第25話 23


 二階、三階の唐兵と合流した俺たちは総勢二十名ほどの軍勢となっていた。


 幸い、居残っていた僅かな家人はとっくに邸から逃げ出しているらしい。

 ならば守るべきものは無い。

 別にここは司令を出す拠点でも要人の隠れる王宮でもない、ただの大きな建物なのだから。


 だがその大きな建物にアキ達は用があるらしい。

 盗竜や橙色の恐竜すら囮に使い、こっそりと侵入して達成しなければならない何らかの用が。


(……)


 武器庫で唐兵たちが装備を整えるのを待ちつつ、俺は思案した。

 アキ達がこの場所を密かに狙う理由。


 物資の確保だろうか。

 ――いや、ありえない。彼女たちは人を食う。肉を食えないアキは例外だが、基本的に彼女たちは兵糧の心配をする必要が無い。


 拠点確保のためだろうか。

 ――これも考え難い。普通に侵攻すれば拠点は丸ごと手に入る。


 将あるいは要人がそこに居ると踏んで急襲をかけるためだろうか。

 ――これが一番近い気もするが、どうも腑に落ちない。人間側の組織や軍について何も知らない彼女たちがそんな行動を取るだろうか。


(……)


 違う。

 おそらく俺は考えすぎている。

 敵は人間ではない。

 人間の世界から隔たっていた恐竜人類だ。


 その彼女たちが人間の世界を――


(?!)


 どきんと心臓が跳ねる。

 何か、おかしくはないか。


 俺とアキが初めて出会った時、彼女は『葦原』について知らないと言っていた。

 一方で、霧が薄くなれば外の世界、つまり人間の世界に攻め込むことができると知っていた。

 つまり彼女たちは霧の外に人間が住んでいることを知っていたのだ。

 俺たちは恐竜のことなどまるで知らなかったと言うのに。


(あいつらと人類は過去のどこかで接点があった……?)


 重大な事実に気付くと同時に、俺は首を振った。

 今考えるべきはそれではない。


 アキ達が人類の存在を知っていた。

 確かにこれは重要な問題だが、はっきり言って一兵である俺の手に余る問題だ。


 俺が見るべきはもっと卑近な問題だ。

 彼女たちが密かにここへ向かう理由は何なのか。


(……)


 密かに、という点が気になる。

 コンピーを配した件と言い、街路に身を隠しながらの接近と言い、彼女たちは徹底して秘密裏に事を運ぼうとしている。

 それは裏を返せば『俺たちに気付かれたら台無しになる』ということでもある。

 こちらが先に彼女たちの意図に気付けば、対策ないし妨害できるのだ。

 それは――

 

「ワカ」


 ルーヴェが声をかけた。


「じゅんび、できた」


 俺の指示通りの装備に身を包んだ唐兵が整列する。

 俺は一度頷き、ルーヴェにアキ達の現在位置を問う。


「アキともうひとり、いちばんうえにいる。まだうごいてない」


「ヨルは?」


「この辺にはいない」


「分かった」


 俺は兵たちを振り返る。

 緊張と恐怖と興奮を押し殺した無表情。

 練度は決して高くない。


「……フソン=ブソンの命令は時間稼ぎだ。犬死にじゃない。恐竜女が俺たちに危害を加えず、ブソンを追わないのであれば完全に放置する手もある」


 が、と俺は続けた。


「あいつらがここへ何をしに来ているのか分からないが、何であれ、あいつらにとって有益なことは人類にとって不利益に働く。今この場であいつらを見逃すことが、後々になって大きく響くかも知れない」


