第21話 19
「はー、はー、はー、はー」
ハンリ=バンリが溜息を声に出しながら近づいてくる。
両手をひらひらさせていたがその歩みは淀みなく、突破する隙間も見当たらない。
彼女が引き連れる唐兵は一人残らず武装していた。
鎧をがちゃつかせる者もいれば、葦原の忍者と似た格好の者もいる。
例外はフソン=ブソン一人だ。彼女は相変わらず動きづらそうな衣装を身に纏う。
「ハン――」
俺の声を遮るようにしてハンリ=バンリが片手を上げた。
天を向いていた槍の穂先が一斉にこちらを向く。
数十の切っ先に睨まれ、俺は息を呑んだ。
「……」
俺は抜剣しようとするルーヴェを小声で制した。
「やめろ」
こちらには戦闘不能に陥ったシアがいる。戦うことはできない。
奇跡的に彼女たちを皆殺しにできたところで事態は深刻化するだけだ。
シャク=シャカの相棒を殺したなんて知られたら死ぬまで殺し屋に追い回されるだろう。
褐色の女は槍衾をかき分けて歩き、こちらに顔を寄せた。
「ハンリ=バンリ」
「はぁい?」
「俺のいた部屋が燃えてるんだぞ。こんなところで――」
「もう消し止めたよ。ご心配なく」
「何……?!」
目を三日月形に歪め、彼女はせせら笑った。
「石材を張ってるのよねえ、あの部屋」
「!」
「もしかしてああやって抜け出すの、自分が初めてだとでも思った?」
「……」
そこまでうぬぼれてはいない。
ただ、無我夢中だったので「もしかしたら過去に同じ方法で脱走した奴がいて、対策されているかも」ということまでは考えが及ばなかった。
俺は顔に火が点くような羞恥を覚えたが、さっと先ほどの部屋から逃げ出す
「こいつら、狂暴化してるぞ」
「狂暴化?」
「あら、本当」
フソン=ブソンが口元に指を当て、閉じた瞼を逃げる竜に向ける。
「前と音が違いますねぇ。心臓の音が」
「……どういうこと?」
「何か細工されてますねぇ。薬かしらぁ?」
言いながら、彼女はコンピーが消えた暗い廊下に目を向ける。
夜更けの闇の中から、ひょうと風が吹いた。
狂暴化した媚竜の群れは今もなお唐の街で暴れ回っているに違いない。
眠る子の頬肉を引っ張り、老人の喉笛に噛みつく。
厨房を所狭しと駆け回り、そこら中に爪痕を残す。
時折、あの鶏冠恐竜が人を襲う。
肉が裂け、血飛沫が上がる。
「……」
そうした音をフソン=ブソンは確かに聞いたに違いない。
横を向く彼女の口元に微かな緊張を感じる。
が、それはすぐに消えた。
こちらを向いた彼女は冷ややかな笑みを浮かべている。
「何か聞こえた?」
「ええ。業突く張り共が身を滅ぼす音がねぇ」
ふっとハンリ=バンリが鼻で笑う。
俺は痒みにも似た苛立ちに奥歯を噛んだ。
「まだ街には人が残ってるんだろう? 助けに行かないと……!」
「さっき言いましたでしょう? こんな夜更けに何ができるんですぅ? 火ぃ持ってうろうろして、転びでもしたらまた火事に――。――」
フソン=ブソンは何か思うところがあったのか、語尾を濁した。
代わりにハンリ=バンリが肩をすくめる。
「避難指示ならとっくの昔に出してる。ここに残ってるのはそれに従わなかった奴」
「従わない?」
もちろんこのお屋敷の主は別だけど、と前置いてバンリは続ける。
「明日の昼、増援が来るでしょ? 恐竜の数によっては市街地での戦いになることもありうる。その時に街に残っていれば『おこぼれ』にありつけるでしょ」
「!」
なるほど、と思わず感心する。
恐竜の骨や皮、鱗や牙は高値で売れるに違いない。
軍の目的は恐竜の駆除あるいは掃討だ。
街路に放置された死体や野に打ち捨てられた骸をそれ以上どうこうすることは無い。
昨晩の連中のようにさっと集まってさっと部位を切り取って持ち去るだけでまとまった金が手に入る。
それに軍が押し寄せるということは女や物資がよく売れるということでもある。
商売の種類によっては『稼ぎ時』だ。
(~~~~!)
