第14話 13

 


 晴天の下に降り立った白銀の盗竜ラプトルは、反りの強い刀のようにも見えた。



 俺を追ってどこまで駆け抜けたのだろう。

 踵には草の汁が染みつき、後足の長い爪は根元まで血に濡れていた。


 奴は俺に背を向けたまま、コアアアア、と長い息を吐く。

 まるで「誰も手を出すな」と周囲のすべてを威嚇しているかのようだ。


銀羽紫ぎんばむらさき……」


 長い金髪の恐竜娘が呟く。

 その隣に立つアキが腰に手を当てた。


「はぐれ者が私たちに何の用?」


 アキ達が面白がるように俺へ近づこうとすると、クコココココッッ、とラプトルが吠えた。

 明らかに制止を促す声だった。

 いや。

 制止を『命じる』声。


 暴君竜ティラノであれ異竜アロであれ、口を利かない恐竜は自分たちより下等だと考えているのだろう。

 思いがけない剣幕を前に、恐竜娘たちが鼻白む。


「……横取りする気のようね」


 金髪の恐竜娘は淡々と事実を述べた。

 先ほどまでルーヴェを踏んでいた小さな恐竜娘がくくっとほくそ笑む。

 外見は子供のようだが、口の端には犬歯が覗いていた。


「アキちゃん。どうする?」


 アキは銀羽紫をじっと見据えた。

 その目はまだ笑っている。


「ごめんね? そっちの二人ならあげてもいいけど、ワカツは私がもらうの」


 言葉が通じているとは思えなかった。

 アキはおそらく声と言葉を介して自らの意図を伝えようとしているのだろう。

 盗竜は――いや、銀羽紫ぎんばむらさきは他の恐竜より圧倒的に賢い。

 アキの意を汲み、利害を察し、大人しく退くこともできただろう。


 だが、奴はそうしなかった。


「ねえ、どいてよ。……だめ?」


 しなを作ったアキが媚びるような目をしても、銀の盗竜は微動だにしなかった。

 地面と水平に伸びた尾は槍のごとく俺に向けられ、その背は怒りと昂揚に上下し続けている。


「ねーねー」


 アキがひょいと横をすり抜けようとすると、銀の盗竜は尾を揺らす。

 まるで意思を持った刃のごとくアキの喉に先端が突きつけられた。


「ぉーぅ」


 アキはすごすごと後ずさった。


「ワカツ、ずいぶん好かれてるんだね? いい匂いがするからかな?」


 違う。

 好かれているわけではない。

 憎まれているのだ。それも、心の底から。


 ちらとラプトルがこちらを見た。

 目を向けたわけではなく、視界の端に俺を置くような首の動き。

 ただそれだけで、俺の全身の毛穴からぶわりと汗が滲む。


 五度殺してもまだ足りない。

 恐竜女になぶり殺しにされてもまだ足りない。

 自らの手で喉を掻き切り、顔面をかみ砕いて初めて怨嗟は雪がれる。

 銀羽紫の目は、そう告げていた。


 復讐とは仕返しではない。

 決着は己の手でつけて初めて意味がある。

 それをこいつは知っている。 


「あーあー……しょうがないなぁ……!」


 アキの声が凄みを帯びる。

 合計五人の恐竜娘がくるっと横向きに一回転した。

 着地するや腰を低く落とし、両手を地に着く。



 そして緑色の翼を広げ――――世にもおぞましい金切り声を上げた。



「~~~~~?!」

「ッッッ!!!」

「っ」


 地に伏せるルーヴェが目を閉じ、耳を塞ぐ。

 俺は破裂するほど脈打つ胸を押さえ、シアは全身を強張らせた。


 毛を逆立てたヤマアラシのごとき恐竜娘たちが一斉に銀羽紫へ襲い掛かる。


 爪と爪とがぶつかり、鱗に覆われた体が地に叩きつけられ、女が悲鳴を上げる。

 泥が舞い、羽が飛び、獣じみた声と声が絡む。

 知恵と数では女たちが有利だが、ラプトルは天然の剣を持っている。

 槌が金床を叩くような音が何度も何度も繰り返される。


 銀の風が吹き、緑の嵐が吹き荒れる光景はもはや人の手に負えるものではなかった。


「……!!」


 俺は無様に地に伏せたままだった。


 これがアキ達の放つ本気の殺気。

 『餌』ではなく、『敵』に向ける殺意。

 これほどまでの恐怖を味わうのは初めてだった。


 がた、がたたた、と膝が笑い始めた。

 こちこちと鳴る奥歯を噛みしめても、今度は舌が痙攣し始める。

 思わず手足を丸めかけた俺は、かちゃりという音に気付く。

 靭の中の鏃。


「……」


 そっと手を入れ、握る。

 赤い血が滲みだす。

 痛みと熱で我に返る。


 足は動いた。

 ざりりと土を抉りながら膝を立てる。

 腰にも力が戻ってきている。

 今なら立ち上がれる。


(……)


