呪いの手帳
時刻は午前五時。
ある高級ホテルのある客室の前に、一人の男が立っていた。
男は周囲に誰もいないことを確認すると、ドアの鍵穴にピッキングツールを数本差し込む。鍵はものの十秒で音もなく開き、男は体を滑り込ませるように客室に忍び込んだ。
日の出にはまだ早く、明かりも点いていない室内はほとんど何も見えないほどに暗い。そんな中を男は静かに、しかし迷いなく歩く。同時に、懐に忍ばせた拳銃を取り出し、慣れた手つきで銃口にサプレッサーを取り付ける。
男は暗殺者だった。
今回のターゲットはこの部屋に一人で宿泊している初老の男。財界では名の知れた大物だが、腕の立つ暗殺者にとっては銃弾数発で片の付くいつも通りの獲物に過ぎない──はずだった。
ベッドルームに踏み込み、音とわずかな光を頼りにターゲットの位置を確かめようとした暗殺者。その耳に届いたのは、パチンという音。
直後、部屋中の電気が点灯。
思わぬ事態に混乱しつつも、暗殺者は片手で目を覆い、もう片手でそこにいる人物に銃を突きつけた。
その人物は、銃を向けられたまま悠々と口を開いた。
「ようこそ。待っていたよ」
ベッドに腰掛け両手を挙げる格好は降参のポーズそのものでありながら、その口調、その態度は暗殺者を目の前にした人間のものとは明らかに異なっている。
「貴様……何の真似だ」
引き金に指を掛けながら、暗殺者は静かに怒りを滾らせる。暗殺を察知していたにしては無警戒に過ぎ、暗殺を知らなかったにしては用意周到に過ぎる。その食い違うような違和感が、暗殺者を苛立たせていた。
その様子を眺め、鷹揚に頷いて初老の男は答えた。
「こうでもしないと信じてもらえないものでね。私は、今日の午前五時過ぎに何者かに暗殺されることを知っていた」
「だったら何故逃げない」
トーンを抑えたまま苛立ちをにじませた声で暗殺者は問う。しかし、男の答えは暗殺者の予想をはるかに超えるものだった。
「逃げられないからだよ」
「なに……?」
「私が知ったのは『暗殺者が来るという情報』ではない。『私が暗殺されるという未来』だからだ」
「ふざけたことを。未来が見えるとでも言うのか」
「ああ、断片的に、そして限定的に、だがね。しかも見えるのではなく読めるだけだ」
「読める?」
いつしか暗殺者は自身でも気づかないまま話に引き込まれていた。
そんな暗殺者の前で、男はサイドテーブルから一冊の手帳を手に取る。
「これがその未来が読める手帳だ。ここに昨日、私が暗殺されるという未来が書かれたわけだ」
「待て。それじゃ何か? その手帳が勝手に字を書き込むのか? しかも未来の出来事を?」
「ああ。信じられないだろうが、こればかりは信じてもらうしかない」
言われて、暗殺者は今の状況を思い出す。これが盛大な茶番か何かでもない限り、この男の話は真実としか考えられないのだ。
「分かった。その手帳が勝手に未来を書き込むんだな。そういうことにしておいてやる。それで? どうしてお前は逃げない?」
「この手帳には二つの欠陥があるんだ。一つは一日後の未来しか読めないということ。もう一つは、さっきも言った通り、書かれた未来は絶対に変えられない」
「絶対だと? 試したのか」
暗殺者の問いに、男は遠い目をして意味深な笑みを浮かべた。
「ああ、試したとも。誰かに殴られると書いてあれば、一日中部屋に引きこもっていても飛び込んできた不審者に殴られた。爆発物が送りつけられると書いてあれば、地球の裏側まで飛んで逃げても爆発物が届いて怪我をした。それが未来というやつなんだ」
「そんな、馬鹿な話が」
「馬鹿げてるだろう? だが事実だ」
男の顔には、演技ではあり得ない長年にわたる苦悩の色が覗いていた。
「だから殺されると分かっても逃げなかった、と」
「そういうことさ。だから抵抗するのではなく誘導するんだ。暗殺当日に一人でホテルに泊まれば家族や側近は巻き込まれずに済む。だろう?」
「そうか。それじゃ遠慮なく」
「その前に。君、気にならないかい?」
「……何がだ」
そう聞く暗殺者に、男は手帳を突き出してみせる。
「私は今日死ぬ。そして、手帳に書かれるのは明日のことだ。だったら、最新のページにはどんな未来が書かれているんだろうね?」
瞬間、暗殺者は虚を突かれた思いがした。
「なに?」
「言っただろう? 手帳には一日後のことが毎日書き込まれていく。昨日は今日の暗殺のことが書かれてあった。なら今日は明日のことが書かれるはずだろう? 私は今日これから死ぬというのに」
その言葉を聞いた直後、暗殺者は今までにない好奇心に駆られた。
一体何が書かれているのか。何も書かれていないという可能性は高い。だがそうじゃなかったら? あり得たかもしれないIFの未来か? それともまったくのデタラメか? いや、もしかするとあの世や、もっと世界の真理のような……
「さて、時間もないことだし開けてみたまえ。ちなみにまだ私も読んでなくてね。知らないままでは死ぬに死ねないというものだ」
男の言葉に急かされて、暗殺者は手帳を開き、パラパラとページをめくっていく。そして最新のページに辿り着く──。
『〇月×日、予定通りに海外の空港に着くと、昨日の暗殺が大きなニュースになっていた。自分は捜査網から逃げ切ったが協力者の一人が逮捕された。』
夜明け前の街に、小さな破裂音が立て続けに十数発鳴り響いた。
暗殺者の男は手荒くサプレッサーを外し、拳銃共々懐へ仕舞う。続けて手帳を手に取り、悩んでから懐へ。最後に手帳に貼られていた一枚の付箋をビリビリに破り、窓から投げ捨てた。
その付箋には、こう書かれていた。
『おめでとう。これで君は手帳の所有者になった。これから一生未来に支配されて生きることになる。分かりきった未来、逃れられない未来に支配される苦しさは私が保障しよう。何故なら私も散々経験したからね。
それでは死ぬまで頑張りたまえ。』
見知らぬ部屋(ショートショート詰め合わせ) 逃ゲ水 @nige-mizu
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