眩暈がした。
すぐそこに恐竜の巣があり、続々とラプトルやティラノが湧き出しているというのに、まだ金や利得にこだわる者がいるらしい。それも大勢。
叶うならば俺が見て来た光景を見せてやりたかった。
――――いや、見せても結果は同じだろうか。
「あなたが心配すべきは自分のことじゃない?」
ハンリ=バンリが髪をかき上げた。
灯りを持つ兵が律儀に彼女の顔を照らし、褐色の肌が闇に浮かび上がる。
「脱走ご苦労様」
「! 脱走したわけでは――」
赤い瞳が俺を逸れ、シアに向いた。
彼女は俺に背負われたまま、まだすうすうと寝息を立てている。
「……国を越えた愛ってやつ?」
くくっとハンリ=バンリが笑うと、フソン=ブソンも口元に手を添え、肩を揺らす。
「見えはしませんけど、ずいぶん傷だらけになられましたねぇ、九位。そんなに大切なんですねぇ、その人が」
「そうそう。弓兵が狭い部屋で大立ち回りしてまで……ふふっ。泣かせるぅ」
「泣くのは私らだけではないでしょう。懸想のために無様を晒すだなんて、九位の名も泣いているでしょうねぇ」
(……)
愛。
懸想。
人と人との関係をどうしてそんな簡単な言葉で片付けようとするのか。
目の前の女たちはなおもけらけらと笑い続けている。
唐兵もそれにつられ、追従笑いを浮かべた。
「――、――」
「――――」
怒りは感じなかった。
ただ、虚しさのようなものを感じた。
目の前で笑っている二人の女とは、おそらく俺は生涯分かり合えないだろう。
「はー……ま、いいや何でも」
ひとしきり笑ったハンリ=バンリは片手を上げた。
顔には笑みを残したまま、声だけが暗く、低いものに変わる。
「捕らえて地下へ。手足を拘束しなさい。上には私が報告しておく」
「まっ――」
「待ちませんよぉ」
槍の穂先よりも先にフソン=ブソンの刀が動いた。
月光さながらの弧を描いたそれは俺の鼻先でぴたりと止まる。
踏み込みは――見ることすらできなかった。
「まさか『事故だ』で済ますわけじゃございませんよねぇ?」
「……事故だ」
「それで済むわけがないでしょうに」
「立証できるのか」
盲目の剣士は唇を歪ませた。
「今ここにこうして立ってますやろ? それで十分」
「道に迷っただけだ。ルーヴェがここに恐「私らを疑わせた時点で」」
言葉を被せたフソン=ブソンは刀を軽く揺すった。
喉笛をばっさり斬られる光景が脳裏を過ぎり、膝が笑いかける。
「証拠なんて要りませんよぉ。李下に冠を正さず、瓜田に履を納れずってご存知ないかしらぁ?」
葦原に居た頃の名残だろうか。
微妙に声の抑揚を変えたフソン=ブソンが刀を下ろす。
彼女が槍衾の奥へ引っ込むと、入れ替わりに槍の穂先がこちらへ近づく。
「やっぱり宦官、必要だったみたいねぇ。もう手遅れだけど」
笑うハンリ=バンリも槍衾の奥に引っ込んでいる。
「捕らえろ」
「ワカ!」
ルーヴェが動こうとした途端、じゃがががっと穂先が彼女を向いた。
その切っ先は俺の見通しの甘さを咎めるかのように鈍く光る。
(やるしかない、か……?)
ハンリ=バンリは『やる気』だ。
俺の脱走にかこつけてあらゆる罰を課すに違いない。
冷たい地下に放り込まれ、ルーヴェの秘密を明かせと拷問されるのがマシか。
それともこの場を力ずくで潜り抜ける方がマシか。
(~~~~!)
どちらも死へ向かう道だった。
ならばせめて、と考え、弓を掴む。
心音でそれを察したのか、いち早くフソン=ブソンが動――――
「お、お待ちを!」
唐兵が一斉に後ろを向いた。
隙あり――と思いかけたが、ハンリ=バンリとフソン=ブソンの目はこちらを向いたままだった。
どだだだ、と転がるように駆けてきたのは二人の男だった。
見れば衣服は焼け焦げ、髪は縮れている。
二人はバンリの足元に膝をつき、手の平に拳をぶつける独特の構えで頭を垂れた。
「な~に~?」
ハンリ=バンリはこちらを向いたまま気だるげな声を投げる。
「ワカツ九位脱走の件、やはり我らの思い違いではないかと思われます!」
「……。いや、いやいやいや。実際こいつらここに来てるでしょー? 自分の部屋に火を点けてここまで逃げて、エーデルホルンの子連れて逃げようとした――で筋が通るじゃない?」
「自ら火を点けたのなら我らに消火の指示など出さぬはずです」
「……。……え、何? こいつ、あんた達に手を貸したの?」
そこでようやくバンリが振り向いた。
二人の男は頭を垂れたまま続ける。
「我々、恥ずかしながら火を前に取り乱したのですが……」
「九位殿が濡れた砂を使えと」
「……」
言った。確かに。
よく考えたらとんだ間抜けだ。
この二人の不手際に苛立ったのも理由の一つだが、自分の起こした火事で万が一誰かが――兵ならともかくこの家の住人が死んでしまったら、という恐怖が胸中を過ぎったのだ。
「水を運ぶには
「火勢はかなりのものでした。九位殿の助言が無ければおそらく――」
「石材があるでしょ」
「火の粉と熱を完全に遮ることはできません。現に上階では壁が焼け落ちる寸前でした」
「……」
「邸に火事を起こし、混乱に乗じて逃げ出すつもりならあの場で我らを射殺せば良いだけです。しかし九位はそれをしなかった」
「自作自演ではあり得ませぬ。お考え直しを」
(……)
二人の男がどんな顔をしているのか、俺には分からなかった。
本気で俺の誠意を信じているのか。それとも自演だと分かっていながら俺を庇っているのか。
唐兵の間に静かな波紋が広がった。
振り返ったハンリ=バンリの目に憎々しげなものが映る。
彼女は法と正論を盾に俺を追い詰めようとしていた。
ここで二人の兵の言葉を振り切って強硬手段を採れば、必ず納得しない者が出る。
納得しない者が出た場合、この一件は彼女の上官か、あるいは相棒であるシャク=シャカの耳に入る。
そうなると彼女には不都合だ。
「ブソン」
「はいな」
ハンリ=バンリは俺を指さす。
「あいつの心臓、何て言ってる?」
(!!)
まさか。
まさかこの女、心音を聞くだけで嘘まで見抜くのか。
どきんと心臓が跳ねる。まるで俺とは別の生き物のように。
だがフソン=ブソンは首を振った。
「ダメですなぁ。あれ、嘘つき過ぎてますから。隠し事が多すぎて常時心臓がばくばくしてます」
(……)
とたたた、と数匹の媚竜がこちらへ駆けてくる。
口には肉やら油やらをこびりつかせており、目は真っ赤に血走っていた。
バンリの軽い所作で兵たちが槍を振り下ろし、小型恐竜は瞬く間に串刺しにされる。
貫かれた恐竜はびちっ、びちっと魚のように跳ねた。
「……この子らがこんなに暴れるんならな、火ぃ、確かに点くかも分かりませんねぇ」
フソン=ブソンは思案気に顎に手を置いた。
「私の知っとる媚竜じゃないみたいですわぁ」
「……」
ハンリ=バンリはまだ納得していないようだった。
彼女は直感的に俺が嘘をついていると理解している。
ただ、立証ができない。
立証ができない場合、心証が優先される。
俺は見張りに助言をし、ボロボロになるまで戦い、シアを危地から救出した。
唐兵はヤギなのかも知れないが、ヤギにも情けの心はある。
俺を同情的な目で見る者は少なくない。
この状況を覆す何かが無い限り、バンリは不用意に俺を拘束することはできない。
「どうしますかねぇ。無理くりひっ捕まえてもええですけど、シャク=シャカの旦那は怒るでしょうなぁ」
「……」
長い沈黙の後、ハンリ=バンリは舌打ちをした。
結局、俺たちは別の貴賓室に押し込まれることになった。
そこは部屋数が三つもあり、寝具の質も壁材も明らかに先ほどの部屋より上等だった。
おそらく本物の客室だろう。
場所は邸の四階。
日が昇れば、先ほどの部屋よりもずっと遠くまで見渡せるだろう。
良い部屋を宛がいはしたが、ハンリ=バンリは怒っていた。
まず俺たちから武器を取り上げた。
そして――――
「あら。心臓、また変な打ち方してますねぇ?」
寝台の隅に腰かける女がゆらりとこちらを見やった。
その瞼は完全に閉じている。
――フソン=ブソン。
彼女が俺たちと同室することになった。
不審な動きを見せたら即、叩き切れ。
それだけ言い残してハンリ=バンリは去っていった。
更に扉の向こうには唐兵が数人詰めている。
(……)
「傷の手当ならお気になさらず。私、裸は見えませんからねぇ」
長巻に似た形の燭台。
火皿の上で身をくねらせる芋虫にも似た炎が揺れる。
窓は解放されているが、縄のような気の利いたものはない。
飛び降りても下に屋根や
そして――――
「手当はほどほどにして、今はお休みになられた方が良いでしょうなぁ」
「……」
「夜が明けたら九位、休む暇なんてありませんよぉ。検査に聴取に護送……慌ただしいですなぁ」
明日の昼、三万の兵が到着する。
主たる任務は恐竜の駆除だが、バンリが一言添えれば俺たちの見張りも一気に増える。
数が増えれば闇も増える。
俺をどこかへ連れ去ることも、何かを聞き出すことも容易になる。
仮にその手を使わなかったとしてもハンリ=バンリは医者を抱き込むことができる。
診断書なんてものが唐にあるのか分からないが、熱病の疑惑があると一言添えられただけで俺は隔離される。
その前に何とかしな「何を決断しようとしていらっしゃるんです?」
フソン=ブソンが口元に薄ら笑いを浮かべている。
「よしてくださいよぉ。私、夜更けに運動はしたくないのでねぇ」
「……」
「隠し事、できるなんて思わんことです」
(クソ……)
怒りを飲み込む。
今は冷静に行動しなければならない。
俺は服を脱ぎ、下着一枚の姿になった。
シアは尻を突き出した珍妙な体勢でなおも眠り続けているし、フソン=ブソンは目が見えない。
ルーヴェ相手には羞恥の情も湧かない。
「つっ……!」
酒で湿らせた布で媚竜につけられた全身の傷を消毒する。
渡された粗末な包帯を巻くと、手足の皮膚のほとんどが見えなくなる有様だった。
冒涜大陸で負ったと思しき膝や脛の傷にも酒を染み込ませ、俺は疼痛に震える。
「ワカ」
「ん?」
「わたし、じゃま?」
武器を没収されたルーヴェは寝台の上で膝を抱いていた。
顔は相変わらず鷹のようだが、少しだけ弱気になっているようだ。
「わたしいると、シアとワカ、こまる?」
俺はルーヴェの頭を撫でた。
「気にするな。霧の向こうでは俺たちがルーヴェを困らせた」
「……」
わしわしと頭を撫でると、ルーヴェは元気の無い猫のように顔をしかめた。
自分の体質がこの事態を引き起こしたことに見当違いの罪悪感を抱いているらしい。
まさに見当違いも甚だしい。
彼女がいなければ俺とシアは恐竜の餌にされていた。
俺たちがここにこうしていられるのは彼女がいてくれたお陰だ。
その彼女がバンリに与することを拒むのなら、俺にはそれを叶える義務がある。
(……)
いいのか、と意地悪い声が聞こえる。
彼女を差し出せば葦原に速やかに引き返すことができる。
女一人と国一つ。その重みは比べるまでもない。
だが比べ続けなければならない。
さもなくば本当に九位の名が泣いてしまう。
「……ルーヴェ。恩は必ず返す」
「……」
「葦原についたらうんと美味いものを食わせる」
「うん」
「それからお前のやりたいこと、何でもやらせてやる」
「なんでも?」
「そうだ。何がしたい?」
ルーヴェは少し考え、言った。
「おとうさん」
「……探したいのか?」
「うん」
なら、人を配そう。
フソン=ブソンは退屈そうに手で自らに風を送る。
窓の向こうでは今も途切れ途切れに悲鳴が聞こえていたが、彼女は気にも留めていない。
シアが目を覚ましたのは朝日が目の高さに昇る頃だった。
うつらうつらしていた俺を呼んだのはフソン=ブソン。
彼女は目を閉じたままで、眠っているのか起きているのかすら分からない。
「起きられましたよ」
「ぅ……」
声に応じるようにしてシアがもそもそと枕を抱く。
やはり何らかの薬を仕込まれたのだろう。
ひどく気だるげに寝返りを打ったシアは片手でドレスの裾を抑えつつ、腕で目を隠す。
「わか、つ?」
「ああ」
「すみ、ません……ぅ……」
俺は水差しから水を注ぎ、彼女に呑ませた。
仰向けとなり、眉根に皺を寄せたシアはぐびぐびと喉を鳴らす。
「寝相、悪いんだなお前」
「何か飲まされたと分かったから……吐こうとしたんです」
「なるほど」
俺は手短に状況を伝えた。
ハンリ=バンリが防疫を名目に俺たちを監禁していること。
どうやらルーヴェの体質について何かを聞き出そうとしているということ。
そしてこの話を横で聞いているフソン=ブソンが俺たちを見張っているということ。
ついでに媚竜のことも彼女に伝えた。
「薬で狂暴化……?!」
「たぶんな。確証は持」
反応したのは、二人。
ルーヴェが飛び起き、フソン=ブソンが窓を開く。
目を刺すような朝日が室内に差し込む。
うっと呻く俺たち三人をよそに、盲目の女が呟いた。
「……来よりましたね」
遠くで、地響きが聞こえた。
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