3 信じること、寄り添うこと

 白く細く、けれどほかの女の子よりずっとかたい手。それはゆっくりと震えながらのばされて、やがて剣の柄をがしりとつかんだ。つい先ほどまで痛みに震えていたとは思えない、力強い動作。彼女は得物をにぎって引き寄せたあと、全身に力を込めて起きあがった。震える足でむりやり床を踏みしめて立つ。無言のまま守護獣をにらみつけ、再び剣を構えた。

 ようやく、静かだった空間に音が戻ってくる。それは、ひきつった絶叫だった。

 アニーは叫びながら駆けだした。怒りに満ちた守護獣と、まっこうから衝突する。襲いかかってくる銀の獣をすばやくかわし、するりと体の下にすべりこむと、腹に鋭い一撃をお見舞いした。今までにない攻撃に、守護獣が、わずかにひるむ。その間にも少女はたくみに近づき、あるいは距離をとり、ぼろぼろの剣で獣をつかのま、圧倒していた。鮮やかな立ち回り。彼女の体さばきは、剣撃は、ひどくいびつで――狂っていた。


 まっさきに異変に気づいたのは、ロトだった。守護獣に追いつめられたアニーが反撃を始めた瞬間は、ほっとしたものだが、すぐに彼女の様子の変化を見て取った。守護獣たちから距離をとった彼は、舌打ちをする。下手に暴れられてはこちらにどんな害が及ぶかわからない、というのも確かだが、それ以上にアニーの精神状態が気がかりだった。

 ロトは方陣を形作りながら、目だけで柱を振り返る。

「フェイ!」

「は、はい!」

 鋭いささやきに呼ばれた少年が、柱の陰で飛び上がった。

「なんでもいい。見ていて、わかることがあったか?」

 ロトが問うと、フェイは目を泳がせた。それから、頭に指を当ててうなる。

「今のところ……ものすごく凶暴だなっていう感じしか、しません。その、光っていうのも見えないですし」

「そうか」と答えたロトは、乾いた唇を舌で湿らせる。宙にできあがった方陣を、指で軽くはじいた。

「まずは、あいつの気をそらしてみるか」

 口の中で呟いて、ロトは方陣を発動させた。舞い上がった水が瞬時に凍りつく。氷のつぶては一瞬、きらめいたあと、守護獣に勢いよく降りかかった。アニーはというと乱暴な足取りで降りかかる氷を避けている。ぴくぴくと震え、うっとうしげにかぶりを振る守護獣に向かって、再び剣を突き出した。馬鹿、とロトは心の中で少女をののしった。先の一撃のせいで、守護獣は再びアニーに怒ってしまって、ロトの方には気が向ききらなかったようだ。

 ロトはすばやく思考を巡らせる。彼が見ていたのは、獣と少女だけだった。なので、フェイが遠くで不思議そうに目をみはっていることに、気がついていなかった。アニーを正気に戻すのが先か、守護獣を制してしまうのが先か。ふたつの選択肢を思い浮かべて――すぐ、彼はそれらを打ち消した。五指がまた虚空を叩く。今はとにかく、アニーが過剰に踏みこみすぎないよう援護するのが先決だ。守護獣の隙をつくってから、あの小娘を叱り飛ばしてやればいい。瞬時にそう判断したロトは、今までと同じように、いや、今まで以上の速さで方陣を展開した。

 光の弾が守護獣めがけて飛びながら瞬く。一発の威力は小石を投げたほどにもならないが、目くらましにはじゅうぶんだ。猫のような目が強く細められる。隙が生まれたそのときを狙い、アニーがまた強く後ろ足を斬りつけた。気づけば少女からは、怒気とも殺気ともつかない気配が迸っている。守護獣は叫ぶ。けれどそれだけで、弱点となるものが見える気配はない。少し方向性を変えてみるか、と思ったロトが、つま先を別の方へ向けたとき――今までにない強い声が、白い空間を揺るがした。ロトは思わず目をみはって、足を止める。