 アキ達に加勢しようとヨル達が迫ってきている。

 その歩みにどこか余裕があるのは、アキ達が銀羽紫に負けないと知っているからなのだろうか。

 年嵩の恐竜娘の顔には笑みすら浮かんでいる。


 あの笑みは、いずれ人間たちにも向けられる。

 そう考えただけで全身を熱い血が巡った。


 どさりとすぐ傍に叩きつけられた恐竜娘が弾かれたように立ち上がり、銀羽紫に飛びかかる。


 これがアキ達の放つ本気の殺気。

 『餌』ではなく、『敵』に向ける殺意。

 これほどまでの恐怖を味わうのは初めてだった。

 この恐怖を、誰かに味わわせるわけには行かない。


「はっ……! はっ!」


 どうにか立ち上がった俺は傷を負ったわけでもないのによたよたと走り、シアとルーヴェの手を掴む。

 穴から引きずりあげるように立ち上がらせ、喚く。


「立て!! 走れっっ!!」


「――――!」


 ヨルが何かを叫ぶ。

 アキ達の戦いを見物していた恐竜娘たちが一斉に駆け出す。


 だというのに、シアとルーヴェはまだ呆然としていた。

 俺は思い切り振り上げた弓で彼女たちの頬を殴りつける。


「ふぶっ?!」


「えぷ!」


「起きろ! 走れ!!」


 言いながら、俺は駆けだしていた。

 彼女たちがついてくると信じて。

 まずシアが立ち上がり、それからルーヴェが立ち上がった。

 二人の息遣いが俺に追いつき、俺に並ぶ。


「はっ……はっ!」


「ハァっ! ハァっ!」


 霧。

 霧はもうすぐそこだ。

 もう百歩を切っている。

 あと百歩。百歩走ればたどり着ける。


 いつしか俺たちは両手をぶんぶんと前後に振り、競い合うように駆けていた。

 遅れた者が殺されると考えての無慈悲な全力疾走ではない。

 背後に迫るヨル達の気配から、俺たちはただ逃げた。

 人間というか弱い生物として、ただ一心不乱に駆けていた。


「はっ! はっ!!」


「っ! はっ」


 転がるようにして走る。


「逃がすな!!」


 ヨルが叫ぶ。

 もうその声が聞こえるほど接近されている。


「霧に向かってる!!」


「行かせるな! 引き戻せ!」


 したたたた、と奇怪な足音が近づいてくる。

 既にアキ達の戦闘音は遠ざかり、聞こえるのは追跡者の爪音だけだ。

 追いつかれたら、死ぬ。

 その錯覚が爪音を津波のようにも感じさせる。


 霧まで四十歩。


 ぼろぼろとルーヴェの身から何かが落ちた。

 それは骨だった。

 隠し持っていた骨の武器をすべて投げ捨て、彼女は駆けに駆けている。


 霧まで三十歩。

 二十五。

 二十歩。


 かたん、たたん、と何かが後方へ転がる音。

 それは竹だった。

 隠し持っていた竹の道具をすべて投げ捨て、シアが犬じみた全力疾走を見せている。


 霧まで十五歩。

 十四。

 十三。


 俺は走りながら籠手を外し、投げ捨てた。

 靭の中身を捨て、ブーツを脱ぎ捨てた。

 後方へ転がるそれらが恐竜娘たちにぶつかる音。


 シアが剣を投げ、腰帯を投げた。

 ルーヴェが靴を捨てた。

 俺は靭を捨てた。

 ヨル達が唸り声を上げる。


 五。


 四。


 三。


 二。


 ごるるるる、とヨルが最後に唸り声をあげた。

 それは暴君竜ティラノそっくりの咆哮だった。 