 ががっと軍靴が床を打つ。

 真正面を見据えた男が二十人。

 精鋭でなく、英雄でもないのだろうが、それでも戦士には違いない。


 戦えば死ぬ。

 それは先ほど俺自身が口にしたことだ。

 恐竜人類は強い。

 戦えば死、あるいは死にも等しい傷を負う可能性がある。


 だが、だからといって戦わないわけには行かない。

 多くの唐兵が市街地で壮絶な死を遂げた。

 今ここでアキ達に本懐を遂げさせることは彼らの死を犬死にに変える行為だ。


「勝手に仕切ってすまない。誰か俺の代わりに指揮を執りたい者は?」


 返答、無し。


 ――今更だが、早まったことをしたように思う。

 俺は唐兵ではない。それどころか、防疫の名目で監禁されていた他国の兵だ。はっきり言って捕虜に近い。

 だが捕虜が前線に出てはならないなどという法は無い。葦原にも、おそらく唐にも。


「分かった。じゃあこのまま俺が指示を出す」


 返答の代わりに四十の靴が床を叩く。

 俺を助けた二人の男、キシュン=ギシュンとカタク=ガタクも前を見据えている。

 彼らを騙したことに対する罪悪感が、この戦いの勝利を以って雪がれると良いのだが。


「死ぬなよ。行くぞ」






 廊下を進軍する間もアキ達の気配は動かなかった。

 俺たちが階段を上り、いよいよ四階の廊下を走り出しても。


 軍靴は床を震わせている。

 さすがにここまで迫られながら気づいていないはずがない。

 おそらく高を括っているのだろう。

 俺たちを鏖殺することなど赤子の手をひねるよりたやすいと。



 四階の渡り廊下に至ったところで、ようやくアキが姿を見せた。

 さらさらと揺れる黒髪が真横から吹き付ける風に踊る。

 明るい緑色の目が俺を真正面から見据えていた。



 少し横に視線を走らせると、緩やかな坂の向こうに市街地が見える。

 風はそちらから吹いていた。血の匂いのする風が。


 遥か下方の池でフナが跳ねた。

 コンピーが中庭の砂利を踏み、それを見つけた鳥が庭に飛び込む。

 やや山なりに渡された廊下は朱に染められており、天井からは瓢箪型の灯りがぶら下がっている。

 左右の縁に渡された欄干は太い。

 廊下と呼べばそれまでだが、橋のようにも見えた。


「久しぶりだね、ワッカツゥ~」


 赤い欄干に手を置き、アキが爪を立てる。

 鋭い指先が何度か円を描く。


「元気だった?」


「まだ一日も経ってないぞ」


「あれ? そうだっけ?」


 アキはころころと笑った。

 氷の玉が碗を転がるような、何とも愛らしい声だった。


「……ちょっと油の匂いがするね。でもやっぱりいい匂い」


 すんすんと鼻を鳴らしていたアキが両の頬を手で包む。

 顔には恍惚。


「どきどきするね。食べちゃいたい……!」


「! っ来るぞ! 構え!!」


 俺とルーヴェに従う二十の兵が一斉に引きずっていたものを掲げる。

 ががが、ががが、と隙間なくみっしりと。


「おりょ?」


 三段六列に並ぶ盾を見、アキは目を輝かせた。


「何それ~ 壁みた~い!」


 壁『みたい』ではない。

 俺とルーヴェの背後に生まれたのは『壁』だ。


 唐兵が掲げたのは矢の雨に対抗する攻城盾だ。

 大人一人を覆えるほどに巨大で、鉄板を木材で挟む形で作られている。

 最下段の者は蹲踞の姿勢で盾に肩を当て、中段の者は床を踏みしめ、上段の者は背部に伸びる取っ手を掴んで宙に固定している。


「アキちゃんを逃がさないぞぉって感じ?」


 俺は無言で矢を番える。

 ルーヴェが喧嘩剣を抜き、騎兵の大剣を床に転がす。

 アキの笑みに暗いものが混じった。


「……ワカツ。私、喧嘩強いよぉ?」


「そうか」


「ワカツじゃ絶対勝てないって」


 いや、と俺は首を振る。


「強い奴が勝つんじゃない。勝った奴が強いんだ」


「ふふっ……うふふふっっ!」


 肩を振るわせて笑うアキが地を蹴った。

 ――と、思った瞬間には既に、俺の目の前に顔がある。

 低い声。


「笑わせないで」


「……!」


 一度交戦していた経験が活きた。

 俺は僅かに踵を浮かせていたため、素早く後方へ跳ぶことができた。

 薄皮一枚のところをアキの爪がかすめ、豆の筋が抜かれるように弓柄がぴいっと裂ける。


 銀の光が俺の眼前に割り込む。

 ぎじ、と鈍い音。

 振り下ろされたルーヴェの剣をアキの蹴爪が止めていた。


「あなた、綺麗になったね」


「……」


 ルーヴェは会話に応じるつもりはなさそうだった。

 立て続けに斬撃を放ち、アキの行動を封じる。

 蹴爪、手、蹴爪の順で剣を止めたアキは喉の奥で笑った。


「ま、私の方がちょっと可愛いかな~?」


「どけ!!」


 立ち上がった俺は素早く矢を放つ。

 アキはぐんと顔を逸らせて矢をかわし、ルーヴェを蹴り飛ばす。

 着地したルーヴェは間を置かずアキに突っ込んだ。


「あっはは! 三人でもヨルさんにけちょんけちょんにされてたのに」

 

 振り下ろされる剣。振り抜かれる剣。

 アキが後方へよろめくような動きで軽々とかわし、かわし、かわし――――俺の放った矢をばしんと掴む。


「――たった二人で私に勝てるって、本気で思ってる?」


「……」


 分かり切っていたことだが、向こうの方が身体能力が高い。

 正攻法の長期戦では敗北は必至。

 ならば一瞬でケリをつける。


 俺は飛び出した。


「……!」


 ルーヴェがその場で一回転し、二回転する。

 勢いそのままに踏み込み、立て続けに斬撃を放つ。

 振り下ろし。振り上げ。突き。回転。

 ひょいひょいとアキが回避する。

 水平に薙ぎ払われる刃をアキが防ごうとしたところへ俺が飛び込む。


 飛び込むと同時に、逆巻で後方へ跳ぶ。

 アキの目には時間が逆行したようにも見えただろう。


「!」


 意識が逸れたところへルーヴェの剣が襲い掛かる。

 がぎん、と両手で受け止めたアキの顔面をルーヴェの拳が襲う。

 

「ぐっ!」


 ぼぐん、と頬を殴り抜かれたアキはルーヴェを睨んだ。

 その緑の目にルーヴェの指が迫る。


「っく!」


 眼球から砂粒三つ分ほどの距離で、かろうじてアキがルーヴェの指を止める。

 二人の身長はほぼ同じだが、立て続けに攻撃を受けた分、アキの肢体は後方へ反り返っていた。

 アキの顔を見下ろす格好となったルーヴェは、口内にため込んでいた唾液を飛散させた。


「うっ!」


 アキが目を閉じる。

 そこに俺は矢を放つ。


(……!)


 ほんのわずかな意思疎通の乱れだった。


 ルーヴェは立ったままアキに覆いかぶさっており、真横にいる俺からは致命傷となる部位を狙えない。

 なので俺はやむなくアキの腋を狙った。

 だがルーヴェの方は俺がそのまま矢を放つと思っていたらしい。

 ばっと彼女が飛びのき、アキが体勢を崩したことで矢は外れ、太く赤い柱にびいんと立った。


「!」

「!」


「っ。汚いなぁ、もお!」


 素早く目をこすったアキがその場で一回転しながらしゃがんだ。

 そして両手を床につき、伸ばした足でルーヴェの脚を払う。


 ぶわっと浮いたルーヴェ。

 掬いあげるようにアキが爪を閃かせる。


「シッ!」


 俺の矢がその一撃を妨げる。

 さっと真横に跳躍して矢をかわしたアキが俺に飛びかかり、爪を振り下ろす。


 逆巻で後方へ跳ぶ。跳びながら矢を掴む。

 空振りしたアキの手を踏み、顔面に鏃を向けつつ弦を引く。


 ぐあっと口を開けたアキが鏃を噛み砕く。


「!」


 今度はアキが口内の金属片を唾液と共に吹きかけた。

 が、一瞬早く真横へ回避する。


 ルーヴェが背後からアキに剣を振り下ろす。

 回転しながら放たれた蹴爪が喧嘩剣を弾き、ルーヴェをよろめかせる。


「くっ! ルーヴェ引け!」

 