 守護獣が暴れ出したのだ。

「な、なにこれ……いきなり、おびえはじめたような……」

 耳をふさぎながら、フェイがうめく。彼の言葉を聞いたロトは、息をのんだ。暴れ狂う守護獣の様子は、天敵に襲われた野生動物の様子と似たところもある。にごった瞳がとらえていたのは、いらだたしげにしている少女の姿。

「あいつの殺気に反応したか」

 苦々しく呟いたロトは、また体の向きを変えた。――獣が乱暴に振りまわしていた尻尾が、アニーを弾き飛ばしたのは、そのときだった。壁に叩きつけられた少女は、今度こそ体を丸めている。あれで正気に戻ったかも、と期待をする一方で、アニーに牙をむく獣を見たとき、ロトは肌が粟立つのを感じた。

 手をのばしかけて、やめる。今から術を編むのは間に合わない。なら――と、とっさに判断したロトは、地面を蹴って駆けだした。フェイの悲鳴を振りきり、叫び声で自分を叱りつけて、少女と獣の間に割り込む。直後、鋭い熱と痛みが背中を切り裂いた。

 

 彼女の世界に色が戻ったのは、銀色の尻尾が腹を打ちすえたときだった。また跳ね飛ばされたときに剣を取り落としてしまい、ついでに壁へ叩きつけられる。痛みをこらえているうちに、ずし、と足音を立てて近づいてきた守護獣が、牙をむいた。

「……やば……」

 アニーは頬をひきつらせて呟く。むりやり笑おうとして失敗した。逃げなきゃ、ともがいてみたが、体は上手に動かない。うなり声がすぐそばで聞こえ、いよいよ終わりを覚悟したとき。

 彼女の前に、人影が躍り出て、覆いかぶさってきた。

「……え?」

 何かが引き裂かれる音がする。そばで感じる温度が現実のものと思えなくて、アニーは呆けた声をこぼした。夢とうつつの境にいるような感覚は、けれど、低いうめき声を耳にした瞬間に吹き飛んだ。

 アニーをかばった彼は顔をきつくゆがめていたが、悲鳴は上げていなかった。それどころか、すばやく振り返ると、守護獣が追撃してくる前に魔術の方陣を発動させる。方陣のあった場所から雷撃が迸って、巨体を勢いよく吹き飛ばした。雷の残滓が消えてゆくのと同時、地鳴りに似た轟音がする。

 目を丸くしたアニーは、生々しい傷を目にすると息をのんだ。

「ロト!」

 名前を呼ぶと、青年は振り返った。泣きそうに見えた青い瞳は、すぐに炎を宿して少女をにらむ。

「おまえほんと馬鹿か! むだに疲れさせんなよ!」

「うっ。ごっ、ごめん……」

 怒鳴られたアニーは縮こまる。「呪い」のことを聞いたあとでは、むやみやたらに言い返すこともできなかった。ロトはわざとらしく鼻を鳴らしたあと、遠くを見る。自分が吹き飛ばした守護獣がまだのびたままでいるのを確かめていた。その間、アニーはゆっくりと深呼吸をする。痛みはいつまでも残っていたが、少しずつ、やわらいでもいた。ようやく動けるくらいになって、よし、と呟いて立ち上がろうとしたとき、額にかたいものがぶつかってひるむ。

 一瞬閉じた目を開くと、ロトの顔がすぐそばにあった。彼が、額を小突いたのだと、アニーは遅れて気づく。

「俺、入りこみすぎるなって言ったよな」

 静かな声が言う。胸を打たれたアニーは、喉を詰まらせた。うん、とかろうじて口にした返事は、音になっているかどうかすら怪しい。アニーはここが戦いの場であることも忘れ、立ちすくんだ。青年は、予想に反して怒らなかった。