 一。


 霧に立ち入った瞬間、後方でどだんどだんとティラノの足音が聞こえた。

 どうやらヨルの最後っ屁で呼び寄せられたらしい。


 一頭ではない。

 少なくとも三頭はいる。

 そう意識した瞬間、五感が混ざり合い、溶け合う。


「!!」


 ぐにゃりと世界が歪んだ。

 目に見えるものと耳に聞こえるもの、鼻で嗅ぐもの、舌で味わうもの、肌に触れるものの境界が曖昧になっていく。


 苦い音。茶色の声。

 ちくちくする土が視界に明滅を起こし、霧の白が皮膚をざらりと撫でる。

 掌中に突き刺さる鏃の痛みが味覚に跳ね返る。


「~~~!!」


 見ればシアも片膝をついていた。

 ティラノはすぐそこにまで迫っている。もはや一刻の猶予もない。

 俺は親指を鼻の穴に突っ込み、そのまま鼻を剥――




 ルーヴェが俺の手を掴んでいた。




「な に し て る の」


 こちらを見たルーヴェの甘酸っぱい顔。

 ぬるぬるする唇が動き、青黒い言葉が文字となって飛び出す。



 な ん で きゅ ぅ に こ ろ ぶ の



 苦い言葉が鈴を鳴らすような音となって脳裏に響く。

 ルーヴェの目がぎょろりと動き、塩辛い味が舌に広がる。


 は し って 


 俺の口から灰色の言葉が漏れた。

 何を言っているのか自分でも分からなかった。


 は しら ない と し ぬ


 ルーヴェの酸っぱい手が俺を引きずり起こす。

 つるつるした黒いシアが立ち上がり、蜂蜜のように甘い声を漏らす。


 な ん で ふつう にはな せる の


 ルーヴェは答えず、俺たちを連れて走り出す。

 こつっ、こつっと青臭い靴音が響くたびに舌の上でキュウリの味がする。


 と り あそこ に いる


 丸く大きく酸っぱい毛の塊を見つける。

 鳥だ。先ほど蔓の一撃で転んだ鳥はここへ逃げ込み、俺たちと同じように立ち往生していたらしい。


 塩辛いルーヴェが俺とシアを無理やりごわごわした鳥に乗せる。

 硬い羽毛が肌を切り裂くようで俺は呻く。

 その呻きも文字の形となって口から泡のように立ち上った。


 背後から焼けるほど舌に熱いティラノ三頭が迫る。

 どだっ、どだっと地が揺れる。

 ルーヴェが鳥の腹を蹴る。







 アキの言った通り、霧は以前より薄れているようだった。

 その証拠に、俺は嘔吐せずに済んだ。


 ただ、相変わらず五感はでたらめに入れ替わったままで世界に何が起きているのかを正確に知ることはできない。


 分かるのはシアとルーヴェが無事であること。

 俺が弓を掴んでいること。

 ルーヴェが鳥の腹を蹴り続けていること。


 それから、たった今ティラノが倒れたこと。

 これが二頭目であるということ。

 三頭目はなおも俺たちを追い続けている。

 そのざらざらした足音が肌と脳をやすりのように削る。


(……)


 俺は明滅する視界の中、甘酸っぱいルーヴェを見た。


 アキの言葉を思い出す。

 彼女たちが外の世界に侵攻することを決めた理由は「霧が薄れた」から。

 裏を返せば、彼女たちですら霧のもたらす五感崩壊には抗えない。


 だが目の前で鳥を駆る女は違う。

 ルーヴェはなぜか霧の中でも平然としている。

 その理由はいまだに分からない。


(――)


 いや、うっすらと察することはできる。

 ルーヴェは時折、匂いが見えるとか言葉が見えるといったことを口にしていた。

 あれが真実だったとすれば彼女が平然としていることにも説明がつく。


 おそらくルーヴェは生まれつき五感が入り乱れているのだ。

 匂いを見ることができるし、音を視覚的に捉えることができる。

 だから異様に感知範囲が広いのだ。

 絶えず生物の体臭や足音を目視する彼女は今日まで無事に冒涜大陸を生き延びることができた。


 しかも、と俺は薄れゆく意識の中で考えた。

 ルーヴェが感覚崩壊を『まったく』意識していないということは、入り乱れている五感は一つや二つではないということを意味している。

 彼女はもしかすると――――







 ぱっ、と。



 視界が開けた。







「ぶはっっあ!!」


 嘔吐する代わりに、俺は大量の唾液を口から散らせた。

 狂った五感の中を必死に駆け抜けていた鳥がとうとう力尽き、横倒しになる。

 俺、ルーヴェ、シアの三人は鳥から投げ出され、硬い地面に叩きつけられた。


 三人とも満身創痍だった。

 ぜえぜえというシアの吐息。ルーヴェが激しくせき込み、俺は山犬じみた喘鳴を漏らす。



「~~~~!!!」

「――――、――――!」

「……――――!」



 声がする。

 大勢の人間の声だ。


 男もいるし、女もいる。

 怒号に混じって笑い声が聞こえる。


(ここは――)


 俺は弓を掴んだまま地を押し、立ち上がった。

 どうにか片足で立ったところでよろめき、前方へふらりと倒れる。


「おっと」


 硬く弾力のある何かに顔がぶつかる。

 それが筋肉だと理解するまでに少し時間がかかった。


「へろへろだなァ、兄ちゃん。大丈夫か? 酒飲むか?」


 男の声。


 人間だ。

 やはりここは、外の世界。


 戻ってきた。

 俺は冒涜大陸から生還したのだ。


 手から力が抜け、弓がからんからんと地を叩く。

 目に涙が浮かび、膝ががくがくと笑い始めた。


 肉体が大声で叫ぶことを要請していた。

 怒りや悲しみといった感情の発露としてではなく、死地を生き延びたという実感を全身に思い知らせるために。

 俺は息を吸い、実際にそうしようとした。


 ――だが、足裏に地響きを感じて思いとどまる。


 務めを忘れてはならない。

 鏃でつけた傷の痛みで俺は我に返る。


 ティラノが、と俺は呻いた。


「ん?」


「てぃら……きょ、りゅ……」


 ずずん、と地響き。

 男の声が上を向いた。


「ほぉ……こいつァ珍客だ」


 長身の男が俺から身を離した。

 俺はふらついたが、どうにか両の足で立つことができた。


 ぐり、ぐりり、と何か鈍い音が聞こえた。

 それが男が肩を回す音だと気づき、ようやく俺はぱっちりと目を開ける。


 世界は斜陽に照らされていた。

 死にかけた太陽の放つ光は刺すほどまぶしいものではなく、柔らかい。

 金柑きんかんにも似た太陽は地平線に沈もうとしていた。


「待……」


 太陽から目を背けた俺が見たのは、背の高い男の後ろ姿だった。


 髪はくすんだ金色の芝生頭。

 身に纏うのはゆったりとした炎色の装束。

 長袖から伸びる腕は岩のようで、柄に紐の伸びた刀を手にしている。

 肌は日焼けしたように浅黒い。


 見覚えのある服だった。確かこれは――――


「下がって」


 耳元で女の声。

 見れば小麦色の肌の女が俺の手を引いていた。

 なされるがまま彼女に従うと、家屋の傍に寝かされたシアとルーヴェが見える。


 俺は男を振り向いた。

 彼は霧を飛び出した暴君竜ティラノとたった一人で対峙している。

 ――あまりにも、無謀だった。


 たすけてやらないと。

 そんな言葉を発しようとした唇が人差し指で塞がれる。

 女の目の色は赤だった。

 彼女はゆらりと波打つ黒髪を手で払い、ふっと笑う。


「ねえ! 彼、あなたのことが心配なんだって!!」


「心配だァ?! 俺を?!」


「そう!! あなたを!」


 だははははっと男が大声で笑った。

 その声は辺り一帯に響き渡り、俺はようやく自分のいる土地の広さに気付く。


 霧の漂う森に面したその土地は驚くほど広く、驚くほど雑然としていた。

 そこかしこに家々が軒を連ねており、いくつかは倒壊していた。 

 ざっと見て三百人はくだらないであろう群衆が詰めかけており、俺や俺の背後の男を指さしている。

 笑っているものもいれば、怒っているものもいる。

 感情すらも雑然としている。


 群衆の中には金髪の男と同じ炎色の服を着た連中も混じっていた。

 だがティラノと対峙する彼に加勢しようとする雰囲気は見られなかった。

 長い袖と袖の間で小銭が手渡され、忍び笑いが交わされる。


 冗談だろう、と思った。

 彼らは恐竜を前にして賭博をやっている。

 立ち向かった同胞の生死を賭けて。



 ぷわりと香ばしい匂いが鼻をつく。

 群衆の脇で男たちがせっせと何かを焼き、小銭と引き換えにそれを渡している。

 見たこともないほど大きな肉だった。

 牛よりも馬よりもずっと大きな何かの肉。

 ごわごわした鳥だ。冒涜大陸で見たあの鳥。

 はっと見れば、俺たちが乗ってきた鳥も今まさに物陰へ連れ込まれ、解体されるところだった。


 あれは屋台だ。

 肉を焼いて振舞う屋台。

 そう気づいた俺は、ぼごんどごんという音に気付く。


 屋台のすぐ近くでは子供たちが壁に向かって何かを蹴っている。

 恐竜の出現に怯えていないことも不穏だったが、目を凝らした俺は愕然とする。

 彼らが蹴っていたのは、肉のほとんどを剥がされたラプトルの生首だった。




 ブアンプラーナじゃない。

 ここはとうだ。


 冒涜大陸を西へ向かった俺たちはとうに出てしまったらしい。




「……!!」


 ずずう、という地響きに振り返る。


 戦いはすでに終わっていた。

 ティラノの足首の肉がべろんと剥げており、腱が切断されていたのだ。


「今日のはちっと小せえなァ」


 ごるるる、と。

 ティラノが悲痛な呻きを上げ、その頭を地に垂らす。

 男は軽い所作で恐竜に飛び乗り、ぬかるみの石を飛び移るようにひょいひょいと巨体を渡った。


 そして豆腐に箸でも刺すような気安さで、正確に気道を貫いた。

 ぶし、と目に見えない空気が噴き出し、短い髪を揺らす。


「あー……と。この辺か?」


 男は抜いた刀をティラノの腿付近に突き立てた。