 赤いスリットドレスを翻し、ルーヴェはアキの傍を駆け抜けた。

 そのまま俺の後方、つまり唐兵の壁へ。


「キシュン、ガタク! 盾を開けろ!」


 横に六列、縦に三列並ぶ盾の中央二枚が引っ込んだ。

 剣を抱えたルーヴェがそこへ突っ込み、逆巻で駆けた俺もそこへ飛ぶ。

 床を転がり、片膝をつく。


 がちゃん、と盾が閉じる。

 目の高さに空いた細い穴の向こうでアキがやれやれと肩をすくめていた。


「だから言ったじゃん。ワカツカッコ悪~~~い」


「前進! 奴を叩き潰せ!」


 俺の合図で男たちがじりじりと前へ。

 アキが笑い、駆け、地を蹴る。

 速度を乗せた体当たりで壁を崩すつもりだ。


「そんなもので私を「仕留めるんだよ。散ッッ!!」」


 ばっと列が左右に割れた。

 盾を構えた男たちが左右の欄干にぴたりと背をつける。

 さながら、王侯の歩む赤絨毯を列なして守る衛兵のように。

 左右九人ずつの二列。


「え……」


 空中を飛びながら、アキはぽかんと口を開ける。

 そしてそのまま開けた空間に落ちた。


「うべっ「閉ッッ!!」」


 居並ぶ男たちが中段に盾を構え、橋の中央へ向かって駆けた。

 さながら上下の歯が口の中央で重なるように。


 盾のいくつかが一瞬でアキを圧し潰す。

 ぐぎゅえ、という無様な声。


「……」


「……」


「……」


 沈黙。

 男たちはなおもアキを押し潰そうと力を込めている。


 彼女は反応を見せな




「こんなものでっっ!!!」

 


 ぐりり、とアキを押す男たちが押し返される。

 凄まじい腕力だ。


 俺は驚嘆しながら、矢を番える。

 目の前で盾を重ねていた二人がすっと離れる。

 その次の二人も。

 そのまた次の二人も。

 襖が順に開くようにして、盾が開いていく。


 潰れかけたアキが見える。

 彼女は顔を上げ、ようやく俺の意図に気付く。

 これが潰すための陣ではなく、拘束するための陣であることに。


 既に矢は引き絞られていた。

 弦が鳴る。


「!」


 一直線に飛んだ矢が正確にアキの胸布を――――




 がぎん、と。

 胸で矢が弾かれる。




「うっ?!」


 アキが含み笑う。

 彼女の胸布が僅かに破れ、そこに白い碗状の骨が見えた。

 

(こいつ――!)


「そうだよねぇ。心臓狙っちゃうよねぇ。アキちゃん顔カワイイからね~。……」


 すう、とアキが息を吸う。

 ルーヴェが僅かに早く耳を塞いだ。




 どごろろろろ、と。

 落雷にも似た音が響いた。




「!」


 何かの攻撃の予兆か、と身構える。

 だが彼女は咆哮を発しただけでその場を動かなかった。


「っへへ~」


「……」


 何だ、今のは。

 吠えただけで俺たちをたじろがせたつもりだろうか。

 そんなこと――――と考えて思い出す。


 確かこいつは前にも鳴き声で――


「!!」


 床が揺れる。

 かたかたと。


 また床が揺れる。

 今度は俺の奥歯まで揺れるようだった。


 そして足音が聞こえた。

 どずん、ずどん、という倒木じみた足音。


 はっと街路を見やる。

 緩やかな坂を登って来る二頭の恐竜の姿が見えた。

 『橙色のヤツ』だ。

 ティラノそっくりの姿をしていたが、驚くほど手が短い。

 両目の上には短い角が生えており、全身に小さな突起が並んでいる。


(こいつ恐竜を呼びやがった……!!)