「――ひとつ、おまえが興味を持ちそうなこと、教えてやる」

 突然の言葉に、アニーは目を瞬いた。けれど、ロトは構わない。

「ここらへんではあまり聞かないと思うけど、場所によっては魔術師も戦場に出るんだ。で、そのとき魔術師がどういう役割を果たすかというと……後ろの方で敵をかく乱したり、味方を回復したり、まあ、いわゆる後方支援ってやつだ。魔術は陣を描かなきゃいけないぶん、即戦力にはなりにくいけど、使いようによってはものすごい力を発揮する。魔術があるとないとじゃ、ずいぶん違うんだそうだ。術師に限らず、前の方で戦う奴らの後ろで、味方の治療や敵の情報収集をやってくれる奴らがいるだけで、心強いのは当然だろうよ」

 アニーは黙って話を聞いていた。しかし、途中でゆっくりと目をみはる。こんなとき、こんな場所で持ち出された話の中にひそむものは、何か。

「アニー。一回、まわりを見てみろよ。おまえのまわりには、誰がいる?」

 問いかけられたアニーは、無意識のうちに深呼吸をして、青年をじっと見つめた。そして――自分の名前を呼ぶ涙声を聞いて、柱の方を振り返る。鼻をまっ赤にしたフェイが、二人にむかって手を振った。

「ああ、よかった! 二人とも無事だ!」

「おいおい。泣くんじゃないぞフェイ。涙で見えるものが見えなくなったら意味ないだろ」

 顔をぐしゃぐしゃにゆがめる少年へ、ロトが肩をすくめてみせる。フェイは唇をとがらせたが、すぐ真面目な顔になった。

「それより、あの守護獣、そうとう痛がってるみたいです。もしかしたら、背中の方に何かあるのかも。吹き飛ばされたとき、背中を壁に打ちつけたみたいなので」

「へえ、そいつはいいこと聞いた。賭けてみるか」

「はい! ぼくも、がんばって白い光を探してみますから!」

 フェイがぴしっと敬礼したのを見てから、ロトはまた、アニーに視線を戻す。そのときフェイの声が、「アニー! もう無茶しないでよ!」と叫ぶ。大きな手が、小さな肩をつかんだ。

「おまえ、一人で走ってるわけじゃないだろ。あんなに気ぃ回してくれる奴がいるんだ」

「あ……」

「戦いに関しては、俺も少しは力になれる。だから――ただ暴れるんじゃなくて、おまえなりに考えて戦ってみろよ。俺はそれにあわせてやるから」

 アニーは少し、目を伏せた。にぎった拳をじっと見つめる。

「でも……それでももし、また、あんなふうになったら……」

 小声で言うと、ロトは少しばかり考えこむそぶりを見せた。「――そのときは」わずかに、口の端をつり上げる。

「俺でもフェイでもいいから、名前を叫べ」

「……ええ? そんなんでいいの?」

 アニーが口をへの字に曲げていると、ロトはまたアニーの額を小突いた。

「疑ってんな。意外と効果あるんだぞ、これ」

「やったことあるみたいにいうのね」

 アニーがとがった口調で言うと、ロトはおどけてうなずいた。「やったよ。さんざんな」という言葉が返ってきたものだから、驚く。アニーはどういうことかと訊こうとしたが、すぐあとに、低いうなり声が聞こえてきたので口をつぐんだ。青年の表情もひきしまる。

「おしゃべりはここまでか」

 ぼそり、と呟いたロトがアニーに背を向けて立つ。背中にざっくりと裂傷ができていて、血がにじんでいたのでどきりとしたが、本人はまったく動じていない。アニーも慌てて剣をとり、立ち上がった。のびていたはずの守護獣は四本足でまた立って、両目に怒りをたぎらせて、こちらを見つめてきている。アニーはゆっくりロトの隣まで歩いて出てから、剣を構えた。細く呼吸して、心を静かに保つ。

「……背中、だったよね。なんとかして回りこもうか」

 アニーは正面を見すえたまま、言う。すると、ロトが頭を軽く叩いてきた。「ああ、任せる」と彼はささやいた。

「しゃきっとしろよ、アニー・ロズヴェルト。こう見えてあてにしてるんだ」

 突然降ってきた言葉が、とっさに理解できず、アニーは目をみはった。本当は訊き返したくてたまらなかったが、彼女がロトを見上げるより早く、守護獣が激しく吼える。今にも飛びかかってきそうな獣めがけて、少女は鋭く駆けだした。