 根元までぐいと突き入れ、濡れた刀を引き上げる。


 どぷん、どぷっと湧水のように血が噴き出す。

 足首の血と交わったそれは池となり、乾いた地面がじゅうじゅうと歓喜の声を上げる。


 わっと群衆が駆け出した。

 まるで競争でもするように互いを押しのけ、傷ついたティラノに殺到する。

 ぱしゃぱしゃと血の池の水が跳ねた。

 真っ赤な靴跡が辺りに残され、葦原と似て非なる服の裾に血しぶきが飛ぶ。


 蟻が集るようにして殺到した人々はティラノの肉を切り取り、掴み、握り、引きちぎる。

 のたうつ尾が数人を吹き飛ばし、やぶれかぶれで振り上げられた爪が女を引き裂くのもお構いなしだ。

 彼らは我先におこぼれにあずかろうとしている。


「おいおいおいおい!! あんまがっつくなよ!! どうせまた出て来るんだからよぉ!」


 男は軽い調子でそちらに声を投げ、それから笑った。

 憎らしいほど無邪気な笑い声だった。


 大股でこちらに近づいた男は、首を伸ばすようにして俺を見下ろす。

 血に濡れた刀をぶんと一振り。

 血しぶきが地に南天じみた痕を残す。


 男はやはり笑っていた。

 害意のない、しかし、研ぎ澄まされた鋭さを持つ笑み。

 年は二十代半ばのように見える。


「あんた……あれだろ? 葦原の。あー……十空じゅっくう?」


十弓じゅっきゅうね」


 ルーヴェの顔を手ぬぐいで拭きつつ、黒髪の女が答えた。

 立ち上がろうとするシアを手で制し、彼女は赤い目をこちらに向ける。


「その狩衣……。緑色ってことは確か、九位じゃなかったかしら?」


「九位!! ああ、知ってるぜ!」


 背の高い男は煌々と燃える火を思わせる目を輝かせた。


海老えび飼いワカツだ!!」


「……蛇飼いじゃなかったかしら?」


「おお、それだそれ! なァるほどなァ。確かに骨のありそうな面ァしてるぜこいつ」


 顔を覗き込まれ、俺は思わず目を背けた。

 この男の存在感。

 アキたちとは違う意味で大きすぎる。


「そう縮こまる事ァねえ!! 俺ァ葦原の人間が好きだ。無断で国境をまたぐような奴も好きだ!! つまり兄ちゃんには四倍の好意を持ってるってことだ!」


 かっははは、と大声で笑う男を前に、シアもルーヴェもぽかんとしている。

 男の笑い声の他に聞こえるのはティラノの肉がむしられる音と、その肉が焼かれる音。

 それに淡白な群衆の囁きだけだ。


 俺は渡されたまずい水で喉を洗い、言葉を絞り出す。


「お、俺は葦原のワカツ九位です。こちらはエーデルホルンのオリューシアと、友人のルーヴェ」


 男は女二人の手を握り、ぶんぶんと上下に振っている。

 それなりに背の高いシアが彼の前では子供同然だ。


「失礼ですがあなたの……いや、貴官のお名前は?」


「おっと。名乗ってねえな」


 男は刀を鞘に収め、炎色の軍服をひるがえした。

 そして小粋な仕草で自らの顎に触れる。


「俺の名はシャク=シャカだ」


「!」

「!」


 俺とシアは思わず顔を見合わせた。


「で、そっちは相棒のハンリ=バンリ」


 黒髪の女が俺とシアに流し目を向ける。

 赤目の彼女は露出の多い軍服を纏っていた。


(シャク=シャカとハンリ=バンリ……)


 五大国の軍に身を置く者で、シャク=シャカの名を知らない者はいない。

 俺に『蛇飼い』の二つ名があるように、彼にも通り名がある。




 シャク=シャカの二つ名は――――『とう最強の剣士』。




「お?」


 赤い目を持つ男は再び霧へ目を向けた。

 異竜アロが二頭、白霧の中から這い出すところだった。


「っかはは!」


 彼は真っ白な歯を剥いた。

 喉はぷっくりと膨らんでおり、首には蔓のごとき血管が走っている。


「肉がてめえから食われに来やがる。何ていい時代だ」


「下味がついているとなお良いんだけどね」


「まァったくだ。香味が足りやしねえ! しまいにゃ砂つけて食っちまうぞ!」


 すでに群衆はティラノから離れており、あちこちから矢が放たれていた。

 指揮もなく、統率もまるで取れていないが――――数にして数百もの矢の雨。

 葦原とはまったく違う。

 地面の匂いも。

 人の顔も。

 空気の乾き具合も。


「どれ。もうひと頑張りすっかね」


 シャク=シャカは俺に背を向け、ひらひらと外套を揺らしながら恐竜へ向かって歩き出す。

 二頭のアロが気づき、赤目の剣士に目を向けた。


「お! そうだそうだ」


 唐の勇将はぽんと拳で手のひらを打った。

 まるで大事なことを思い出したかのように。


 今まさにどたどたと駆け出す恐竜の姿を背景に、男は悠然とこちらを振り返った。


「ワカツ九位!」


「な、な、あんた後ろ! 後ろ!」


 シャク=シャカは、にいっと笑った。



「歓迎するぜ。ようこそとうへ」



 赤い衣を纏う男は恐竜のように笑った。

 そして、赤い風となって恐竜に襲い掛かる。

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