 橙色の恐竜はアロを少し大きくした程度で、四階にいる俺たちより低い位置に頭がある。

 それでも隠し切れないほどの威圧感が見えない壁となって俺たちを押し下がらせた。


 この恐竜が好んで使う攻撃方法は、確か――――

 

「何かに掴まれッッ!!」


「さぁせないよぉぉっっ!!」


 盾に潰されかけたアキが舞い踊る。

 それは文字通り舞踏に近い動きだった。


 一人が足を掬われ、一人が突き飛ばされ、一人が顔面を切り裂かれる。

 矢を向けた俺の視界からアキが消える。

 上だ。

 気づいた時にはもう、彼女は男たちの肩を蹴り、飛び越え、十数歩先、つまり最初に立っていた地点に飛び降りている。


「ワカ! あいつ来るっっ!!」


「!」


 二頭は数歩後方へ下がると、こちらに肩を向けながら突進した。

 先ほど市街地で見たものと同じ動



「うっ!!」



 奴らは渡り廊下に真横から衝突したが、俺たちは上下に地面が揺れるような衝撃を感じた。

 がららら、と三階、二階の橋の一部が崩落する。

 瓢箪型の灯りが激しく揺れる。

 欄干に捕まるのが精いっぱいだった俺たちは、続く一撃を避けることも妨害することもできなかった。


「崩れるぞッッ!! 絶対に頭を下に向けるな――――」


 地震にも等しい衝撃。

 四階の橋の半分が崩落した。

 俺も、ルーヴェも、兵たちも、三階の橋へ落下する。

 数名は更に下の二階へ落下し、運の良い数名が四階に踏みとどまる。


「ぐっ!」


 回転することで衝撃を散らす。

 幸い、三階より下に落ちることはなかった。


 ばしゃばしゃと池に瓦礫が落ちる音を聞きながら片膝をつく。

 弓は手の中にある。

 まだ戦える。


「九位ッッ!!」


「平――」




 どごろろろろ、と。

 唸る恐竜の顔が目の前に。




「~~~~~!!」


 血の気が引く。

 心臓が止まりかける。


 でかい、なんてものじゃない。

 鯨と向かい合ってもこれほどまでに圧倒されることはないはずだ。

 俺の頭ほどもある目が四つ、細められる。

 拳が入りそうなほど大きな鼻腔から生臭い呼気が漏れる。


「はっ?!」


 気づく。

 俺は今、巨竜にとって最も『食べやすい』高さに落ちている。

 ちょうど顔の高さ。

 ちょうど目と鼻の先。


「あ、こら。それは私の――――」


 ぐああ、と二頭が顎を開ける。


 恐竜の口の中は赤い突起がいくつも生えた不気味な構造だった。

 歯は一本一本が短剣のようで、噛まれたら痛みを感じる間もなく死ぬ。


 死ぬ。

 俺が―――


「!!」


 眼前に迫る顎を前に、きつく目を閉じる。

 残される人々のこと。

 国のこと。

 ルーヴェやシアのこと。

 何かを想う間も無かった。

 俺は――――




(……?)




 その瞬間が、訪れない。

 恐る恐る目を開ける。


 ぐらりと身を傾がせた恐竜が倒れていくところだった。

 一頭は後方へ。

 一頭は横へ。


 ずしゃあ、と。

 飛び上がった鯨が海面を叩くがごとき音。

 振動で瓦礫がぱらぱらとこぼれ、油断していた四階のアキが足を滑らせる。


「うひっ」


 すどん、と三階の橋に尻餅をついたアキが目を白黒させた。


「なっ、何? 何なになに?!」


 何の前触れもなく倒れた二頭の恐竜は、地に臥したままびくびくと震えていた。

 立ち上がることは不可能だろう。

 彼らの前足はティラノ以上に細い。自重を支えられるとは思えない。


「なっ、何したのワカツ?!」


「……俺じゃない」


 失禁しそうなほどの恐怖を覚えていた肉体に鞭を打って立ち上がる。

 膝がまだ笑っていた。

 だが顔にも笑みが浮かぶ。


 今この戦場に居る者で、部隊を使わず巨竜を仕留めることのできる男はおそらく一人。


「……助かりました。ありがとうございます」


 俺が告げると、一つ下の階から声が届く。




「敬語はやめろっつの。耳に汗疹あせもができそうだ」




 彼は積み重なる瓦礫を幾つか踏んで跳び、俺のすぐ近くに着地した。


 火炎を思わせる軍服が翻る。

 布地が吸った大量の血がしぶきとなって床を汚す。

 短い金髪の芝生頭も燃えるように赤く濡れている。

 片手に握る刀からは真新しい血と脂が滴る。


 虫食い状に穴の開いた橋の向こうで、アキが目を細めた。


「……誰?」


「お初にお目にかかる」


 返り血に染まった男は片手で顔の血を拭った。

 浮かぶのは笑み。


「俺の名はシャク=シャカだ」


「しゃか……しゃか?」


「なァるほど。これが恐竜人って奴かい」


 シャク=シャカはしげしげとアキを見つめていたが、やがてふっと息を漏らした。


「確かに別嬪だ。が、手足がそれじゃあなァ」


「……気を付けてください、シャク=シャカ。同じ奴があと二人います」


「ほぉ。それは――」




 くおっ、くおっ、くおっ、くおっ、と。

 アキが甲高い咆哮を発した。




「お?」


「っへへ~。援軍呼んじゃう」


 立ち上がり、はにかむように笑うアキ。


 十秒が経つ。

 二十秒が経つ。

 三十秒が経過する。

 援軍とやらは一向に姿を見せなかった。


 唐兵たちがよろよろと立ち上がり、武器を掴む。

 喧嘩剣を握るルーヴェが俺に近づき、囁く。


「だいじょうぶ。なにもきてない」


「あれ~?」


 アキが小首をかしげると、シャク=シャカが肩を揺らした。


「今の、ラプトルの声かい? 見事な芸だな。感服するね」


 ところで、と彼は顎を真横に向けた。


「援軍ってのはあれのことかい?」


 彼が示した先はある建物の屋根だった。

 そこには蟻が積む砂粒のように大量の――ラプトルの生首が積まれていた。


 アキが絶句する。


「カーカーうるせえから全部ぶっ殺しちまった。……もしかして、お友達だったのか? そりゃ済まねえことをした」


 シャク=シャカは濡れた刀を肩に担ぎ、笑った。


「だが大ぇ丈夫だ。すぐ一緒のところへ送ってやる」


「!」


 ほとんど何の前触れもなく、シャク=シャカが踏み込んだ。

 橋は半壊しているというのに、躊躇なく。

 宙に白銀の三日月が描かれる。

 一つ、二つ、三つ。


 その動きはアキの想定を遥かに超えていた。

 彼女はよろめきながら後退し、かろうじて刃をかわす。


「ぅ、わっ!?」


 だん、だ、だん、とシャク=シャカが更に数歩踏み込む。

 火の玉じみた赤い残影を見る者の目に残しながら。


 舞とも地団太ともつかぬ歩みの後、宙に蜘蛛の巣状の剣閃。

 アキが目を丸くすると同時に手で顔を庇う。

 その手の甲にすぱっと亀裂が入り、彼女は悲鳴を漏らした。


「うぐっ?!」


 刀を振るう最中、シャク=シャカは空いた手で腰の巾着を掴む。

 下手から放り、宙で叩き割る。

 ぱっと砂が舞った。


「ぅっ!」


 アキが更にたじろぐ。

 顔を両手で庇った彼女の脛をシャク=シャカの刀が切り裂く。


「うァっ?!」


 ぶぱっと血が飛散し、アキが膝をつく。

 唐最強の男は軽い所作で刀を振り上げた。


「じゃあな」


 赤い刃が処刑人の斧さながらに振り下ろされ――――




 ぎいいん、と弾かれる。




 アキを庇う形で一人の女が立っていた。

 もちろん人間ではない。恐竜人類だ。


 長い髪はまばゆいほどの金色で、背が高い。

 腰を一周する形で黄色い宝石が繋がれている。

 ルーヴェが警告を発する間もないほどの速度で彼女はその場に割り込んだ。

 おそらく上階から飛び降りたのだろう。


 その手には氷のように白い刃。


「……誰だい、あんた」


 シャク=シャカが問うと、金髪の女はうっそりと告げた。


「ユリ」


「あん?」


「『百合の黄色い清い熱い蜜』」


 どこか弱気さの覗く顔立ちだった。

 内腿をすり合わせており、眉は困ったように少し垂れている。


 俺の傍で、ルーヴェがぞわりと身震いした。

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