 巨大な爪をかいくぐり、獣の死角へまわりこむ。守護獣がアニーへ目を向けようとした瞬間に、ロトが遠くから石の刃を放った。顔に振りかかる礫が、獣のわずかな理性をにぶらせた。その隙にアニーは後ろに回り、飛び上がって剣を振る。さすがに彼女の跳躍力と身長では、獣の尻に刃をかすらせるのがせいいっぱいだった。守護獣はアニーの一撃に激しく反応し、乱暴に尻尾を振る。尻尾をまともにぶつけられたアニーは、平手打ちされたような痛みにうめいたが、なんとか安全に着地した。

 たくみに立ちまわる二人の人間を、守護獣はわずらわしそうに見る。青年がまたひとつ新たな方陣を天井にむかって描き、守護獣の上に砂を降らせた。背中に刺激を加えられると、獣は強い怒りを見せた。今まで、小さな人間とひとくくりにして見ていた金色の瞳は、はじめてロト個人に強い殺意を向ける。

 アニーはそんな守護獣の気を引こうと、壁を強く蹴って走った。

――オォォ……

 風のうなる音がする。少女の足が迷いを見せた。顔をしかめた彼女の耳が、風とは別の音をとらえる。

――お……の、れ……

「え?」

 それは、声だった。ほんのかすかにしか聞こえないが、確かに、アニーでも理解できる言葉だった。

 聞こえてきたのが整った言語だったので、アニーはその声音が守護獣のうなり声と同じだと、すぐに気づくことができなかった。そして気づいたときには、咆哮に乗せて怒りの言葉が吐きだされていた。


――おのれ、魔女めが! またしても我を愚弄するか!


 今度の声は、部屋全体に強く響くものだった。アニーは愕然として、足を止める。だがそれも、守護獣が魔術師の青年に牙をむくのを見たときまでだった。とっさに走って後ろ足を続けて斬りつけ、獣の意識をそらす。獣は乱暴に後ろ足を蹴り上げた。言葉はなかったが、邪魔をするなと怒鳴られている気分だった。もちろん、あっさり引き下がるアニーではない。後ろ蹴りを軽々かわした彼女は、ジグザグに走って青年のもとまで戻った。

 強く食らいついてきた守護獣の牙を、剣でとっさに押しのける。耳障りな金属音がして、剣身が不安定に震えた。

「馬鹿、俺なんかに構うな!」

「でも!」

 叱声に悲鳴で返したアニーは、どうにか獣の勢いを削ぐと、ロトの隣までさがる。彼は守護獣がわずかに背を丸めた隙を狙って、小さな魔術の火を放った。火は銀色の背中をかすめただけで消えたが、誇り高い獣の怒りを誘うにはじゅうぶんだったらしい。叫んだ獣は口を大きく開き、息を吸った。瞬間、ロトの顔色が変わる。

「まずい、伏せろっ!」

 アニーはとっさに頭を抱えて伏せた。ロトも方陣を描き、弾いてから、かがみこむ。同時に、守護獣の口腔こうこうから、強い銀色の光が放たれた。口のなかでは玉のように見えていたそれは、太い光線となって地面をうがつ。熱波と強烈な光がすぐそばに降り注ぐ。アニーは思わず悲鳴をあげた。無防備な状態であれば、確実に肌が焼けていたに違いないが、ロトが張った魔術の障壁のおかげで、なんとか熱を感じるだけで済んだ。

「む、むちゃくちゃでしょ。あんなの」

 アニーは手足が震えていることを自覚しつつも、剣をにぎりなおして立ち上がる。けれど、守護獣の勢いは止まらない。すぐにでも、第二撃が襲ってきそうだった。

 なら少しでもひるませよう、と、アニーが獣の前足めがけて剣を振ろうとしたとき。


「襟首だ! 二人とも、襟首に光が見えた!」


 力強い少年の一声が、白い空間を打ちすえた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます