒いだ男の息子らしき人だった。御者は彼と目を合わせたあと、おずおずと口を開く。

「ところで、その。子どもを三人連れた兄さんが、どこ行ったか知らないか。おたくの知り合いだったみたいだが」

 マリオンは目をみはった。けれど、それは気づかれないくらいわずかな間のことで。彼女はすぐ、完璧な、そして少し申し訳なさそうな笑顔を見せた。

「あ、彼ですか。すみませんが、わかりません。ちょっと人嫌いなところがあるので、先に行ってしまったのかもしれませんね」

 御者と若者は、困り果てたふうに顔を見合わせた。

 

「――『ポルティエの魔女』様は、ああいう意趣返しが得意だよな、おじさんびっくり」

「明らかに病人って顔したやつを追い出す彼らが悪いのよ。本当に申し訳ないと思ってるなら、必死で町じゅう探して、直接謝りにくるでしょ」

「おっかねえや」

 おどけて両手を上げる、白髪交じりの短髪の男を、マリオンがじろりとねめつける。「人嫌いはあながち嘘でもないし」とぼやいた彼女を横でながめていたアニーは、フェイと顔を見合わせた。馬車乗り場でどんなやりとりがあったかは知らないが、マリオンがそうとう厳しい態度をとったということは察せられた。聞きたくても聞けなくて、アニーがうずうずしているうちに、話題が移る。マリオンは手もとのランプを引き寄せて火を灯し、その様子を見ながら男に言った。

「世話かけたわね。運ぶの手伝ってくれて、ありがとう」

「なに。あいつをここまで連れてくるのは、女子どもじゃきついだろう。細っこいように見えて鍛えてるからな、ロト坊は」

「よく知ってるわ」

 マリオンは、笑って言った。朗らかに見えたほほ笑みは、すぐにかげる。瑠璃色の瞳は、部屋の奥の古臭い寝台を見た。アニーたちもそれにつられる。あのとき眠りに落ちた青年は、いまだ目ざめる気配なし。すぐにマリオンが何か処置をしたおかげか、黒い不気味な痣は、ほとんどひいているが、顔色は悪かった。上着のそではまくられていて、そこに光っているはずの銀の腕輪は、現在女性の手もとにあった。

 彼女をからかっていた男性が、腕輪を一瞥する。

「で、どうだ。今回は作り直しが必要か」

 マリオンは首を振った。

「ううん、腕輪そのものは大丈夫みたい。彫った文字も乱れなし。ただ、核にしている石がぼろぼろ」言いながら、マリオンが腕輪にはまっている緑の石をつまんで、強引にひっぱった。すると、石はあっけなくひび割れて崩れ落ちる。アニーもフェイも、緑色の欠片が机の上にこぼれていく様子に、息をのんだ。

「この間来た手紙には、劣化してきている、としか書いてなかったから、本当に、結界の中でここまでだめになっちゃったのね」

 そう言った女魔術師がため息をつく。それを聞き、アニーは身を乗り出した。

「うん。ヴェローネルを出る前に見た腕輪は、普通だったよ」

「……あなたたち、腕輪を見たの? っていうことは、あいつの呪いのことは知ってるのね」

「まあ、ちょっとは」アニーは曖昧にうなずいた。フェイも、一応、と自信のなさそうに呟く。ロトから聞いた話は、おそらく彼が知っていることの半分にも満たないだろうと、二人とも気づいていた。今回の一件で思い知らされた、というべきか。

 子どもたちが暗い顔をしていると、男性が肩をすくめて「まあまあ、落ちこむなって」と言ってから、立ち上がる。

「じゃあマリオン、俺は帰るぜ。また、何か必要だったら言えよな」

「ええ、ありがとう」

 マリオンは、あいている手をひらりと振って、家を出てゆく男を送った。アニーもまた、窓の方へと手を振ってから、むこうに見える石畳と、行き来する人々の影をぼんやりながめた。

「エルフリーデ、早く来ないかなあ」

 呟きが、口をついて漏れる。そのとき、部屋の奥で何かが揺れて、音がした。アニーはぱっと振り返り、そして思わず声をあげる。

 音がしたのは寝台だった。寝ていたはずの青年が上体を起こして、かたまっている。驚き戸惑いあたりを見回していた彼は、アニーと同じく呆然としている少年と目があうと、急に理性を取り戻したような顔になった。

「おはよう」

 慌てもせずに言ったのはマリオンだ。ロトは彼女をぼんやり見ると、「ああ、おはよう」と、気の抜けた様子で返す。

「思ったより元気そうで安心したわ」

「冗談よせ。頭が痛くてしょうがない。――あと、夢見が悪かった」

「……そう」

 感情の読めない返事をしたマリオンは、腕輪をくるくる回しながらながめはじめる。それに気づいたロトが、きょとんとして、自分の両腕を見た。そこでアニーもはじめて気づいたのだが、いつの間にか、腕輪のあった場所に不思議な模様がついている。刺青とも違う不思議なものだったが、青年自身はそれが何かわかったようで、あくまで冷静に、女魔術師を見た。

「ありがとう。迷惑かけたな」

「いいのよ。ここまで大事になるとは思ってなかったけど。あんたも思ってなかったでしょ」

 笑い含みの返事をしたロトは、軽く頭をおさえて、また横になる。マリオンはマリオンで、腕輪を机に置いて何かを取りにいくのか立ち上がった。話をしようにもできない空気が漂う。しかたなく、アニーは、四角い窓の先の空をあおいだ。

 黄昏の茜色が、青に薄くにじむ空。ポルティエの夕暮れに、今日一日の出来事をいろいろと思い出させられて、少女は重く吐息をこぼした。

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